李り 軌(り き)は、隋ずい末まつ唐とう初はつに割拠かっきょした群雄ぐんゆうの一人ひとり。
涼りょう州しゅう姑しゅうと臧県の人ひと。姑しゅうと臧の資産しさん家かの家いえに生うまれ、郷里きょうりでの名望めいぼうにより多おおくの人士じんしと交際こうさいした。隋ずいの大業おおわざ年間ねんかん、鷹揚おうよう府ふ司つかさ兵へいに任にんぜられた。大業おおわざ13年ねん(617年ねん)、薛挙が金城きんじょう郡ぐんで乱らんを起おこしたのを機きに、李り軌は同郷どうきょうの曹珍・関せき謹・梁りょう碩せき・李り贇・安あん修おさむ仁ひとしらと語かたらって挙兵きょへいした。虎とら賁郎将しょうの謝しゃ統すべ師しや武威ぶい郡ぐん丞すすむの韋士政せいを捕とらえて、武威ぶい郡ぐんを占領せんりょうし、河西かさい大だい涼りょう王おうを自称じしょうした。張ちょう掖わき郡ぐん・敦煌とんこう郡ぐん・西平にしだいら郡ぐん・枹なら罕郡を平定へいていして、河西かさい地方ちほうを領有りょうゆうした。大業おおわざ14年ねん(618年ねん)、唐とうの高祖こうそ李り淵ふかしが薛挙を攻せめた際さいに、李り軌に親書しんしょを送おくり、李り軌を従弟じゅうていとしている。同年どうねん11月がつ、李り軌は皇帝こうていを称しょうして国号こくごうを涼りょうとし、安楽あんらくと元号げんごうを建たて、唐とうに使節しせつを派遣はけんし「大だい涼りょう皇帝こうてい臣しん軌」との表ひょう奉たてまつを行おこなっている。
中国ちゅうごく統一とういつを着実ちゃくじつに進すすめた唐とうの高祖こうそは、安楽あんらく2年ねん(619年ねん)5月がつに安やす興きょう貴とうとを派遣はけんして李り軌に唐とうへの帰順きじゅんを説得せっとくするが、李り軌はこの勧告かんこくをき入きいれなかった。そのため安やす興きょう貴とうとは弟おとうとである戸部とべ尚書しょうしょ安あん修おさむ仁じんと結託けったくし、胡えびす兵へいを動うごかして政変せいへんを起おこした。敗北はいぼくを悟さとった李り軌は、妻子さいしと共ともに玉たま女おんな台だいにのぼり、別わかれの杯はいを交かわした後のちに捕虜ほりょとなり、その後ご長安ながやすに送おくられて処刑しょけいされた。