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台中不敬事件 - Wikipedia

たいちゅう不敬ふけい事件じけん(たいちゅうふけいじけん)は、1928ねん昭和しょうわ3ねん5月14にち発生はっせいした、久邇くにみや邦彦くにひこおうこうじゅん皇后こうごうちち)が訪問ほうもんさき台湾たいわん自殺じさつ計画けいかくしていた朝鮮ちょうせんひとちょうあきらかわ(チョ・ミンハ)に襲撃しゅうげきされた暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんである。

事件じけん発生はっせい地点ちてんたいちゅう州立しゅうりつ図書館としょかん現在げんざい合作がっさく金庫きんこ商業しょうぎょう銀行ぎんこうだいちゅう支店してん

概要がいよう

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1928ねん昭和しょうわ3ねん)5がつ14にち午前ごぜん950ふん特命とくめい検閲けんえつ使久邇くにみや邦彦くにひこおう台北たいぺいむかって出発しゅっぱつするためたいちゅうはくしょである佐藤さとうぞくたい中州なかす知事ちじ官邸かんていからたいちゅうえきかう途中とちゅうたいちゅう大正たいしょうまちいて右側みぎがわ道路どうろじょう邦彦くにひこおう見送みおくろうとならんでいた台湾たいわんじんおおやけ学校がっこう生徒せいとれつから、突然とつぜん法被はっぴ青年せいねんが「直訴じきそ」と連呼れんこしながらふところから白布しろぬのつつまれたものをしながらし、邦彦くにひこおう乗車じょうしゃした御召おめし自動車じどうしゃ後方こうほうまわり、短刀たんとう邦彦くにひこおうりかざした。しかし、邦彦くにひこおう左前ひだりまえ陪乗ばいじょうした大沼おおぬま大佐たいさ久邇くにみや武官ぶかん)が咄嗟とっさ邦彦くにひこおうみぎわきかかえ、また運転うんてんしゅ右側みぎがわ乗車じょうしゃしていた台湾たいわん総督そうとく諏訪すわ鶴松つるまつ外側そとがわから邦彦くにひこおう座席ざせきちかくにて、犯人はんにんからの危害きがいさまたげた。

その結果けっか短刀たんとう車体しゃたい後部こうぶほろをかすめ、邦彦くにひこおう身体しんたいきずをつけること出来できなかった。犯人はんにんふたた短刀たんとうりかざそうとしたが、御召おめし自動車じどうしゃのスピードにかなわず、直接ちょくせつ危害きがいくわえること断念だんねんして、短刀たんとう邦彦くにひこおうかってげつけるもこれもあたらず、左前ひだりまえ運転うんてんしゅ背部はいぶさるが、運転うんてんしゅにも被害ひがいなく、御召おめし自動車じどうしゃ以前いぜん運転うんてんつづけ、予定よていどお台北たいぺいけて出発しゅっぱつした[1]

一方いっぽう犯人はんにんただちに邦彦くにひこおう見送みおくためれつならんでいたたいちゅう女子じょしこう学校がっこう児童じどう引率いんそつしていた同校どうこう訓導くんどう内田うちだ賢吉けんきちおよび巡査じゅんさていゆうおとうと、蔡福の3めいによって現行げんこうはん逮捕たいほされた[2]。また、犯人はんにん犯行はんこうおよまえモルヒネ服用ふくようしていた[3]のち犯人はんにん同年どうねん7がつ18にち台湾たいわん総督そうとく高等法院こうとうほういん上告じょうこくにおいて刑法けいほう75じょう[4]により死刑しけい宣告せんこく[5][6]不敬ふけい事件じけんいちしんせいのため即日そくじつけい確定かくていし、同年どうねん10がつ10日とおか死刑しけい執行しっこうされた[7]。この事件じけん台湾たいわん総督そうとく上山うえやま満之まんしすすむ総務そうむ長官ちょうかん後藤ごとう文夫ふみお警務けいむ局長きょくちょう本山もとやま文平ぶんぺいたい中州なかす知事ちじ佐藤さとうぞく引責いんせき辞任じにんした。

