台 中 不敬 事件
概要
1928
その
犯人 の経歴
氏名 :趙 鏞宇の次男 ・趙 明 河 、1905年 (明治 38年 )4月 4日 生 。
本籍 :黄海 道 松 禾郡下里 面 長泉 里 310、住所 同 右
性格 :本人 在 鮮中は温順 で素行 も良 く、思想 上 の問題 点 も無 い。ただ、内地 渡航 後 の思想 については明 らかでない。
経歴 :1924年 (大正 13年 )、松 禾公立 普通 学校 卒業 、同年 4月 から1925年 (大正 15年 )6月 まで、松 禾邑内 医 生 ・趙 鏞基(叔父 )の書生 になる。同年 6月 から9月 迄 、黄海 道 金川 郡 庁 の職員 として雇 われる。同年 9月 中 、内地 に渡航 し、大阪 市 北 区 上福島 町中 三 丁目 620番地 にある大阪 電池 製作所 の職工 となる。1927年 (昭和 2年 )12月、台湾 に渡 る旨 の通報 あり。1928年 (昭和 3年 )1月 、台 中 市 栄 町 ニ番地 富貴 園 茶店 内 から年賀状 を実家 に郵送 したのを確認 されるが、これ以降 消息 不明 。
家族 :両親 、妻 、兄弟 ほか13名 がいるが、思想 や其 の他 の容疑 がある者 はいない。
資産 :資産 は持 っておらず、小作 人 として生計 を立 てている。
前科 :前科 はなく、手配 中 でも無 い[8]。
犯人 の動機
台 中 不敬 事件 と上山 満之 進 台湾 総督 の辞職 問題
「
経過
上山 の辞表 (5月 15日 )を田中 が受 け取 り、天皇 にその旨 を奏上 する。天皇 は辞任 する必要 はないという優諚 を田中 は受 けるが、これを上山 に伝 えず。上山 の帰京 後 、田中 が再度 辞表 を求 める。- 6月16
日 、上山 の辞任 が決定 する[16]。
後任
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→
*
上山 満之 進 台湾 総督 の辞任 問題 の歴史 的 位置 づけ
李 建 志 [32]。李 は、犯人 である趙 明 河 の死刑 執行 と台湾 総督 である上山 満之 進 の更迭 は、台湾 を統治 の強化 の為 の「秩序 劇 」であり、この2つの「秩序 劇 」は台湾 に於 ける<権威 的 捺印 >[33]=天皇 権威 の維持 する装置 であった[34]と述 べる。
王 鉄 軍 [35]。王 は「台 中 不敬 事件 」と後 に起 きた「霧 社 事件 」[36]に於 いて上山 満之 進 、石塚 英蔵 両 台湾 総督 は各 事件 に対 する政治 責任 を負 う形 で引責 辞任 したが、そこには台湾 総督 などの外地 長官 は「政治 家 、国家 官僚 として国家 から付与 された職務 を履行 しながら、それと対応 すべき政治 責任 を負 わなければならない政治 理念 」が存在 し、つまり、植民 地 である台湾 を民 的 (言葉 ・教育 など)、政治 的 (制度 ・体制 など)に内地 と同化 させなければならなくなったという背景 が存在 したのであり、上山 ・石塚 両者 の辞任 は、「党利 党略 といった党 の弊害 より、近代 民主 政治 上 の政治 家 ・官僚 の職務 と義務 関係 に生 じた政治 責任 」であった[37]と述 べる。
久邇 宮 邦彦 王 のその後
『チョ・ミョンハ
脚注
- ^ 『
