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雷門助六 - Wikipedia

雷門かみなりもん助六すけろく

日本にっぽん落語らくご名跡みょうせき

雷門かみなりもん 助六すけろく(かみなりもん すけろく)は、落語らくご名跡みょうせき当代とうだいは9代目だいめ。3代目だいめから4代目だいめはつまびらかではない。

6代目だいめ

編集へんしゅう
ろく代目だいめ 雷門かみなりもんかみなりもん 助六すけろくすけろく
本名ほんみょう 青木あおき かがみ太郎たろう
生年月日せいねんがっぴ 1882ねん9月9にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1934-05-06) 1934ねん5月6にち(51さいぼつ
出身しゅっしん   日本にっぽん東京とうきょう
師匠ししょう よん代目だいめやなぎていひだりたのし
さん代目だいめ古今ここんていこころざしなま
名跡みょうせき 1. やなぎていひだり太郎たろう(1897ねん - 1902ねん
2. やなぎていひだり(1902ねん - 1904ねん
3. さん代目だいめ歌六かろく(1904ねん - 1910ねん
4. ろく代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく(1910ねん - 1933ねん
活動かつどう期間きかん 1897ねん - 1933ねん
家族かぞく 8代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく息子むすこ

ろく代目だいめ雷門かみなりもん 助六すけろく1882ねん9月9にち - 1934ねん5月6にち)は、東京とうきょう出身しゅっしん落語らくご本名ほんみょう青木あおき かがみ太郎たろうはち代目だいめ助六すけろく弟子でし実子じっし

  • 東京とうきょう本郷ほんごうまれ。
  • 生家せいか水戸みと徳川とくがわ直属ちょくぞく請負うけおい
  • 一時いちじ沼津ぬまづむ。
  • 学校がっこうてすぐ11さい伯父おじ草履ぞうり奉公ほうこうていたがまともにつとまらなかった。
  • 15さい1897ねんごろにははおとうとであったよん代目だいめやなぎていひだりたのし(オットセイのひだりらく)の門下もんかはいってひだり太郎たろうとなる。
  • やく5ねんほど前座ぜんざ修行しゅぎょう1902ねんふたひだり改名かいめいする。
  • 1904ねん、5代目だいめ助六すけろくの3代目だいめこころざしなま門下もんかうつってさん代目だいめ歌六かろく真打しんうち昇進しょうしんする。
  • そのにち戦争せんそう従軍じゅうぐんしたが復員ふくいん
  • 明治めいじすえには上方かみがたにも出向でむいた。

兄弟子あにでしよん代目だいめ古今ここんていこころざしなま当時とうじ雷門かみなりもんしょう助六すけろく)がいた。本来ほんらいこのしょう助六すけろくじょろく名跡みょうせきぐべきところであるが、歌六かろくしょうじょろくかねじゅうえん支払しはらって助六すけろく名乗なの権利けんりゆずってもらい、1910ねん12月にれてろく代目だいめすけろくとなった。

関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさい一時いちじ下谷しもたに佐竹さたけどおりに寄席よせろくさんちん」を経営けいえい1933ねん引退いんたい表明ひょうめい引退いんたい興行こうぎょう名目めいもく地方ちほう巡業じゅんぎょうちゅう静岡しずおか入道にゅうどうかん出演しゅつえんちゅうおこなわれた地元じもと新聞しんぶんしゃ主催しゅさい仮装かそう大会たいかい出演しゅつえんのためにで着替きが準備じゅんび直後ちょくご脳出血のうしゅっけつたお入院にゅういん、そのまま意識いしき回復かいふくすることなくくなった。まん51さいぼつ墓所はかしょ杉並すぎなみ立法りっぽうてら戒名かいみょうは「もとさとしいんほうおときょう居士こじ」。

非常ひじょう艶福家えんぷくかつねに4、5にん女性じょせいれていて自宅じたくはほとんどかえらなかったという、実子じっしはち代目だいめすけろくおさないころほとんど一緒いっしょあそんでもらった記憶きおくがないという。

