(Translated by https://www.hiragana.jp/)
慈光寺実仲 - Wikipedia

慈光寺じこうじじつなか

江戸えど時代じだい後期こうきから幕末ばくまつ公卿くぎょう

慈光寺じこうじ じつなか(じこうじ さねなか[2])は、江戸えど時代じだい後期こうきから末期まっきにかけて活動かつどうした日本にっぽん公卿くぎょう半家はげ慈光寺じこうじ当主とうしゅきょうはなくもごうした[1]

 
慈光寺じこうじ じつなか
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 末期まっき
生誕せいたん 天明てんめい7ねん8がつ8にち1787ねん9月19にち
死没しぼつ 文久ぶんきゅう元年がんねん9月6にち1861ねん10月9にち
別名べつめい きょうはなくも[1]
官位かんい したがえ参議さんぎ
主君しゅくん ひかりかく天皇てんのう仁孝天皇にんこうてんのう孝明天皇こうめいてんのう
氏族しぞく 慈光寺じこうじ
父母ちちはは ちち慈光寺じこうじなおなかははいえ女房にょうぼう
兄弟きょうだい じつなか女子じょし
つま 大宮おおみやしょう
いえなかゆうなか明子あきこみぎなかかずなか
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

天明てんめい7ねん8がつ8にち1787ねん9月19にち)、慈光寺じこうじなおなかとして誕生たんじょう[2][3]ははいえ女房にょうぼう[3]

とおる2ねん12月10にち1803ねん1がつ3にち)、16さい元服げんぷく昇殿しょうでんゆるされた[3]文化ぶんか元年がんねん12月4にち1805ねん1がつ4にち)、したがえじょされてから順調じゅんちょう位階いかいすすめ、また大蔵おおくら大輔だいすけひだりけんあたま歴任れきにんした[3]文政ぶんせい11ねん1がつ20日はつか1828ねん3月5にち)、したがえさんじょされ、公卿くぎょうれっせられた[3]

天保てんぽう4ねん1がつ23にち1833ねん3月14にち)、せいさん昇叙しょうじょした[4]ひろし4ねん1がつ13にち1847ねん2がつ27にち])、したがえ昇叙しょうじょした[5]。これがきょくとなる。

文久ぶんきゅう元年がんねん9月6にち1861ねん10月9にち)、薨去こうきょした[6]享年きょうねん75さい[6]

かんれき

編集へんしゅう

文政ぶんせい11ねんまでは公卿くぎょう補任ほにんだいへん, 仁孝天皇にんこうてんのう文政ぶんせいじゅういちねんじょう参照さんしょう

出典しゅってんかぎり、平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい上巻じょうかん, pp. 706–707を参照さんしょうした。

作品さくひん

編集へんしゅう
作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 文化財ぶんかざい指定してい 備考びこう
宝珠ほうしゅ かみほん墨画ぼくが 掛軸かけじくそう 99.8×26.4 大阪おおさか歴史れきし博物館はくぶつかん ひろし4ねん1847ねん 出典しゅってん岩佐いわさ伸一しんいち 2018, p. 62。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ ちち慈光寺じこうじなおなか卒去そっきょしたことによる。

出典しゅってん

編集へんしゅう

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

史料しりょう系譜けいふ

編集へんしゅう

論文ろんぶん

編集へんしゅう
  • 岩佐いわさ伸一しんいち「「宝珠ほうしゅ 慈光寺じこうじじつなかひつ」について」『大阪おおさか歴史れきし博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きようだい16ごう、2018ねん、61-66ぺーじ