別紙 第 一 「邦彦 王 殿下 ニ対 シ奉 リ不逞 鮮人ノ危害 ヲ加 ヘ奉 ラントシタル顛末 [秘密 三 二 三 一三 特 検 第 三 七 号 一 久邇 宮 殿下 ニ危害 ヲ加 ヘントシタル兇漢 ニ関 スル件 報告 特命 検閲 使 属 員 松木 直 亮 発 陸軍 大臣 白河 義則 殿 宛 昭和 参 年 五 月 廿 日 」〔「台 中 事件 に関 する軍部 の立場 の件 」JACAR(アジア歴史 資料 センター)Ref.C01003835500、密 大 日記 第 4冊 1928年 (昭和 3年 )防衛 省 防衛 研究所 〕』陸軍 省 、資料 作成 年月日 :1927年 (昭和 2年 )11月~1928年 (昭和 3年 )6月 23日 。 - ^ 「
久邇 宮 殿下 の自動車 に迫 り短刀 で危害 を企 つ犯人 は朝鮮 人 趙 明 河 /台湾 」『読売新聞 』1928年 6月 15日 、朝刊 7頁 。 - ^ 『
別紙 第 二 「不敬 事件 ニ関 スル件 犯人 身体 ノ異状 」「別紙 第 一 「邦彦 王 殿下 ニ対 シ奉 リ不逞 鮮人ノ危害 ヲ加 ヘ奉 ラントシタル顛末 」[秘密 三 二 三 一三 特 検 第 三 七 号 一 久邇 宮 殿下 ニ危害 ヲ加 ヘントシタル兇漢 ニ関 スル件 報告 特命 検閲 使 属 員 松木 直 亮 発 陸軍 大臣 白河 義則 殿 宛 昭和 参 年 五 月 廿 日 」〔「台 中 事件 に関 する軍部 の立場 の件 」JACAR(アジア歴史 資料 センター)Ref.C01003835500、密 大 日記 第 4冊 1928年 (昭和 3年 )防衛 省 防衛 研究所 〕』陸軍 省 、資料 作成 年月日 :1927年 (昭和 2年 11月~1928年 (昭和 3年 )6月 23日 。 - ^
第 一 章 「皇室 ニ対 スル罪 」第 73條 :天皇 、太皇太后 、皇太后 、皇后 、皇太子 又 ハ皇 太 孫 ニ對 シ危害 󠄂ヲ加 ヘ又 ハ加 ヘントシタル者 󠄁ハ死 𠛬ニ處 ス
第 74條 :天皇 、太皇太后 、皇太后 、皇后 、皇太子 又 ハ皇 太 孫 ニ対 シ不敬 ノ行爲 アリタル者 󠄁ハ三 月 󠄁以上 五 年 以下 ノ懲󠄁役 ニ處 ス神 󠄀宮 又 ハ皇 陵 ニ對 シ不敬 ノ行爲 アリタル者 󠄁亦 同 シ
第 75條 :皇族 ニ對 シ危害 󠄂ヲ加 ヘタル者 󠄁ハ死 𠛬ニ處 シ危害 󠄂ヲ加 ヘントシタル者 󠄁ハ無期 󠄁懲󠄁役 ニ處 ス
第 76條 :皇族 ニ對 シ不敬 ノ行爲 アリタル者 󠄁ハ二 月 󠄁以上 四 年 以下 ノ懲󠄁役 ニ處 ス
改正 刑法 『改正 刑法 』博文 館 、1907年 、23-24頁 参照 ) - ^ THE JAPANESE AMERICAN「
朝鮮 人 趙 明 河 徐 を宣告 する台湾 不敬 事件 」[Nichibei Shinbun_19280719] rfc: J20011150700(jan_19280719(スタンフォード大学 フーヴァー研究所 )所蔵 、『日米 新聞 』1928年 7月 19日 、1面 。 - ^ 「
久邇 宮 に危害 を企 てし不敬 漢 の鮮人死刑 台湾 で無謀 を働 きし趙 明 河 」[Shin Sekai 1928.07.19]rfc: J21021558000(tnw_19280719(スタンフォード大学 フーヴァー研究所 所蔵 )、『新 世界 新聞 』1928年 7月 19日 、1面 。 - ^ 『「
死刑 執行 」『官報 』』日本 マイクロ写真 、1928年 10月 25日 、622頁 。「「朝鮮 黄 海松 禾郡下里 面 長泉 里 三 百 十 番地 趙 明河 ハ刑法 第 七 十 五 条 ノ罪 及殺人 未遂 ノ罪 ニ付 本年 七 月 十 八日台湾総督府高等法院上告部ニ於テ死刑 ノ宣告 ヲ受ケ同時 ニ確定 シタル処 本 月 十 日 執行 セラレタリ」」 - ^ 『