7代目だいめ

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なな代目だいめ 雷門かみなりもんかみなりもん 助六すけろくすけろく
本名ほんみょう 島岡しまおか 大助だいすけ
生年月日せいねんがっぴ 1899ねん11月24にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1961-11-19) 1961ねん11月19にち(61さいぼつ
出身しゅっしん   日本にっぽん東京とうきょう
師匠ししょう ろく代目だいめ春風しゅんぷうていやなぎえだ
代目だいめさんゆうていきん
柳家やなぎやかねろう
名跡みょうせき 1. 春風しゅんぷうていゆうえだ
時期じき不明ふめい
2. さんゆうていきんろく
(? - 1922ねん
3. さんゆうてい金賀かねが
(1922ねん - 1924ねん
4. さんゆうてい小金こがね
(1924ねん - 1928ねん
5. 柳家やなぎやしげるろう(1928ねん
6. きょくていうまきん
(1928ねん - ?)
7. 春風しゅんぷうてい梅橋うめばし
(1940ねん - 1942ねん
8. なな代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく
(1942ねん - 1961ねん
囃子ばやし 三下さんさがり鞨鼓
活動かつどう期間きかん ? - 1961ねん
家族かぞく 浪花なにわちんこまみぎ衛門えもんちち)、かがみあじ小次郎こじろう息子むすこ

なな代目だいめ雷門かみなりもん 助六すけろく1899ねん11月24にち - 1961ねん11月19にち)は、落語らくご本名ほんみょう島岡しまおか 大助だいすけ囃子ばやしは『三下さんさがり鞨鼓』。

晩年ばんねん横浜よこはま中心ちゅうしん独演どくえんかい活躍かつやく。また芸能げいのう斡旋あっせんをする興行こうぎょうのようなこともした。一時いちじ池坊いけのぼう華道かどう指南しなん生計せいけいてていた時期じきもある。

1961ねん死去しきょまん61さいぼつ

息子むすこ太神楽だいかぐらかがみあじ小次郎こじろうである。

8代目だいめ

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はち代目だいめ 雷門かみなりもんかみなりもん 助六すけろくすけろく
 
もんあんず葉牡丹はぼたん
本名ほんみょう 岩田いわたいわた 喜多きたきたじ
生年月日せいねんがっぴ 1907ねん4がつ22にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1991-10-11) 1991ねん10月11にち(84さいぼつ
出身しゅっしん   日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう
師匠ししょう ろく代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく
代目だいめやなぎていひだりたのし
弟子でし きゅう代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく
よん代目だいめ春雨はるさめ雷蔵らいぞう
雷門かみなりもん喜助きすけ
名跡みょうせき 1. 雷門かみなりもんしょう助六すけろく
(1912ねん - 1921ねん
2. むつみ五郎ごろう
(1921ねん - 1928ねん
3. 初代しょだい雷門かみなりもん五郎ごろう
(1928ねん - 1962ねん
4. はち代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく
(1962ねん - 1991ねん
囃子ばやし じょろくばやし
活動かつどう期間きかん 1912ねん - 1991ねん
家族かぞく ろく代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろくちち
きゅう代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく養子ようし
所属しょぞく 日本にっぽん芸術げいじゅつ協会きょうかい
落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい
受賞じゅしょうれき
くんとうそうこう旭日きょくじつあきら(1981ねん
文化庁ぶんかちょう芸術げいじゅつさいしょう(1986ねん

はち代目だいめ 雷門かみなりもん 助六すけろく1907ねん4がつ22にち - 1991ねん10月11にち)は、東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう壱岐いき殿しんがりざか出身しゅっしん落語らくご喜劇きげき役者やくしゃ本名ほんみょう岩田いわた 喜多きただし囃子ばやしは『じょろくばやし』。愛称あいしょうは「ろくさん」。

経歴けいれき

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ちちろく代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく。5さいだった1912ねんからちち門下もんかしょうじょろく人形にんぎょうまち末広すえひろ初舞台はつぶたい以降いこうしょうはなしやかっぽれで舞台ぶたいった。

1917ねんには代目だいめやなぎていひだりたのし門人もんじんとなり、小学校しょうがっこうころ一時いちじ中断ちゅうだんしていた時期じきもあったが1921ねん10月には16さいわかさながらむつみ五郎ごろう真打しんうち昇進しょうしん。このときあつし太郎たろうむつみ三郎さぶろうとで若手わかて三羽烏さんばがらすとしてされる。

1928ねんにはちちろく代目だいめむつみかい脱退だったい独立どくりつしたさい自身じしんむつみろう返上へんじょう雷門かみなりもん五郎ごろう改名かいめいする。このころ初代しょだいさんゆうていやつやなぎていしばたのしろく代目だいめたちばな圓蔵えんぞう若手わかて真打しんうち5にんあつめて「大力だいりきかい」を結成けっせい

1934ねんちち死去しきょともな落語らくごはな軽演劇けいえんげき傾倒けいとうし「五郎ごろうショウ」を結成けっせい浅草あさくさなどの劇場げきじょう進出しんしゅつ1937ねんごろに雷門かみなりもん五郎ごろう劇団げきだん結成けっせい大阪おおさかにも進出しんしゅつ大阪おおさかでは新興しんこうキネマ演芸えんげい所属しょぞくであった、戦中せんちゅう戦後せんご寄席よせはな軽演劇けいえんげき一座いちざひきいて全国ぜんこく巡業じゅんぎょう浅草あさくさ松竹しょうちく演芸えんげいじょうなどを中心ちゅうしん喜劇きげき役者やくしゃとして活躍かつやくした。1944ねん応召おうしょうされ1946ねん復員ふくいん復帰ふっき1959ねんより短期間たんきかんながら吉本よしもとしん喜劇きげき座長ざちょうとして出演しゅつえんした。

1956ねん7がつにははち代目だいめかつら文楽ぶんらく斡旋あっせん落語らくご復帰ふっき落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい当時とうじ日本にっぽん芸術げいじゅつ協会きょうかい)に加入かにゅうし、寄席よせ復帰ふっきした。1962ねん10月にちちはち代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく襲名しゅうめいし、落語らくご専念せんねん東京とうきょう名古屋なごや岡山おかやまにまたがる雷門かみなりもん一門いちもん惣領そうりょうとして活躍かつやくした。

1991ねん10がつ11にち大腸だいちょうがんのため死去しきょまん84さいぼつ明治めいじまれで現役げんえきでは最後さいご落語らくごだった。よん代目だいめ古今ここんていこころざしこのみ健在けんざいだったが高座こうざ引退いんたいしていた。

人物じんぶつ

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旧姓きゅうせい青木あおき

「あやつりおどり」「かっぽれ」「人形にんぎょうばなし(二人ふたり羽織はおり)」「住吉すみよしおどり」「まつづくし」などおどりを中心ちゅうしんとした寄席よせげい確立かくりつした。

得意とくいネタは『長短ちょうたん』『しらみ茶屋ちゃや』『片棒かたぼう』『仕立したておろし』『宮戸みやとがわ』など。

1981ねんくんとうそうこう旭日きょくじつあきら受章じゅしょう1986ねん文化庁ぶんかちょう芸術げいじゅつさいしょう受賞じゅしょう

晩年ばんねんひざわるくして正座せいざ出来できなくなったため、まえしゃくだいき、胡坐こざえんじていた。

著書ちょしょ

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  • じょろくばやし』 青磁せいじしゃ 1987ねん4がつ19にち

9代目だいめ

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きゅう代目だいめ 雷門かみなりもんかみなりもん 助六すけろくすけろく
 
もんあんず葉牡丹はぼたん
本名ほんみょう 岩田いわたいわた 孝允たかよしたかまさ
生年月日せいねんがっぴ (1947-01-13) 1947ねん1がつ13にち(77さい
出身しゅっしん   日本にっぽん神奈川かながわけん横浜よこはま
師匠ししょう はち代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく
弟子でし さん代目だいめ雷門かみなりもんしょう助六すけろく
雷門かみなりもんおとすけ
名跡みょうせき 1. 初代しょだい雷門かみなりもんはなすけ
(1965ねん - 1981ねん
2. 代目だいめ雷門かみなりもん五郎ごろう
(1981ねん - 1996ねん
3. きゅう代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく
(1996ねん - )
囃子ばやし じょろくばやし
活動かつどう期間きかん 1965ねん -
家族かぞく はち代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろく義父ぎふ
所属しょぞく 日本にっぽん芸術げいじゅつ協会きょうかい
落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい

9代目だいめ雷門かみなりもん 助六すけろく1947ねん1がつ13にち - )は、神奈川かながわけん横浜よこはま出身しゅっしん落語らくご落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい所属しょぞく本名ほんみょう岩田いわた 孝允たかよしだし囃子ばやしは『じょろくばやし』。

芸歴げいれき

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人物じんぶつ

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はち代目だいめ雷門かみなりもん助六すけろくげいぎ「まつづくし」「あやつりおどり」の第一人者だいいちにんしゃ旧姓きゅうせい青木あおきで、のちはち代目だいめ養子ようし縁組えんぐみして岩田いわたせいとなる。

横顔よこがお落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい会長かいちょう桂歌丸かつらうたまるている(ようにえると強弁きょうべんする)ことをマクラに使つかっている。

真打しんうち

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外部がいぶリンク

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • しょげい懇話こんわかい大阪おおさか芸能げいのう懇話こんわかい共編きょうへん古今ここん東西とうざい落語らくご事典じてん平凡社へいぼんしゃISBN 458212612X
  • 古今ここん東西とうざい噺家はなしか紳士録しんしろく