ルジェフ(ロシア語ご:Ржев;Rzhev)は、ロシアのトヴェリ州しゅうにある都市とし。人口じんこうは5万まん5757人にん(2021年ねん)[1]。州都しゅうとトヴェリから南西なんせいに126km、モスクワとリガを結むすぶ鉄道てつどうおよび国道こくどう(ロシア連邦れんぽう道路どうろM9)の途中とちゅうにある。ヴォルガ川がわの上流じょうりゅうに位置いちする街まち。
ルジェフはこの地方ちほうでもトロペツと並ならんで古ふるい都市としであり、ルジェフは歴史れきし記録きろく(ノヴゴロド法ほう)への初出しょしゅつを1019年ねんであると主張しゅちょうする一方いっぽう、トロペツ側がわはルジェフの名ながはっきりと記録きろくに登場とうじょうするのは、有名ゆうめいなトロペツ公こうでアレクサンドル・ネフスキーの祖父そふでもあるムスティスラフ・ムスティスラヴィチがルジェフを領地りょうちとしていた時代じだい(1216年ねん)にすぎないと主張しゅちょうする。どちらにせよ、中世ちゅうせいのルジェフはノヴゴロド公国こうこく、スモレンスク公国こうこく、ウラジーミル・スーズダリ大公たいこう国こくという三さん大国たいこくの争奪そうだつする土地とちとして重要じゅうようだった。
モンゴルの襲来しゅうらいの後のち、ルジェフはスモレンスク公こうの傍系ぼうけいの家系かけいに譲ゆずられ(ルジェフ公国こうこく)、その都ととなった。ルジェフ公こうは後のちに町まちを二分にぶんした。現在げんざいでもルジェフの町まちは「ドミトリー公おおやけ側がわ」と「フョードル公おおやけ側がわ」と呼よばれている。14世紀せいき半なかば、ルジェフは西にしのリトアニア大公たいこう国こくと東ひがしのトヴェリ大公たいこう国こくの両方りょうほうから何なん度ども攻せめられ、ルジェフ公おおやけらは周囲しゅういの村むらをすべて失うしなった。最後さいごには公おおやけらはモスクワへ逃のがれた。その子孫しそんであるルジェフスキー家かはロシアのアネクドートでよく取とり上あげられる滑稽こっけいなキャラクターとなっている。ルジェフは一時いちじトヴェリ領りょうとなったものの、後のちにポーランド・リトアニア共和きょうわ国こくに占領せんりょうされ、最終さいしゅう的てきにモスクワ大公たいこう国こくの領地りょうちとなった。
18世紀せいきには主おもに古こ儀式ぎしき派はの信者しんじゃである地元じもとの商人しょうにんたちが町まちの不動産ふどうさんのほとんどを買かい取とった。彼かれらは後のちにロシア革命かくめいが起おこると攻撃こうげきの的まととなった。第だい二に次じ世界せかい大戦たいせんでは、1942年ねん、モスクワ近郊きんこうへ追おいつめられた赤軍せきぐんがドイツ軍ぐんに対たいして反攻はんこうに出で、ルジェフとヴャジマへ向むかって進軍しんぐんを始はじめた(ルジェフの戦たたかい)。この戦たたかいでルジェフ付近ふきんのみを残のこしてソ連それん軍ぐんが前線ぜんせんを西にしへ押おし返かえし、さらにルジェフに残のこったドイツ軍ぐんの突出とっしゅつ部ぶに対たいして再度さいど攻撃こうげきが行おこなわれた(第だい二に次じルジェフ会戦かいせん)。激はげしい戦たたかいでルジェフの建物たてものは全すべて消滅しょうめつした。大戦たいせん中ちゅう、市しの人口じんこうの6分ぶんの1以上いじょうがドイツに送おくられ強制きょうせい労働ろうどうをさせられ、その他たの市民しみんのうち9,000人にんは射殺しゃさつされたり拷問ごうもんを受うけたり市しの中心ちゅうしんに設もうけられた収容しゅうよう所しょで飢うえたりして死しんでいった。これらの戦たたかいのため、古ふるい建物たてものは何なにも残のこっていない。
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座標ざひょう: 北緯ほくい56度ど15分ふん 東経とうけい34度ど19分ふん / 北緯ほくい56.250度ど 東経とうけい34.317度ど / 56.250; 34.317