犯人はんにん経歴けいれき

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  • 氏名しめいちょう鏞宇の次男じなんちょうあきらかわ、1905ねん明治めいじ38ねん)4がつ4にちせい
  • 本籍ほんせき黄海こうかいどうまつ禾郡下里しもさとめん長泉ながいずみさと310、住所じゅうしょどうみぎ
  • 性格せいかく本人ほんにんざい鮮中は温順おんじゅん素行そこうく、思想しそうじょう問題もんだいてんい。ただ、内地ないち渡航とこう思想しそうについてはあきらかでない。
  • 経歴けいれき:1924ねん大正たいしょう13ねん)、まつ公立こうりつ普通ふつう学校がっこう卒業そつぎょう同年どうねん4がつから1925ねん大正たいしょう15ねん)6がつまで、まつ禾邑ないせいちょう鏞基(叔父おじ)の書生しょせいになる。同年どうねん6がつから9がつまで黄海こうかいどう金川かながわぐんちょう職員しょくいんとしてやとわれる。同年どうねん9がつちゅう内地ないち渡航とこうし、大阪おおさかきた上福島かみふくしま町中まちなかさん丁目ちょうめ620番地ばんちにある大阪おおさか電池でんち製作所せいさくしょ職工しょっこうとなる。1927ねん昭和しょうわ2ねん)12月、台湾たいわんわたむね通報つうほうあり。1928ねん昭和しょうわ3ねん)1がつたいちゅうさかえまち番地ばんち富貴ふうきえん茶店ちゃみせないから年賀状ねんがじょう実家じっか郵送ゆうそうしたのを確認かくにんされるが、これ以降いこう消息しょうそく不明ふめい
  • 家族かぞく両親りょうしんつま兄弟きょうだいほか13めいがいるが、思想しそうほか容疑ようぎがあるものはいない。
  • 資産しさん資産しさんっておらず、小作こさくじんとして生計せいけいてている。
  • 前科ぜんか前科ぜんかはなく、手配てはいちゅうでも[8]

犯人はんにん動機どうき

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ちょうあきらかわがなぜ久邇くにみや邦彦くにひこおう暗殺あんさつしようとしたのか、その動機どうきたい中地なかじ方法ほうほういん検察官けんさつかんちょうによる取調とりしらちゅうでの自供じきょうによってあきらかになっている。それによると、朝鮮ちょうせん内地ないち台湾たいわんでの理不尽りふじんあつかいにたいするなかへの絶望ぜつぼうによる自暴自棄じぼうじきとそれにともな自殺じさつ願望がんぼうがこの事件じけんがねとなり、はじめから邦彦くにひこおうすつもりはかったが、「ドウセヌナラみやさまヲヤツケテ自分じぶんナウト突嗟ニおもえツタ」と突発とっぱつてき偶然ぐうぜん出来事できごとだったとされる[9]

たいちゅう不敬ふけい事件じけん上山うえやま満之まんしすすむ台湾たいわん総督そうとく辞職じしょく問題もんだい

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たいちゅう不敬ふけい事件じけん」の引責いんせきとして、上山うえやま満之まんししん台湾たいわん総督そうとくを「依願いがんほん免官めんかん」として辞職じしょくした[10]。ただ、この辞職じしょくたいする田中たなか義一ぎいち処理しょり問題もんだいとなった。この問題もんだいは、1928ねん昭和しょうわ3ねん)の6がつ20にち以降いこう、『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん[11]はじめに[12]、『讀賣新聞よみうりしんぶん』や『國民こくみん新聞しんぶん』などでもげられるようになった。この問題もんだいもっ立憲りっけん民政みんせいとう立憲りっけん民政みんせいとうけい貴族きぞくいん会派かいは同和どうわかいどうなりかい[13]などが田中たなか攻撃こうげき批難ひなんした。この問題もんだいは、さきの「水野みずの錬太郎れんたろう文部省もんぶしょう大臣だいじん辞任じにん優諚ゆうじょう問題もんだい[14]あいまって「だい優諚ゆうじょう問題もんだい」として問題もんだいされた[15]問題もんだいとなったのは、「優諚ゆうじょう」つまり、天皇てんのう言葉ことば田中たなか政治せいじてきあるいは恣意しいてき利用りようしたというてんである[16]。ところで、この上山うえやま辞任じにん問題もんだいは、現地げんち台湾たいわん新聞しんぶん(れい:『台湾たいわんにちにち新聞しんぶん』『台湾たいわん新聞しんぶん』『台湾たいわんみなみ日本にっぽん新報しんぽう』『たいみなみ新聞しんぶん』『台湾たいわん経世けいせい新報しんぽう』など)にいては、げられておらず、むしろ非難ひなんしており、上山うえやま台湾たいわん総督そうとく実績じっせき手腕しゅわんとなえているのである[17]

