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斎藤信吉 - Wikipedia

斎藤さいとう 信吉のぶよし(さいとう のぶよし、えいろく2ねん1559ねん) - 慶長けいちょう15ねん2がつ3にち1610ねん2がつ27にち)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう通称つうしょう久右衛門きゅうえもんじょう利信としのぶえつ中国ちゅうごく城生じょうのうじょうおも斎藤さいとう信利のぶとしおとうと斎藤さいとうとしもと次男じなんはは神保じんぼむすめ

寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』には、あに信利のぶとしともはやくから織田おだ信長のぶながつかえて浅井あさい長政ながまさとのたたかいに軍功ぐんこうありとしるすが、実際じっさい信長のぶながぞくしたのは上杉うえすぎ謙信けんしん死後しご織田おだぐん越中えっちゅう侵攻しんこうのことであろう。天正てんしょう6ねん10がつ越中えっちゅう月岡つきおかたたかにおいて織田おだぐん上杉うえすぎぐん敗走はいそうさせたが、このとき信吉のぶよし上杉うえすぎかた拠点きょてん今泉いまいずみしろとす手柄てがらてた。いみなの「しん」は信長のぶながよりのへんいみなという。しかし本能寺ほんのうじへん斎藤さいとう一族いちぞく上杉うえすぎかた寝返ねがえり、のち佐々ささしげるせいによって没落ぼつらくさせられた。

その斎藤さいとう兄弟きょうだい徳川とくがわ仕官しかんし、信吉のぶよし上総かずさこくで400せきあたえられ、徳川とくがわ秀忠ひでただきとなる。慶長けいちょう5ねん関ヶ原せきがはらたたかにおいて、信吉のぶよし秀忠ひでただぐん一員いちいんとして従軍じゅうぐんし、信州しんしゅう上田うえだ合戦かっせんにおいて奮戦ふんせんし、上田うえだななほんやり一人ひとりとして功名こうみょうした。しかし軍令ぐんれい違反いはんとがめられ、一時いちじ上野うえのこく吾妻あづま蟄居ちっきょさせられたが、のち赦免しゃめんされ大番おおばん組頭くみがしらにすすみ、慶長けいちょう15ねん(1610ねん)2がつ3にち山城やましろこく伏見ふしみにてぼっした。享年きょうねん52。法名ほうみょうそうたね子孫しそん旗本はたもととしてつづいた。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう