斎藤さいとう 信吉のぶよし(さいとう のぶよし、永えい禄ろく2年ねん(1559年ねん) - 慶長けいちょう15年ねん2月がつ3日にち(1610年ねん2月がつ27日にち)は、戦国せんごく時代じだいの武将ぶしょう。通称つうしょうは久右衛門きゅうえもん尉じょう。利信としのぶ。越えつ中国ちゅうごく城生じょうのう城じょう主おも、斎藤さいとう信利のぶとしの弟おとうと。斎藤さいとう利とし基もとの次男じなん。母ははは神保じんぼ氏しの娘むすめ。
『寛政かんせい重じゅう修おさむ諸家しょか譜ふ』には、兄あに信利のぶとしと共ともに早はやくから織田おだ信長のぶながに仕つかえて浅井あさい長政ながまさとの戦たたかいに軍功ぐんこうありと記しるすが、実際じっさいに信長のぶながに属ぞくしたのは上杉うえすぎ謙信けんしん死後しごの織田おだ軍ぐんの越中えっちゅう侵攻しんこう時じのことであろう。天正てんしょう6年ねん10月がつ、越中えっちゅう月岡つきおか野のの戦たたかいにおいて織田おだ軍ぐんは上杉うえすぎ軍ぐんを敗走はいそうさせたが、この時とき信吉のぶよしは上杉うえすぎ方かたの拠点きょてん今泉いまいずみ城しろを攻せめ落おとす手柄てがらを立たてた。諱いみなの「信しん」は信長のぶながよりの偏へん諱いみなという。しかし本能寺ほんのうじの変へんを機きに斎藤さいとう一族いちぞくは上杉うえすぎ方かたに寝返ねがえり、後のちに佐々ささ成しげる政せいによって没落ぼつらくさせられた。
その後ご斎藤さいとう兄弟きょうだいは徳川とくがわ家かに仕官しかんし、信吉のぶよしは上総かずさ国こくで400石せきを与あたえられ、徳川とくがわ秀忠ひでただ付つきとなる。慶長けいちょう5年ねん、関ヶ原せきがはらの戦たたかいにおいて、信吉のぶよしは秀忠ひでただ軍ぐんの一員いちいんとして従軍じゅうぐんし、信州しんしゅう上田うえだ合戦かっせんにおいて奮戦ふんせんし、上田うえだ七なな本ほん槍やりの一人ひとりとして功名こうみょうした。しかし軍令ぐんれい違反いはんを咎とがめられ、一時いちじ上野うえの国こく吾妻あづまに蟄居ちっきょさせられたが、後のちに赦免しゃめんされ大番おおばん、組頭くみがしらにすすみ、慶長けいちょう15年ねん(1610年ねん)2月がつ3日にち、山城やましろ国こく伏見ふしみにて没ぼっした。享年きょうねん52。法名ほうみょうは宗そう胤たね。子孫しそんは旗本はたもととして続つづいた。