  1. 上山うえやま辞表じひょう(5がつ15にち)を田中たなかり、天皇てんのうにそのむね奏上そうじょうする。
  2. 天皇てんのう辞任じにんする必要ひつようはないという優諚ゆうじょう田中たなかけるが、これを上山うえやまつたえず。
  3. 上山うえやま帰京ききょう田中たなか再度さいど辞表じひょうもとめる。
  4. 6月16にち上山うえやま辞任じにん決定けっていする[16]

後任こうにん

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上山うえやま満之まんしすすむ台湾たいわん総督そうとく[10]加藤かとう高明こうめい内閣ないかくとき憲政けんせいかい(立憲りっけん民政みんせいとう)よりになる。田中たなか義一ぎいちとは個人こじんてきいがある[18])

川村かわむら竹治たけじ[10]大正たいしょう11ねん貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせんされ、立憲りっけん政友せいゆうかいけい交友こうゆう倶楽部くらぶぞくする人物じんぶつ[19])

後藤ごとう文夫ふみお台湾たいわん総務そうむ長官ちょうかん[20]貴族きぞくいん議員ぎいん伊沢いさわ多喜男たきおどうなりかい(はん政友せいゆうかいけいグループの総帥そうすい関係かんけい[21])

河原田かわらだ稼吉[22]床次とこなみ竹次郎たけじろういぬやしなえあつししたはたらき、近衛このえ文麿ふみまろとの関係かんけいきずくなど立憲りっけん政友せいゆうかいけい人物じんぶつ[23])

本山もとやま文平ぶんぺい台湾たいわん総督そうとく警務けいむ局長きょくちょう[22][24]

大久保おおくぼ留次郎とめじろう[22] (昭和しょうわ2ねん田中たなか義一ぎいち内閣ないかくのとき警視庁けいしちょう官房かんぼう主事しゅじ就任しゅうにんし、さんいち事件じけんなどで活躍かつやく[25])

佐藤さとうぞくたい中州なかす知事ちじ[22][26]

生駒いこまだかつね[22][27](小原おはらただし(あねおっと)、田中たなか義一ぎいち内閣ないかくときはら嘉道よしみち司法しほうしょうした司法しほう次官じかんとしてはたら[28]

はら嘉道よしみち立憲りっけん政友せいゆうかい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん横田よこたせんこれすけ関係かんけいち、田中たなか内閣ないかくとき司法しほう大臣だいじん就任しゅうにん[29])

本山もとやま文平ぶんぺい台湾たいわん総督そうとく警務けいむ局長きょくちょう佐藤さとうぞくたい中州なかす知事ちじは、文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかい議決ぎけつで「文官ぶんかん懲戒ちょうかいれいだいじょうだいいちごう該当がいとうどうだい三条第二号及同第五条二依リ箇月かげつあいだ年俸ねんぽう月割つきわりがくじゅうぶんいち減俸げんぽうしょ」されたが[30][31]両人りょうにんは「依願いがんほん免官めんかん」でもっ依願いがん退職たいしょくする[22]

上山うえやま満之まんしすすむ台湾たいわん総督そうとく辞任じにん問題もんだい歴史れきしてき位置いちづけ

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  • けんこころざし[32]。                                                  は、犯人はんにんであるちょうあきらかわ死刑しけい執行しっこう台湾たいわん総督そうとくである上山うえやま満之まんししん更迭こうてつは、台湾たいわん統治とうち強化きょうかための「秩序ちつじょげき」であり、この2つの「秩序ちつじょげき」は台湾たいわんける<権威けんいてき捺印なついん>[33]天皇てんのう権威けんい維持いじする装置そうちであった[34]べる。
  • おうてつぐん[35]。                                                   おうは「たいちゅう不敬ふけい事件じけん」とのちきた「きりしゃ事件じけん[36]いて上山うえやま満之まんしすすむ石塚いしづか英蔵えいぞうりょう台湾たいわん総督そうとくかく事件じけんたいする政治せいじ責任せきにんかたち引責いんせき辞任じにんしたが、そこには台湾たいわん総督そうとくなどの外地がいち長官ちょうかん政治せいじ国家こっか官僚かんりょうとして国家こっかから付与ふよされた職務しょくむ履行りこうしながら、それと対応たいおうすべき政治せいじ責任せきにんわなければならない政治せいじ理念りねん存在そんざいし、つまり、植民しょくみんである台湾たいわんみんてき言葉ことば教育きょういくなど)、政治せいじてき制度せいど体制たいせいなど)に内地ないち同化どうかさせなければならなくなったという背景はいけい存在そんざいしたのであり、上山うえやま石塚いしづか両者りょうしゃ辞任じにんは、党利とうり党略とうりゃくといったとう弊害へいがいより、近代きんだい民主みんしゅ政治せいじじょう政治せいじ官僚かんりょう職務しょくむ義務ぎむ関係かんけいしょうじた政治せいじ責任せきにんであった[37]べる。