別紙 「犯人 ノ身元 調査 書 」[密 三 二 三 一 一 □参 密 第 六 二 号 殿下 ニ危害 ヲ加 ヘントシタル鮮人ノ身元 ニ関 スル件 朝鮮 軍 参謀 長 伯爵 寺内 寿 一発陸軍次官畑英太郎殿宛昭和 三 年 五 月 十 六 日 ]〔「台 中 事件 に関 する軍部 の立場 の件 」JACAR(アジア歴史 資料 センター)Ref.C01003835500、密 大 日記 第 4冊 1928年 (昭和 3年 )防衛 省 防衛 研究所 〕』陸軍 省 、資料 作成 年月日 :1927年 (昭和 2年 )11月~1928年 (昭和 3年 )6月 23日 。 - ^ 『「
別紙 第 四 「台 中地 方法 院 検察官 長 ノ犯人 調査 状 況 台 中州 警務 部長 発 警務 局長 宛 電話 報告 筆記 昭和 三 年 五 月 十 六 日 午后 十 時 三 十 分 」[「秘密 三 二 三 一三 特 検 第 三 七 号 一 久邇 宮 殿下 ニ危害 ヲ加 ヘントシタル兇漢 ニ関 スル件 報告 特命 検閲 使 属 員 松木 直 亮 発 陸軍 大臣 白河 義則 殿 宛 昭和 参 年 五 月 廿 日 」]〔「台 中 事件 に関 する軍部 の立場 の件 」JACAR(アジア歴史 資料 センター)Ref.C01003835500、密 大 日記 第 4冊 1928年 (昭和 3年 )防衛 省 防衛 研究所 』陸軍 省 、資料 作成 年月日 :1927年 (昭和 2年 11月~1928年 (昭和 3年 )6月 23日 。 - ^ a b c 「
敍任 及辭令 昭和 三 年 六 月 十 六 日 」大蔵省 印刷 局 編 『官報 』441号 、日本 マイクロ写真 、1928年 06月 18日 、468頁 - ^ 「
辞表 執奏 問題 で政府 を問責 民 政党 慎重 に調査 」『東京 朝日新聞 』朝刊 3頁 、1928年 6月 22日 - ^ 6月26
日 (火) 曇 、少雨 、夜 雨 /冷 「今朝 、東京日日新聞 紙 には、貴族 院 に於 ては首相 が上山 総督 を辞任 せしめざることに御 裁可 を仰 ぎながら、其旨を総督 に通知 せず、総督 は曩に呈出 したる日付 に於 て同一 理由 の辞表 を提出 を出 し免官 となれりとて、首相 の処置 を攻撃 するの記事 あり。又 、其中に侍従 職 某 高官 の辞 なるものあり。不穏 なり。」(河井 弥 八 著 /高橋 紘 ほか編 『昭和 初期 の天皇 と宮中 :侍従 次長 河井 弥 八 日記 』第 二 巻 、岩波書店 、1993年 、109-110頁 ) - ^
同 成 会 には井上 準之助 、片岡 直 温 、江木 翼 、伊沢 多喜男 など、同和 会 には若槻 礼次郎 、上山 満之 助 、幣 原 喜重郎 など、立憲 民政 党内 閣 時 に主要 ポストを歴任 した人物 が参加 している。 (『貴族 院 議員 各派 別 :五 年 十 二 月 調 』貴族 院 、1930年 ) - ^
第 16回 衆議院 総 選挙 後 の内閣 改造 にあたり、田中 は友人 の久原 原之 助 を逓信 大臣 に入閣 させようとしたが、水野 はこれに反対 し辞職 しようとした。久原 は久 しく田中 の後援 者 であったが、多額 の負債 を抱 え「財界 の失敗 者 」として言 われていたからであった。水野 の辞表 は田中 首相 により執奏 され、その後 、天皇 と会見 した水野 は「国務 の為 め尽瘁 せよ」との優諚 を受 け、宮中 からの帰路 、田中 にその旨 を伝 え、記者 団 にも話 した。ところがその翌日 、優諚 を利用 して職 に留 まるとか、天皇 の政治 利用 あるいは優諚 の捏造 などという議論 も飛 び出 し、新聞 各紙 や政界 は大騒 ぎとなった。貴族 院 では閉会 中 にも関 わらず、各 会派 が集 まり、田中 から首相 問責 の共同 声明 を採択 するに至 った。(西尾 林太郎 『貴族 院 議員 水野 直 とその時代 』芙蓉 書房 、2021年 、348頁 ) - ^ 「
