一いち上じょう(いちのかみ)とは、筆頭ひっとうの公卿くぎょうを意味いみする一いちノ上うえ卿きょう(いちの しょうけい)を略りゃくした語かたりで、通常つうじょうは左大臣さだいじんのことを指さした。
天皇てんのうの師傅しふ(しふ)である太政大臣だじょうだいじんと天皇てんのうの代理だいりである摂政せっしょう関白かんぱくを除のぞいた公卿くぎょうの中なかで最高さいこうの地位ちいにある大臣だいじんがこれを務つとめた。すなわち、通常つうじょうは左大臣さだいじんが務つとめるが、もし左大臣さだいじんが欠員けついんもしくは一いち上じょうの資格しかくがない摂政せっしょう関白かんぱくを兼かねる場合ばあいには右大臣うだいじんが、それも不可能ふかのうな場合ばあいには内大臣ないだいじんが任にんじられることになっていた。ごく稀まれに大納言だいなごんが務つとめた例れいもある。一いち上じょうは蔵人くろうど別当べっとうを兼務けんむして蔵人くろうど頭あたま以下いかの蔵人くろうどを指揮しきし、陰陽いんよう寮りょう別当べっとうが置おかれた場合ばあいにはこれも兼務けんむした。
一いち上じょう任命にんめいの際さいには「一いち上じょう宣旨せんじ」と呼よばれる勅みことのり宣せんが出だされるのが通例つうれいだったが、一いち上じょうの左大臣さだいじんが摂政せっしょう関白かんぱくに就任しゅうにんすることで一いち上じょうを退しりぞく場合ばあいには、自みずから後継こうけいの一いち上じょうを指名しめいする場合ばあいもあった。特異とくいな例れいとして、左大臣さだいじん藤原ふじわら道長みちながが摂政せっしょう就任しゅうにんによって一いち上じょうを退しりぞく際さいに、当面とうめんの間あいだは大臣だいじん以下いか大納言だいなごん以上いじょうの7人にんの公卿くぎょうのうちその日ひ最もっとも早はやく出勤しゅっきんした者ものがその日ひの一いち上じょう職務しょくむを行おこなうこととしたことがあったが、これは右大臣うだいじん藤原ふじわら顕あらわ光こうと内大臣ないだいじん藤原ふじわら公こう季きが高齢こうれいで老耄おいぼれの気きがあることを道長みちながが危惧きぐしたための対策たいさくだった(『小しょう右記うき』長和ながわ5年ねん3月がつ16日にち条じょう)。久安ひさやす3年ねん(1147年ねん)には左右さゆう両りょう大臣だいじんの不在ふざいによって一いち上じょうとなった若輩じゃくはいの内大臣ないだいじん藤原ふじわら頼よりゆき長ちょうが、大おおいに政務せいむの再興さいこうを図はかって兄あにの摂政せっしょう藤原ふじわら忠ただし通どおりを圧倒あっとうしている。
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