久邇くにみや邦彦くにひこおうのその

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『チョ・ミョンハ義士ぎし研究けんきゅうかい』にいて、「邦彦くにひこおう短刀たんとうられていたどくまわったために翌年よくねん死亡しぼうした」と主張しゅちょうし、このテロ事件じけんを「朝鮮ちょうせん独立どくりつ闘争とうそう出発しゅっぱつてん」としている[38]。しかし、久邇くにみや邦彦くにひこおうは「たいちゅう不敬ふけい事件じけん」のやく半年はんとし昭和しょうわ4(1929)ねん1がつ23にち午後ごご1時半じはんごろ、「突然とつぜん椅子いすよりたおいち失神しっしん状態じょうたいおちいらせられ」、翌日よくじつ24にちしも、その容体ようだい悪化あっかつづけ、同月どうげつ27にち午前ごぜん1ごろ嘔吐おうとせられたのち容態ようだい変容へんようし、腹膜炎ふくまくえん併発へいはつ」し、同日どうじつ午後ごご029ふんに「やすらけく英霊えいれいながへにかみきゅうふと」、病死びょうしする[39]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 別紙べっしだいいち邦彦くにひこおう殿下でんかたいたてまつ不逞ふてい鮮人ノ危害きがいたてまつラントシタル顛末てんまつ秘密ひみつ さんさん 一三かずみ とくけんだいさんななごういち 久邇くにみや殿下でんか危害きがいヘントシタル兇漢きょうかんせきスルけん報告ほうこく 特命とくめい検閲けんえつ使ぞくいん松木まつきただしあきらはつ陸軍りくぐん大臣だいじん白河しらかわ義則よしのり殿どのあて 昭和しょうわさんねんがつ廿にじゅう」〔「たいちゅう事件じけんかんする軍部ぐんぶ立場たちばけん」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C01003835500、ひそかだい日記にっき だい4さつ 1928ねん昭和しょうわ3ねん防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ〕』陸軍りくぐんしょう資料しりょう作成さくせい年月日ねんがっぴ:1927ねん昭和しょうわ2ねん)11月~1928ねん昭和しょうわ3ねん)6がつ23にち 
  2. ^ 久邇くにみや殿下でんか自動車じどうしゃせま短刀たんとう危害きがいくわだて犯人はんにん朝鮮ちょうせんじんちょうあきらかわ/台湾たいわん」『読売新聞よみうりしんぶん』1928ねん6がつ15にち朝刊ちょうかん7ぺーじ
  3. ^ 別紙べっしだい不敬ふけい事件じけんせきスルけん 犯人はんにん身体しんたい異状いじょう」「別紙べっしだいいち邦彦くにひこおう殿下でんかたいたてまつ不逞ふてい鮮人ノ危害きがいたてまつラントシタル顛末てんまつ」[秘密ひみつ さんさん 一三かずみ とくけんだいさんななごういち 久邇くにみや殿下でんか危害きがいヘントシタル兇漢きょうかんせきスルけん報告ほうこく 特命とくめい検閲けんえつ使ぞくいん松木まつきただしあきらはつ陸軍りくぐん大臣だいじん白河しらかわ義則よしのり殿どのあて 昭和しょうわさんねんがつ廿にじゅう」〔「たいちゅう事件じけんかんする軍部ぐんぶ立場たちばけん」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C01003835500、ひそかだい日記にっき だい4さつ 1928ねん昭和しょうわ3ねん防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ〕』陸軍りくぐんしょう資料しりょう作成さくせい年月日ねんがっぴ:1927ねん昭和しょうわ2ねん11月~1928ねん昭和しょうわ3ねん)6がつ23にち 
  4. ^ だいいちしょう皇室こうしつたいスルざい
    • だい73じょう天皇てんのう太皇太后たいこうたいこう皇太后こうたいごう皇后こうごう皇太子こうたいしまたすめらぎふとしまごたい危害きがい󠄂ヲまたヘントシタルしゃ󠄁ハ𠛬ニしょ
    • だい74じょう天皇てんのう太皇太后たいこうたいこう皇太后こうたいごう皇后こうごう皇太子こうたいしまたすめらぎふとしまごたい不敬ふけい行爲こういアリタルしゃ󠄁ハさんがつ󠄁以上いじょうねん以下いかノ懲󠄁やくしょしん󠄀みやまたすめらぎりょうたい不敬ふけい行爲こういアリタルしゃ󠄁またどう
    • だい75じょう皇族こうぞくたい危害きがい󠄂ヲヘタルしゃ󠄁ハ𠛬ニしょ危害きがい󠄂ヲヘントシタルしゃ󠄁ハ無期むき󠄁懲󠄁やくしょ
