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岡崎文夫 (東洋史学者) - Wikipedia

岡崎おかざき文夫ふみお (東洋とうよう学者がくしゃ)

日本にっぽん歴史れきし

岡崎おかざき 文夫ふみお(おかざき ふみお、1888ねん明治めいじ21ねん2がつ23にち - 1950ねん昭和しょうわ25ねん3月24にち)は、富山とやまけんまれの東洋とうよう学者がくしゃは煥卿、ごうさくらしゅう東北大学とうほくだいがく文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅ文学ぶんがく博士はかせ

岡崎おかざき 文夫ふみお
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1888-02-23) 1888ねん2がつ23にち
日本の旗 日本にっぽん富山とやまけん
死没しぼつ (1950-03-24) 1950ねん3月24にち(62さいぼつ
出身しゅっしんこう 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく学科がっか
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 東洋とうよう
研究けんきゅう機関きかん 東北大学とうほくだいがく
学位がくい 文学ぶんがく博士はかせ
テンプレートを表示ひょうじ

経歴けいれき

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江戸えど時代じだいからつづ富山とやま西本郷にしほんごう豪農ごうのうで、代々だいだい富山とやまはんじゅう村役むらやくつとめた名家めいか岡崎おかざきじゅうろくだいとしてまれる[1]。1905ねん、(旧制きゅうせい富山とやま中学校ちゅうがっこうげん富山とやま県立けんりつ富山とやま高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょうだいよん高等こうとう学校がっこうすすむ。1912ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく学科がっか卒業そつぎょう

1919ねん~21ねん中国ちゅうごく留学りゅうがく帰国きこく東北とうほく帝国ていこく大学だいがくにおける東洋とうよう史学しがく専攻せんこう講座こうざ開設かいせつにあたる。1924ねん東北とうほく帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ助教授じょきょうじゅ。1926ねんよりどう教授きょうじゅ。1949ねん退官たいかん

1950ねん死去しきょ死後しごせいよんくんとう瑞宝章ずいほうしょうおくられた。

業績ぎょうせき

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内藤ないとう湖南こなん師事しじし、ずいとうまでを中世ちゅうせいとする時代じだい区分くぶんせつ継承けいしょうしたうえで、南北なんぼくあさからずいとうへは法制ほうせいいちじるしく整備せいびされたというてんおおきな転換てんかんがあったとし、また、北朝ほくちょう国家こっか体系たいけいぎながら南朝なんちょう文化ぶんか包摂ほうせつしたとするずいから帝国ていこくろん展開てんかいした。すすむ南北なんぼくあさ本格ほんかくてき研究けんきゅうについての先駆せんくしゃであり、とくに『すすむ南北なんぼくあさ通史つうし』は現在げんざいいたるまでこれをえるもの登場とうじょうしていない[2]われる名著めいちょである。

著書ちょしょ

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 岡崎おかざき文夫ふみおちょ川合かわいやすしてい秋月しゅうげつかん解説かいせつずいから帝国ていこくだい平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ587〉、1995ねんISBN 4582805876 
同書どうしょは、岡崎おかざきによる直接ちょくせつ著書ちょしょではなく東北とうほく帝国ていこく大学だいがくでの講義こうぎノートを再編さいへん出版しゅっぱんしたもの。

回想かいそう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 富山とやま高校こうこう人物じんぶつでん富山とやま高校こうこう同窓会どうそうかい”. www.toyama-taromaru.net. 2021ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ 中村なかむらけいなんじ六朝りくちょう貴族きぞくせいろん」『戦後せんご日本にっぽん中国ちゅうごく論争ろんそう』、河合かわい文化ぶんか教育きょういく研究所けんきゅうじょ、1993ねん、80ぺーじ