吉益よします 東洞とうどう(よします とうどう、元禄げんろく15年ねん2月がつ5日にち(1702年ねん3月3日にち)- 安永やすなが2年ねん9月25日にち(1773年ねん11月9日にち))は、安芸あき国こく山口やまぐち町まち(現在げんざいの広島ひろしま市し中ちゅう区く橋本はしもと町まち付近ふきん)出身しゅっしんの漢方かんぽう医いで、古ふる方かた派はを代表だいひょうする医いであり、日本にっぽん近代きんだい医学いがく中興ちゅうこうの祖そである。名なは為ため則そく、通称つうしょうは周助しゅうすけ。はじめ東庵とうあんと号ごうし、のち東洞ひがしぼら。
『傷寒しょうかん論ろん』を重視じゅうしするが、その中なかの陰陽いんよう五ご行ぎょう説せつさえも後世こうせいの竄入ざんにゅうとみなし、観念論かんねんろんとして排はいした。30歳さいの頃ころ「万病まんびょうは唯一ゆいいつ毒どく、衆しゅう薬やくは皆みな毒物どくぶつなり。毒どくを似にて毒どくを攻おさむむ。毒どく去さって体からだ佳よなり」と万病まんびょう一いち毒どく説せつを唱となえ、すべての病気びょうきがひとつの毒どくに由来ゆらいするとし、当時とうじの医学いがく界かいを驚愕きょうがくさせた。この毒どくを制せいするため、強つよい作用さようをもつ峻たかし剤ざいを用もちいる攻撃こうげき的てきな治療ちりょうを行おこなった。後ごの呉ご秀三しゅうぞうや富士川ふじかわ游ゆうはこの考かんがえ方かたを近代きんだい的てきで西洋せいよう医学いがくに通つうじるものと高たかく評価ひょうかした。
著書ちょしょには当時とうじのベストセラーとなった『類聚るいじゅう方かた』、『薬くすり徴ちょう』、『薬くすり断だん』などがあり、『東洞ひがしぼら門人もんじん録ろく』によると門弟もんていも546名めいを数かぞえ、後世こうせいの漢方かんぽう医学いがくに与あたえた影響えいきょうは絶大ぜつだいである。ほとんどの著作ちょさくを『東洞ひがしぼら全集ぜんしゅう』(呉ご秀三しゅうぞう編へん.思おもえ文ぶん閣かく)や『吉益よします東洞とうどう大だい全集ぜんしゅう』(小川おがわ新しん校閲こうえつ、横田よこた観かん風ふう監修かんしゅう。たにぐち書店しょてん)にみる事ことが出来できる。
息子むすこの吉益よします南みなみ涯も漢方かんぽう医いとして著名ちょめいで華はな岡おか青あお洲しゅうは弟子でし。
大正たいしょう4年ねん(1915年ねん)、正せい五ご位いを追贈ついぞうされた[1]。