    • だい76じょう皇族こうぞくたい不敬ふけい行爲こういアリタルしゃ󠄁ハがつ󠄁以上いじょうよんねん以下いかノ懲󠄁やくしょ
    改正かいせい刑法けいほう改正かいせい刑法けいほう博文ひろぶみかん、1907ねん、23-24ぺーじ参照さんしょう
  5. ^ THE JAPANESE AMERICAN「朝鮮ちょうせんじんちょうあきらかわじょ宣告せんこくする台湾たいわん不敬ふけい事件じけん」[Nichibei Shinbun_19280719] rfc: J20011150700(jan_19280719(スタンフォード大学だいがくフーヴァー研究所けんきゅうじょ)所蔵しょぞう、『日米にちべい新聞しんぶん』1928ねん7がつ19にち、1めん
  6. ^ 久邇くにみや危害きがいくわだてし不敬ふけいかんの鮮人死刑しけい 台湾たいわん無謀むぼうはたらきしちょうあきらかわ」[Shin Sekai 1928.07.19]rfc: J21021558000(tnw_19280719(スタンフォード大学だいがくフーヴァー研究所けんきゅうじょ所蔵しょぞう)、『しん世界せかい新聞しんぶん』1928ねん7がつ19にち、1めん
  7. ^ 『「死刑しけい執行しっこう」『官報かんぽう』』日本にっぽんマイクロ写真しゃしん、1928ねん10がつ25にち、622ぺーじ。「「朝鮮ちょうせん海松みる禾郡下里しもさとめん長泉ながいずみさとさんひゃくじゅう番地ばんちちょう明河みょうが刑法けいほうだいななじゅうじょうつみ及殺じん未遂みすいつみづけ本年ほんねんなながつじゅう八日台湾総督府高等法院上告部ニ於テ死刑しけい宣告せんこくヲ受ケ同時どうじ確定かくていシタルしょほんがつじゅうにち執行しっこうセラレタリ」」 
  8. ^ 別紙べっし犯人はんにん身元みもと調査ちょうさしょ」[みつ さんさん いちいち □まいりみつだいろくごう 殿下でんか危害きがいヘントシタル鮮人ノ身元みもとせきスルけん 朝鮮ちょうせんぐん参謀さんぼうちょう伯爵はくしゃく寺内てらうち寿ひさし一発陸軍次官畑英太郎殿宛 昭和しょうわさんねんがつじゅうろくにち]〔「たいちゅう事件じけんかんする軍部ぐんぶ立場たちばけん」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C01003835500、ひそかだい日記にっき だい4さつ 1928ねん昭和しょうわ3ねん防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ〕』陸軍りくぐんしょう資料しりょう作成さくせい年月日ねんがっぴ:1927ねん昭和しょうわ2ねん)11月~1928ねん昭和しょうわ3ねん)6がつ23にち 
  9. ^ 『「別紙べっしだいよんたい中地なかじ方法ほうほういん検察官けんさつかんちょう犯人はんにん調査ちょうさじょうきょう たい中州なかす警務けいむ部長ぶちょうはつ警務けいむ局長きょくちょうあて電話でんわ報告ほうこく筆記ひっき 昭和しょうわさんねんがつじゅうろくにち午后ごごじゅうさんじゅうふん」[「秘密ひみつ さんさん 一三かずみ とくけんだいさんななごういち 久邇くにみや殿下でんか危害きがいヘントシタル兇漢きょうかんせきスルけん報告ほうこく 特命とくめい検閲けんえつ使ぞくいん松木まつきただしあきらはつ陸軍りくぐん大臣だいじん白河しらかわ義則よしのり殿どのあて 昭和しょうわさんねんがつ廿にじゅう」]〔「たいちゅう事件じけんかんする軍部ぐんぶ立場たちばけん」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C01003835500、ひそかだい日記にっき だい4さつ 1928ねん昭和しょうわ3ねん防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ陸軍りくぐんしょう資料しりょう作成さくせい年月日ねんがっぴ:1927ねん昭和しょうわ2ねん11月~1928ねん昭和しょうわ3ねん)6がつ23にち 
  10. ^ a b c 敍任じょにん及辭れい 昭和しょうわさんねんろくがつじゅうろくにち大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょくへん官報かんぽう』441ごう日本にっぽんマイクロ写真しゃしん、1928ねん06がつ18にち、468ぺーじ
  11. ^ 辞表じひょう執奏しっそう問題もんだい政府せいふ問責もんせき みん政党せいとう慎重しんちょう調査ちょうさ」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん朝刊ちょうかん3ぺーじ、1928ねん6がつ22にち