第 2の優諚 問題 に公正 会 もいよいよ蹶起 真相 調査 に着手 す ほか」『讀賣新聞 』朝刊 2頁 、1928年 6月 26日 」 - ^ a b 「
辞表 却下 の聖旨 を上山 氏 に伝達 せず田中 首相 不 臣 問責 の叫 び再 び貴族 院 に揚 る」『東京 朝日新聞 』夕刊 1頁 、1928年 6月 22日 - ^
前掲 王 「近代 日本 政治 における台湾 総督 制度 の研究 」2008年 、152-155頁 - ^
宇野 俊一 「上山 満之 進 」『国史 大 辞典 』https://japanknowledge.com/library/ - ^
伊藤 隆 「川村 竹治 」『国史 大 辞典 』https://japanknowledge.com/library/ - ^ 「
辞任 及辞令 」大蔵省 印刷 局 編 『官報 』第 449号 、日本 マイクロ写真 、1928年 6月 27日 、712頁 - ^
伊藤 隆 「後藤 文夫 」『国史 大 辞典 』https://japanknowledge.com/library/ - ^ a b c d e f 「
台湾 総督 府 異動 」『東京 朝日新聞 』夕刊 1頁 、1928年 7月 21日 - ^
伊藤 隆 「河原田 稼吉」『国史 大 辞典 』https://japanknowledge.com/library/ - ^ 「
台湾 警務 局長 近 く更迭 」『東京 朝日新聞 』朝刊 2頁 、1928年 7月 17日 - ^
伊藤 隆 「大久保 留次郎 」『国史 大 辞典 』https://japanknowledge.com/library/ - ^ 「
佐藤 続 」人事 興信所 編 『人事 興信録 』第 8版 、人事 興信所 、1928年 、サ39頁 - ^ 「
生駒 高 常 」人事 興信所 編 『人事 興信録 』第 17版 上巻 、人事 興信所 、1953年 、イ58頁 - ^
伊藤 隆 「小原 直 」『国史 大 辞典 』https://japanknowledge.com/library/ - ^
由井 正臣 「原 嘉道 」『国史 大 辞典 』https://japanknowledge.com/library/ - ^ 「
文官 懲戒 令 明治 三 十 二 年 三 月 勅 令 第 六 十 三 号 」文官 高等 懲戒 委員 会 編 『懲戒 法規 』文官 高等 懲戒 委員 会 、1911年 、7-13頁 - ^ 「●
文官 高等 懲戒 委員 会 議決 文官 高等 懲戒 委員 会 ハ台湾 総督 府 警務 局長 本山 文平 ニ対 スル懲戒 事件 ニ付 本 月 十 六 日 左 ノ如ク議決 セリ文官 高等 懲戒 委員 会 ハ台湾 総督 府 警務 局長 本山 文平 ニ対 スル懲戒 事件 ヲ審査 スルニ右 山本 文平 ハ昭和 三 年 五 月 十 四 日 特命 検閲 使 久邇 宮 邦彦 王 殿下 台 中 御 泊 所 ヨリ台北 ニ御 帰還 ノ為 台 中 停車場 ニ向 ハセラルル御 途中 大正 町 ニ於テ畏 クモ一 兇漢 カ如実 御召 自動車 ヲ犯 シ殿下 ニ対 シ奉 リ暴行 ヲ為 スヲ防止 スルコト能 ハサリシモノナリ以上 の事実 ハ台湾 総督 ノ審査 要求 □及其ノ附属 書類 ニ横 シテ明白 ナリ右 ハ畢竟 職務 ノ執行 宜 ヲ得 サルニ基 クモノニシテ文官 懲戒 令 第 二 条 第 一 号 二 該当 