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文人画 - Wikipedia

文人ぶんじん

中国ちゅうごく絵画かいが様式ようしき

文人ぶんじん(ぶんじんが)とは、中国ちゅうごくにおいて職業しょくぎょう画家がかいんからだ)にたいし、文人ぶんじん余技よぎとしてえがいた絵画かいがのことをいう[1]きん棋書たる。中国ちゅうごくにとどまらず、近代きんだい以前いぜん朝鮮ちょうせん日本にっぽんにもひろがり、また影響えいきょうおよぼした。

おう中国ちゅうごく大陸たいりく

もともとは上述じょうじゅつのとおり「文人ぶんじんえがいた」のことを言葉ことばであったが、のち文人ぶんじん画風がふうえがかれた絵画かいがのこともしめすようになり、次第しだい様式ようしき概念がいねんあらわ意味いみとなった[2]。そのため、中国ちゅうごく日本にっぽんにおいて、文人ぶんじん(または南画なんが)のすところはことなり、また時代じだいにより意味合いみあいの相違そういがある[3]

中国ちゅうごくにおける文人ぶんじんただし其昌によって定義ていぎづけられたところがおおきい。精神せいしんめんにおいていんからだきたむね)に対抗たいこうするものであり、にな大夫たいふおもであった。一方いっぽう日本にっぽん文人ぶんじん南画なんがともばれた)は、南宗画なんしゅうが以外いがい様式ようしきんだものであり、にな支配しはいそうにあたる武士ぶし階級かいきゅうにとどまらなかった。

中国ちゅうごく

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中国ちゅうごくにおける文人ぶんじんは、ただし其昌によって提示ていじされた定義ていぎによるところがおおきい(#後述こうじゅつ[4]

技法ぎほうにおいては、しわほう・渲染ほう特徴とくちょうづけられ、にな為政者いせいしゃであり知識ちしき階級かいきゅうであった大夫たいふであった[4]

ただし其昌による定義ていぎ

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明代あきよ画家がか批評ひひょうであるただし其昌によって提示ていじされた区分くぶん[5]職業しょくぎょう画家がか技法ぎほうのみに拘泥こうでいするものと批判ひはんし、画家がか内面ないめんせい精神せいしんせい表現ひょうげんされている絵画かいがたか評価ひょうかした。

ただし其昌によれば、いんからだ系譜けいふきたむね北画ほくが)とほぼかさなり、文人ぶんじん系譜けいふ南宗画なんしゅうが南画なんが)とほぼかさなる。この見解けんかい中国ちゅうごく絵画かいがおおきな影響えいきょうあたえたが、ただし其昌の主張しゅちょう対立たいりつするきたむね攻撃こうげきするねらいもあり、その理論りろんては恣意しいてきてんおおい。

かれ説明せつめいでは、とうだいおうがその起源きげんとされる。そうだい大夫たいふによっておおえがかれ、もとすえよん大家たいかころ様式ようしきすすんだ。ただし其昌はみずからをこの系譜けいふうえにおいている。

文人ぶんじんおっとともばれる。これはぶんのなかにえるかたりであるが、滕固はこの語義ごぎ以下いかみっつに分類ぶんるいする[6]

  • 画工がこうのうちでもとく学問がくもん教養きょうようふか作者さくしゃ
  • 大夫たいふ余興よきょうまたは気晴きばらしとみるかんがえ。
  • 体制たいせいうえから大夫たいふ作者さくしゃいんたい作者さくしゃ区別くべつするかんがえ。

だいいち思想しそうすすむ南北なんぼくあさ時代じだい起源きげんがあるとし、儒家じゅかてき功利こうり思想しそうをもつおうさんたか才能さいのう要求ようきゅうする思想しそうがみえる姚最をあげているが、いずれもふか学問がくもん教養きょうようんだひとえがくものとし、これを職業しょくぎょうてき画工がこう作品さくひんから区別くべつするものである。この絵画かいがかんはそのからそう時代じだいがれるものとなる。

だい思想しそうについてはその作者さくしゃれいとしてきたそう政治せいじ詩人しじんであったやその従兄弟いとこぶんどうひとしげている。

だいさん思想しそうについてのろんあかりまつみなみそうろんしゃからたものである。滕固は、大夫たいふかたりについてこれらの語義ごぎえてことなる用例ようれい多少たしょうあれど、この三種さんしゅ語義ごぎることはないとべる。

きたそうにおいてはこれらの特徴とくちょうがひとつの芸術げいじゅつろんてき体系たいけいとして内面ないめんてきふか融合ゆうごうされる。ふるくは六朝りくちょう美術びじゅつにもからそう美術びじゅつ発展はってんすべき萌芽ほうががすでに無意識むいしきのうちにふくまれており、後代こうだい芸術げいじゅつ思想しそうふかくその源泉げんせんきわめればとお過去かこにみえることができるという見地けんちから、だい思想しそうとはひとつの芸術げいじゅつろんてき体系たいけいとしてはきたそう成長せいちょうかく著名ちょめい詩人しじん画家がかたちがその理論りろんてき代表だいひょうしゃとなったが、しかしその思想しそう個々ここ特徴とくちょうすすむ六朝りくちょう源泉げんせん辿たどりうるものである[7]

朝鮮ちょうせん

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日本にっぽん

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浦上うらかみ玉堂きょくどう東雲しののめふるいゆき』(国宝こくほう

日本にっぽんには室町むろまち時代ときよつたえられ、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこうさかんになった。日本にっぽん文人ぶんじんという意味いみで、南宗画なんしゅうが省略しょうりゃくした「南画なんが」という言葉ことば使つかわれることもある。

初期しょき文人ぶんじんじんとしては、祇園ぎおん南海なんかい柳沢やなぎさわ淇園きえん彭城ひゃくがわがいる。

江戸えど時代じだい文人ぶんじん代表だいひょうしゃには、池大雅いけのたいが与謝よさ蕪村ぶそんたにぶんあきら渡辺わたなべ崋山かざんなど。

明治めいじ時代じだい文人ぶんじん大家たいかにはたきかずてい松岡まつおかたまきみどり渡瀬わたせ凌雲りょううん服部はっとり波山はざん奥原おくはら晴湖せいこがいる。以降いこう美術びじゅつかい主導しゅどうするアーネスト・フェノロサ岡倉おかくら天心てんしんからひく評価ひょうかされ、富岡とみおか鉄斎てっさい野口のぐちしょうらが活躍かつやくするが、やがて衰退すいたいした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)「文人ぶんじん」の解説かいせつ文人ぶんじん』 - コトバンク
  2. ^ 河野こうのみちぼう中国ちゅうごく山水さんすい研究けんきゅう奥行おくゆ表現ひょうげん中心ちゅうしんにー』(だい1さつ中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん、2019ねん2がつ、335ぺーじISBN 9784805507995 
  3. ^ 佐々木ささき&佐々木ささき 1998, pp. 97–101.
  4. ^ a b 佐々木ささき&佐々木ささき 1998, pp. 95–97.
  5. ^ 佐々木ささき&佐々木ささき 1998, p. 97.
  6. ^ 滕固『からそう絵画かいが』(初版しょはん中国ちゅうごく古典こてん芸術げいじゅつ出版しゅっぱんしゃ、1958ねん3がつISBN 9787531477303 
  7. ^ 中村なかむら茂夫しげお中国ちゅうごくろん展開てんかい』(初版しょはんちゅう山文やまぶんはなどうひろしからそうもとへん〉、1965ねんNCID BN05160225 

参考さんこう文献ぶんけん

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