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伊東祐清 - Wikipedia

伊東いとうゆうきよし

日本にっぽん武将ぶしょう

伊東いとう ゆうきよし(いとう すけきよ)は、平安へいあん時代じだい末期まっき武将ぶしょう伊豆いずこく豪族ごうぞく伊東いとう祐親すけちか次男じなんいみなゆうただし(『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』)、ゆう(『平家ひらか物語ものがたり』)、ゆうけんゆうちょう(『曽我そが物語ものがたり』)とも[注釈ちゅうしゃく 1]

 
伊東いとう ゆうきよし
伊東いとうゆうきよし菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)6がつ?
養和ようわ2ねん2がつ15にち1182ねん3月21にち)?
別名べつめい 九郎くろう通称つうしょう)、ゆうただしゆうゆうけんゆうちょう
氏族しぞく 伊東いとう河津かわづ
父母ちちはは 伊東いとう祐親すけちか
兄弟きょうだい ゆうやすしゆうきよし北条ほうじょう時政ときまさまえしつ三浦みうら義澄よしずみしつ万劫まんごう御前ごぜん工藤くどうゆうけいまえしつ土肥どいとおひらたしつ)、八重やえひめ、ほか
つま 比企ひきさんじょ
祐光ゆうこうゆうちょう養子ようし律師りっし(ゆうたい三男さんなん)
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生涯しょうがい

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みなもと頼朝よりとも乳母うばである比企ひきさんじょつまとしており、伊豆いず流人るにんであった頼朝よりとも親交しんこうがあった。安元やすもと元年がんねん1175ねん)9がつごろ平家ひらか家人かじんであるちち祐親すけちか頼朝よりともとうとしたさい頼朝よりとも危険きけんらせてがしている。『曽我そが物語ものがたり』によると、自身じしん烏帽子えぼしおやであることから、北条ほうじょう時政ときまさたよるように頼朝よりともすすめたという。

うけたまわ4ねん1180ねん)8がつ頼朝よりとも挙兵きょへいののち、平家へいけかたであった祐親すけちかゆうしん父子ふし頼朝よりともぐんらえられた。『吾妻あづまきょううけたまわ4ねん10がつ19にちじょうによると、そのさい頼朝よりともゆうきよしにかつて自分じぶんたすけたことによる恩賞おんしょうあたえようとしたが、ゆうきよしちち頼朝よりともてきとなっている以上いじょう、そのである自分じぶん恩賞おんしょうけることはできないとしてひまい、平家へいけ味方みかたするために上洛じょうらくした。『吾妻あづまきょうたてひさ4ねん1193ねん)6がつ1にちじょうによると、その平家へいけぐんくわわったゆうきよし北陸ほくりくどう合戦かっせんにした。『平家ひらか物語ものがたり』(さとし一本いっぽん)では、篠原しのはら合戦かっせん伊東いとう九郎くろうゆうにしたとある。

なお、『吾妻あづまきょう養和ようわ2ねん1182ねん)2がつ15にちじょうでは、祐親すけちか自害じがいげたさいゆうきよしみずからも頼朝よりともねがい、頼朝よりともこころならずもゆうきよし誅殺ちゅうさつしたとあり、平家へいけぐんくわわり北陸ほくりくどう合戦かっせんにしたとするうけたまわ4ねん10がつ19にちじょうおよびけんひさ4ねん6がつ1にちじょう記述きじゅつとは矛盾むじゅんしている[注釈ちゅうしゃく 2]

ゆうきよしつまである比企ひきさんじょは、義兄ぎけい河津かわづゆうやすし工藤くどうゆうけいたれたのち生後せいごあいだもないゆうたい曾我そが兄弟きょうだいおとうとそうとなった律師りっし)をり、ゆうきよし離縁りえんまたは死別しべつしたのちにそのともなって平賀ひらが義信よしのぶ再嫁さいかしている(つまはそのまき事件じけんられる平賀ひらがちょうみやびんだ)。また、頼朝よりともゆうしんからいのちたすけられた恩義おんぎ生涯しょうがいわすれず、ゆうきよし遺児いじ祐光ゆうこう伊東いとうそうあたえている。のち祐光ゆうこう子孫しそん設楽したらそう尾張おわりへと移住いじゅうし、後世こうせいへとつづいている。

一方いっぽうこう北条ほうじょう徳川とくがわつかえた仁杉にすぎ系譜けいふによれば、通説つうせつでは工藤くどうゆうけいとされる伊東いとう祐光ゆうこうゆうきよしとして掲載けいさいし、仁杉にすぎをその子孫しそん位置いちづけている[1]

日本にっぽん画家がか伊藤いとう信次しんじ昭和しょうわ37ねんごろ調査ちょうさした「寺野てらの伊藤いとう系譜けいふ」によれば伊藤いとう信次しんじゆうきよし子孫しそんであるとされている。なお系譜けいふ作成さくせい調査ちょうさ協力きょうりょくしゃには歴史れきし内田うちだあさひ静岡しずおかあおい文庫ぶんこ飯塚いいづか伝太郎でんたろう気賀きが正明寺しょうみょうじはやしぶくろくも三河みかわ郷土きょうど史家しか清水しみずさん名前なまえ記載きさいされている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 吾妻あづまきょううけたまわ4ねん10がつ19にちじょうゆうやすしとあるが、ゆうきよしあやまり。
  2. ^ 吾妻あづまきょううけたまわ4ねん10がつ19にちじょう養和ようわ2ねん2がつ15にちじょうは、どちらもちちしたがゆうきよし態度たいどこうどう美談びだんとしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 盛本もりもと昌広まさひろ戦国せんごく仁杉にすぎ動向どうこう」『伊東いとう研究けんきゅうだい7ごう、2008ねん。/所収しょしゅう:盛本もりもと中世ちゅうせい南関東みなみかんとう港湾こうわん都市とし交通こうつう岩田いわた書院しょいん、2010ねんISBN 978-4-87294-601-7

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 振草ふりくさ本郷ほんごう 本郷ほんごうまち編纂へんさん委員いいんかい、1955ねん1がつ1にち発行はっこう 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんサーチ
  • はちじゅうひめ千鶴ちづるまるたかし 著者ちょしゃ 伊東いとうまで 1971ねん11月25にち発行はっこう
  • 伊東いとうほん 曽我そが物語ものがたり 伊東いとう文化財ぶんかざい史蹟しせき保存ほぞんかい 2011ねん8がつ25にち発行はっこう ISBN 978-4-905375-00-5

関連かんれん項目こうもく

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