シ同 第 三条第二号及同第五条二依リ二 箇月 間 年俸 月割 額 十 分 ノ一 ノ減俸 二 処 スヘキモノト議決 ス文官 高等 懲戒 委員 会 ハ台湾 総督 台 中州 知事 佐藤 続 ニ対 スル懲戒 事件 ニ付 本 月 十 六 日 左 ノ如ク議決 文官 高等 懲戒 委員 会 ハ台湾 総督 台 中州 知事 佐藤 続 ニ対 スル懲戒 事件 ヲ審査 スルニ右 山本 文平 ハ昭和 三 年 五 月 十 四 日 特命 検閲 使 久邇 宮 邦彦 王 殿下 台 中 御 泊 所 ヨリ台北 ニ御 帰還 ノ為 台 中 停車場 ニ向 ハセラルル御 途中 大正 町 ニ於テ畏 クモ一 兇漢 カ如実 御召 自動車 ヲ犯 シ殿下 ニ対 シ奉 リ暴行 ヲ為 スヲ防止 スルコト能 ハサリシモノナリ以上 の事実 ハ台湾 総督 ノ審査 要求 □及其ノ附属 書類 ニ横 シテ明白 ナリ右 ハ畢竟 職務 ノ執行 宜 ヲ得 サルニ基 クモノニシテ文官 懲戒 令 第 二 条 第 一 号 二 該当 シ同 第 三条第二号及同第五条二依リ二 箇月 間 年俸 月割 額 十 分 ノ一 ノ減俸 二 処 スヘキモノト議決 ス (「彙報 判決 文官 高等 懲戒 委員 会 議決 」大蔵省 印刷 局 編 『官報 』470号 、日本 マイクロ写真 、1928年 7月 21日 、5頁 」) - ^
李 建 志 「研究 ノート台 中 不敬 事件 」『言語 教育 研究 センター研究 年報 』23巻 、2020年 、107-113頁 - ^
李 建 志 「研究 ノート台 中 不敬 事件 」『言語 教育 研究 センター研究 年報 』23巻 、2020年 、107-113頁 - ^
前掲 李 「研究 ノート台 中 不敬 事件 」2020年 、112-113頁 - ^
王 鉄 軍 「近代 日本 における台湾 総督 制度 の研究 」『中京 法学 』43巻 1号 、2008年 、1-191頁 - ^ 1930
年 (昭和 5)年 10月 27日 、台 中州 能 高 郡 霧 社 (現 南 投 県 仁愛 郷 )一帯 のタイヤル族 6部落 300余 名 が、マヘボ部落 のモーナ・ルーダオの指揮 で一斉 に蜂起 し、奥地 の警察官 駐在 所 を襲撃 、ついで霧 社 公 学校 の運動会 開催 中 を襲 い、日本人 134名 を殺害 した事件 。(岡部 牧夫 「霧 社 事件 」『日本 大 百科全書 』https://japanknowledge.com/library/) - ^
前掲 王 「近代 日本 における台湾 総督 制度 の研究 」2008年 、156頁 - ^ ““조선 독립투쟁 출발점 ‘조명하
義士 의거’ 세상에 알릴 것””. www.munhwa.com (2018年 8月 3日 ). 2019年 3月 3日 閲覧 。 - ^ 『
邦彦 王 行実 』久邇 宮 、1929年 (昭和 14年 )、397-404頁
主 な参考 文献 ・史料
李 建 志 「研究 ノート台 中 不敬 事件 」『言語 教育 研究 センター研究 年報 』23巻 、2020年 、107-113頁
王 鉄 軍 「近代 日本 における台湾 総督 制度 の研究 」『中京 法学 』43巻 1号 、2008年 、1-191頁
上山 満之 進 著 /上山 君 記念 事業 会 編 『上山 満之 進 』上巻 、成 武 堂 、1941年
- 『
邦彦 王 行実 』久邇 宮 、1929年 (昭和 14年 )
- 「
台 中 事件 に関 する軍部 の立場 の件 」JACAR(アジア歴史 資料 センター)Ref.C01003835500、密 大 日記 第 4冊 1928年 (昭和 3年 )防衛 省 防衛 研究所