  12. ^ 6月26にち(火) くもり少雨しょううよる/ひや今朝けさ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんには、貴族きぞくいんおいては首相しゅしょう上山うえやま総督そうとく辞任じにんせしめざることに裁可さいかあおぎながら、其旨を総督そうとく通知つうちせず、総督そうとくは曩に呈出ていしゅつしたる日付ひづけおい同一どういつ理由りゆう辞表じひょう提出ていしゅつ免官めんかんとなれりとて、首相しゅしょう処置しょち攻撃こうげきするの記事きじあり。また、其中に侍従じじゅうしょくぼう高官こうかんなるものあり。不穏ふおんなり。」(河井かわいわたるはちちょ/高橋たかはしひろしほかへん昭和しょうわ初期しょき天皇てんのう宮中きゅうちゅう侍従じじゅう次長じちょう河井かわいわたるはち日記にっきだいかん岩波書店いわなみしょてん、1993ねん、109-110ぺーじ
  13. ^ どうなりかいには井上いのうえ準之助じゅんのすけ片岡かたおかただしあつし江木えぎつばさ伊沢いさわ多喜男たきおなど、同和どうわかいには若槻わかつき礼次郎れいじろう上山うえやま満之まんしすけぬさはら喜重郎きじゅうろうなど、立憲りっけん民政みんせい党内とうないかく主要しゅようポストを歴任れきにんした人物じんぶつ参加さんかしている。 (『貴族きぞくいん議員ぎいん各派かくはべつ: ねんじゅうがつ調ちょう貴族きぞくいん、1930ねん)
  14. ^ だい16かい衆議院しゅうぎいんそう選挙せんきょ内閣ないかく改造かいぞうにあたり、田中たなか友人ゆうじん久原くばら原之はらのすけ逓信ていしん大臣だいじん入閣にゅうかくさせようとしたが、水野みずのはこれに反対はんたい辞職じしょくしようとした。久原くはらひさしく田中たなか後援こうえんしゃであったが、多額たがく負債ふさいかかえ「財界ざいかい失敗しっぱいしゃ」としてわれていたからであった。水野みずの辞表じひょう田中たなか首相しゅしょうにより執奏しっそうされ、その天皇てんのう会見かいけんした水野みずのは「国務こくむため尽瘁じんすいせよ」との優諚ゆうじょうけ、宮中きゅうちゅうからの帰路きろ田中たなかにそのむねつたえ、記者きしゃだんにもはなした。ところがその翌日よくじつ優諚ゆうじょう利用りようしてしょくまるとか、天皇てんのう政治せいじ利用りようあるいは優諚ゆうじょう捏造ねつぞうなどという議論ぎろんし、新聞しんぶん各紙かくし政界せいかい大騒おおさわぎとなった。貴族きぞくいんでは閉会へいかいちゅうにもかかわらず、かく会派かいはあつまり、田中たなかから首相しゅしょう問責もんせき共同きょうどう声明せいめい採択さいたくするにいたった。(西尾にしお林太郎りんたろう貴族きぞくいん議員ぎいん水野みずのただしとその時代じだい芙蓉ふよう書房しょぼう、2021ねん、348ぺーじ
  15. ^ だい2の優諚ゆうじょう問題もんだい公正こうせいかいもいよいよ蹶起けっき 真相しんそう調査ちょうさ着手ちゃくしゅす ほか」『讀賣新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2ぺーじ、1928ねん6がつ26にち
  16. ^ a b 辞表じひょう却下きゃっか聖旨せいし上山うえやま伝達でんたつせず 田中たなか首相しゅしょうしん問責もんせきさけふたた貴族きぞくいんあがる」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん1ぺーじ、1928ねん6がつ22にち
  17. ^ 前掲ぜんけいおう近代きんだい日本にっぽん政治せいじにおける台湾たいわん総督そうとく制度せいど研究けんきゅう」2008ねん、152-155ぺーじ
  18. ^ 宇野うの俊一しゅんいち上山うえやま満之まんしすすむ」『国史こくしだい辞典じてんhttps://japanknowledge.com/library/
  19. ^ 伊藤いとうたかし川村かわむら竹治たけじ」『国史こくしだい辞典じてんhttps://japanknowledge.com/library/
  20. ^ 辞任じにん及辞れい大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく へん官報かんぽうだい449ごう日本にっぽんマイクロ写真しゃしん、1928ねん6がつ27にち、712ぺーじ
  21. ^ 伊藤いとうたかし後藤ごとう文夫ふみお」『国史こくしだい辞典じてんhttps://japanknowledge.com/library/
