日本 ハンセン病 学会
歴史
1927
1995
らい予防 法 についての日本 らい学会 の見解
わが
国 のらい対策 には第 1回 国際 らい会議 (1897年 )が大 きく影響 しているとされる。この会議 での結論 は、らいの予防 には隔離 が最善 ということであったが、無差別 な強制 をすすめてはいなかった。法律 第 11号 「癩 予防 ニ関 スル件 」(1907年 )を議会 に提出 した内務省 も、予防 よりは救済 が先決 であり、在宅 患者 には省令 か訓令 でもって対応 し、患者 の子弟 は養育 院 に預 けるなどと答弁 している。しかし、実際 には予算 的 に多数 の隔離 が困難 であったための口実 に過 ぎず、全国 5か所 の公立 療養 所 に1050床 を整備 したにとどまった。しかもその後 の増 床 は遅々 として進 まず、当事 者 にとっては予期 に反 していたであろうが、この僅 かな入所 患者 の中 からでさえ逃亡 者 が後 を絶 たず、所内 の風紀 を乱 す患者 もいたから、所長 に懲戒 検察 権 を付与 し、権力 をもって所内 の秩序 の統制 を図 った。かくて、3回 にわたる改正 を経 て絶対 隔離 を目指 す法律 第 58号 、癩 予防 法 に改 まった。(1931年 )絶対 隔離 を強行 したのは、らいの伝染 性 はいたって弱 いが、濃密 な接触 を繰 り返 す家族 内 においては、どのような患者 も伝染 源 となる可能 性 があり、しかも発病 すれば生涯 不治 という認識 からであった。これは当時 の社会 的 背景 、例 えばらいを国辱 病 と考 える国粋 主義 や、隔離 を正当 化 する社会 防衛 論 などにも支持 され、患者 の救済 よりも、伝染 源 の社会 からの完全 な排除 を目的 とした対策 が、強力 に推 しすすめられることになった。しかし、最 も確 かな統計 とされる徴兵 検査 の際 に発見 された、いわゆる<壮丁 らい>の年次 推移 は、1897年 から1937年 にいたるまでに、急速 な減少 に向 けての明 らかな漸近 線 を示 している。また1919年 から1935年 までの間 の4回 の全国 調査 でも、患者 の年齢 構成 は、青壮年 者 の減少 に対 して、老年 者 が増加 しており、疫学 的 にみたわが国 のらいは、隔離 とは関係 なく終焉 にむかっていたと言 える。つまりこのような減少 の実態 は、社会 の生活 水準 の向上 に負 うところが大 きく、伝染 源 の隔離 を目的 に制定 された「旧法 」も、推計 的 な結果 論 とはいえ、敢 えて立法 化 する必要 はなかった。それにもかかわらず、「旧法 」の基本 的 原理 を変 えずに「現行 法 」は制定 された(1953年 )。当時 すでに、プロミンの効果 は明 らかであったし、国際 的 には患者 の隔離 は否定 されていた。その後 DDSを経 て、1971年 からはリファンピシンがハンセン病 の治療 に用 いられ、1982年 にはわずか数 回 の与 薬 によって、らい菌 の感染 性 が消失 することも動物 実験 で明 らかにされた。最近 は新 たにニューキノロン系 薬剤 も加 わり、これらを組 み合 わせた多 剤 併用 療法 も著 効 を奏 して〔ママ〕いる。ハンセン病 治療 は、当初 から外来 治療 が可能 であり、ときには対応 が困難 とされたらい性 結節 性 紅 斑 やらい性 神経 炎 も、現在 では十分 管理 できるようになった。さらに、過去 のスルフォン剤 単 剤 による再発 率 に比 べると、多 剤 併用 療法 のそれは極端 に低 い。また、ハンセン病 医学 の現状 をみると、ハンセン病 の感染 経路 、感染 性 と発症 力 との関係 、宿主 の易 感染 性 と遺伝 的 素因 など、不明瞭 な部分 も多 くあるが、最近 の知見 から推 して、一般 の細菌 感染 症 の概念 から逸脱 する研究 報告 は皆無 であり、特別 の感染 症 として扱 うべき根拠 はまったく存在 しない。以上 述 べたように、「現行 法 」はその立法 根拠 をまったく失 っているから、医学 的 には当然 廃止 されなくてはならない。ところでわが国 は、1955年 には全体 の91%余 りの隔離 が終 わり、かってのような隔離 の強制 はなく、外来 治療 が定着 する中 で、新 発生 患者 が激減 したために、療養 所 中心 のハンセン病 対策 を続 けてきた。必然 的 に、社会 との共存 を訴 えるWHOとは相容 れず、いきおい世界 から孤立 してしまった。一方 国内 においても、療養 所 中心 という閉鎖 性 がわざわいして、医療 機関 や研究 機関 がハンセン病 に対 する関心 を薄 めてきたのは否定 できない。日本 らい学会 が、これまでに「現行 法 」の廃止 を積極 的 に主導 せず、ハンセン病 対策 の誤 りも是正 できなかったのは、学会 の中枢 を療養 所 の関係 会員 が占 めて、学会 の動向 を左右 していたからでもあり、長期 にわたって「現行 法 」の存在 を黙認 したことを深 く反省 する。(中略 )終 わりに、救癩 の旗印 を掲 げて隔離 を最善 と信 じ、そこに生涯 を賭 けた人 の思 いまでを、私 たちは踏 みにじる権利 がない。しかし、無謀 な強制 隔離 によって、肉親 と引 き離 された人 の悲痛 な叫 びに、今 改 めて耳 を傾 けながら、これほどの無残 さを黙視 したことに対 し、日本 らい学会 には厳 しい反省 が求 められるであろう。それに、らい対策 も医療 対策 以外 の何 ものでもないから、隔離 の強制 を容認 する世論 の高 まりを意図 して、らいの恐怖 心 をあおりたてるのを先行 してしまったのは、まさに取 り返 しのつかない重大 な誤 りであった。この誤 りは、日本 らい学会 はもちろんのこと、日本 医 学会 全体 も再 認識 しなくてはならない。(後略 )
日本 らい学会 「らい予防 法 」検討 委員 会 尾崎 元昭 、後藤 正道 、長尾 榮治 、成田 稔 (委員 長 )、牧野 正直
総会 および学術 集会
雑誌
- レプラ (
英 称 :LA LEPRO)大阪 皮膚 病 研究所 発行 1930年 4月 1号 発行 最初 は日本 らい学会 機関 誌 ではなかったが、1937年 から日本 らい学会 機関 誌 となった。[3] 日本 らい学会 雑誌 LA LEPRO続 刊 (英 称 :Japanese Journal of Leprosy)日本 らい学会 発行 1977年 -1991年 年 4回 1992年 より年 3回 日本 ハンセン病 学会 雑誌 続 刊 1996年 より、英 称 は変 わらず。 Pubmedによる名称 は Nihon Hansenbyo Gakkai Zasshi.