  22. ^ a b c d e f 台湾たいわん総督そうとく異動いどう」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん1ぺーじ、1928ねん7がつ21にち
  23. ^ 伊藤いとうたかし河原田かわらだ稼吉」『国史こくしだい辞典じてんhttps://japanknowledge.com/library/
  24. ^ 台湾たいわん警務けいむ局長きょくちょうちか更迭こうてつ」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん朝刊ちょうかん2ぺーじ、1928ねん7がつ17にち
  25. ^ 伊藤いとうたかし大久保おおくぼ留次郎とめじろう」『国史こくしだい辞典じてんhttps://japanknowledge.com/library/
  26. ^ 佐藤さとうぞく人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろくだい8はん人事じんじ興信所こうしんじょ、1928ねん、サ39ぺーじ
  27. ^ 生駒いこまだかつね人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろくだい17はん上巻じょうかん人事じんじ興信所こうしんじょ、1953ねん、イ58ぺーじ
  28. ^ 伊藤いとうたかし小原おはらただし」『国史こくしだい辞典じてんhttps://japanknowledge.com/library/
  29. ^ 由井ゆい正臣まさおみはら嘉道よしみち」『国史こくしだい辞典じてんhttps://japanknowledge.com/library/
  30. ^ 文官ぶんかん懲戒ちょうかいれい 明治めいじさんじゅうねんさんがつ みことのりれいだいろくじゅうさんごう文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかいへん懲戒ちょうかい法規ほうき文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかい、1911ねん、7-13ぺーじ
  31. ^ 「●文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかい議決ぎけつ   文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかい台湾たいわん総督そうとく警務けいむ局長きょくちょう本山もとやま文平ぶんぺいたいスル懲戒ちょうかい事件じけんづけほんがつじゅうろくにちひだりノ如ク議決ぎけつセリ  文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかい台湾たいわん総督そうとく警務けいむ局長きょくちょう本山もとやま文平ぶんぺいたいスル懲戒ちょうかい事件じけん審査しんさスルニみぎ山本やまもと文平ぶんぺい昭和しょうわさんねんがつじゅうよんにち 特命とくめい検閲けんえつ使久邇くにみや邦彦くにひこおう殿下でんか たいちゅうはくしょヨリ台北たいぺい帰還きかんためだいちゅう停車場ていしゃじょうこうハセラルル途中とちゅう大正たいしょうまちニ於テかしこクモいち兇漢きょうかん如実にょじつ御召おめし自動車じどうしゃおかせ殿下でんかたいたてまつ暴行ぼうこうためスヲ防止ぼうしスルコトのうハサリシモノナリ 以上いじょう事実じじつ台湾たいわん総督そうとく審査しんさ要求ようきゅう□及其ノ附属ふぞく書類しょるいよこシテ明白めいはくナリ みぎ畢竟ひっきょう職務しょくむ執行しっこうよろしとくサルニもとクモノニシテ文官ぶんかん懲戒ちょうかいれいだいじょうだいいちごう該当がいとうどうだい三条第二号及同第五条二依リ箇月かげつあいだ年俸ねんぽう月割つきわりがくじゅうぶんいち減俸げんぽうしょスヘキモノト議決ぎけつス  文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかい台湾たいわん総督そうとくだい中州なかす知事ちじ佐藤さとうぞくたいスル懲戒ちょうかい事件じけんづけほんがつじゅうろくにちひだりノ如ク議決ぎけつ  文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかい台湾たいわん総督そうとくだい中州なかす知事ちじ佐藤さとうぞくたいスル懲戒ちょうかい事件じけん審査しんさスルニみぎ山本やまもと文平ぶんぺい昭和しょうわさんねんがつじゅうよんにち 特命とくめい検閲けんえつ使久邇くにみや邦彦くにひこおう殿下でんか たいちゅうはくしょヨリ台北たいぺい帰還きかんためだいちゅう停車場ていしゃじょうこうハセラルル途中とちゅう大正たいしょうまちニ於テかしこクモいち兇漢きょうかん如実にょじつ御召おめし自動車じどうしゃおかせ殿下でんかたいたてまつ暴行ぼうこうためスヲ防止ぼうしスルコトのうハサリシモノナリ  以上いじょう事実じじつ台湾たいわん総督そうとく審査しんさ要求ようきゅう□及其ノ附属ふぞく書類しょるいよこシテ明白めいはくナリ  みぎ畢竟ひっきょう職務しょくむ執行しっこうよろしとくサルニもとクモノニシテ文官ぶんかん懲戒ちょうかいれいだいじょうだいいちごう該当がいとうどうだい三条第二号及同第五条二依リ箇月かげつあいだ年俸ねんぽう月割つきわりがくじゅうぶんいち減俸げんぽうしょスヘキモノト議決ぎけつス (「彙報いほう 判決はんけつ 文官ぶんかん高等こうとう懲戒ちょうかい委員いいんかい議決ぎけつ大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょくへん官報かんぽう』470ごう日本にっぽんマイクロ写真しゃしん、1928ねん7がつ21にち、5ぺーじ」)
  32. ^ けんこころざし研究けんきゅうノート だいちゅう不敬ふけい事件じけん」『言語げんご教育きょういく研究けんきゅうセンター研究けんきゅう年報ねんぽう』23かん、2020ねん、107-113ぺーじ
  33. ^ けんこころざし研究けんきゅうノート だいちゅう不敬ふけい事件じけん」『言語げんご教育きょういく研究けんきゅうセンター研究けんきゅう年報ねんぽう』23かん、2020ねん、107-113ぺーじ
  34. ^ 前掲ぜんけい研究けんきゅうノート だいちゅう不敬ふけい事件じけん」2020ねん、112-113ぺーじ
  35. ^ おうてつぐん近代きんだい日本にっぽんにおける台湾たいわん総督そうとく制度せいど研究けんきゅう」『中京ちゅうきょう法学ほうがく』43かん1ごう、2008ねん、1-191ぺーじ
  36. ^ 1930ねん昭和しょうわ5)ねん10がつ27にちたい中州なかすのうだかぐんきりしゃげんみなみとうけん仁愛じんあいきょう一帯いったいのタイヤルぞく6部落ぶらく300めいが、マヘボ部落ぶらくのモーナ・ルーダオの指揮しき一斉いっせい蜂起ほうきし、奥地おくち警察官けいさつかん駐在ちゅうざいしょ襲撃しゅうげき、ついできりしゃおおやけ学校がっこう運動会うんどうかい開催かいさいちゅうおそい、日本人にっぽんじん134めい殺害さつがいした事件じけん。(岡部おかべ牧夫まきおきりしゃ事件じけん」『日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ』https://japanknowledge.com/library/) 
  37. ^ 前掲ぜんけいおう近代きんだい日本にっぽんにおける台湾たいわん総督そうとく制度せいど研究けんきゅう」2008ねん、156ぺーじ
  38. ^ “조선 독립투쟁 출발점 ‘조명하 義士ぎし 의거’ 세상에 알릴 것””. www.munhwa.com (2018ねん8がつ3にち). 2019ねん3がつ3にち閲覧えつらん
  39. ^ 邦彦くにひこおう行実ぎょうじつ久邇くにみや、1929ねん昭和しょうわ14ねん)、397-404ぺーじ

おも参考さんこう文献ぶんけん史料しりょう

編集へんしゅう
  • けんこころざし研究けんきゅうノート だいちゅう不敬ふけい事件じけん」『言語げんご教育きょういく研究けんきゅうセンター研究けんきゅう年報ねんぽう』23かん、2020ねん、107-113ぺーじ
  • おうてつぐん近代きんだい日本にっぽんにおける台湾たいわん総督そうとく制度せいど研究けんきゅう」『中京ちゅうきょう法学ほうがく』43かん1ごう、2008ねん、1-191ぺーじ
  • 上山うえやま満之まんしすすむちょ/上山うえやまくん記念きねん事業じぎょうかいへん上山うえやま満之まんしすすむ上巻じょうかんなりたけどう、1941ねん
  • 邦彦くにひこおう行実ぎょうじつ久邇くにみや、1929ねん昭和しょうわ14ねん
  • たいちゅう事件じけんかんする軍部ぐんぶ立場たちばけん」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C01003835500、ひそかだい日記にっき だい4さつ 1928ねん昭和しょうわ3ねん防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