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霍光 - Wikipedia

こう(かく こう、? - ぶし2ねん3月8にち紀元前きげんぜん68ねん4がつ21にち))は、前漢ぜんかん政治せいじはじめあきらみかどせんみかどの2だい補佐ほさ政治せいじ仕切しきった。霍仲孺の霍去びょう異母弟いぼてい霍禹霍成くんちち上官じょうかん皇后こうごう母方ははかた祖父そふ

霍光
霍光(三才図会より)
前漢ぜんかん
ひろしりくこう
出生しゅっしょう しょう
死去しきょ ぶし2ねん紀元前きげんぜん68ねん
はじめ
諡号しごう せんなりこう
主君しゅくん たけみかどあきらみかど廃帝はいていせんみかど
ちち 霍仲孺
兄弟きょうだい 霍去びょう霍光
霍禹霍成くん
テンプレートを表示ひょうじ

略歴りゃくれき

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たけみかど皇后こうごうまもるおっとおいにあたる名将めいしょう霍去びょう異母弟いぼていというえん出仕しゅっしし、たけみかど信任しんにんあつく霍去びょう死後しご順調じゅんちょう出世しゅっせした。こうもと2ねん紀元前きげんぜん87ねん)にたけみかどくなるとき、まだ8さいおさな皇帝こうていあきらみかど補佐ほさ出来でき人物じんぶつは霍光以外いがいないとおもい、霍光をだい司馬しば大将軍だいしょうぐんにんじてきむにち上官じょうかんともにこれを補佐ほささせた。

しかし、のちに霍光と上官じょうかん桀は対立たいりつするようになった。上官じょうかん桀は、あきらみかどあにであるのに帝位ていいにつけなかったことをうらみにおもっていたつばめおうりゅうだんや、霍光と財政ざいせい政策せいさくなどで対立たいりつしていたくわひろひつじらとはかりごとめぐらせて、あきらみかどに霍光をはいすることを讒言ざんげんしたが、あきらみかどわなかった。そのためへいせ、霍光をあきらみかどはいするくわだてをこしたが、こと露見ろけんつばめおうりゅうだん自殺じさつし、上官じょうかん桀らは誅殺ちゅうさつされた。上官じょうかん桀の一族いちぞくのこったのは皇后こうごう上官じょうかんははが霍光のむすめ)のみであった。

あきらみかど成人せいじんしてからも霍光への信任しんにんあつく、治世ちせい13ねんあいだすべて政治せいじを霍光に仕切しきらせた。

もとたいら元年がんねん紀元前きげんぜん74ねん)、のないままあきらみかどくなると、霍光はたけみかどまごあきらみかどおいにあたるあきら邑王りゅう帝位ていいにつけた。しかしおこないがひどいとしてわずか27にちはいし、わりにたけみかど曾孫そうそんりゅうびょうやめせんみかど)が帝位ていいについた。霍光はつづだい司馬しば大将軍だいしょうぐんとしてかん政治せいじ一任いちにんされていたが、ぶし2ねん紀元前きげんぜん68ねん)にくなった。

たけみかどあとかん政治せいじすみやかにまとめた霍光の功績こうせきだいであったが、かれ自身じしんはひたすらつつしみ、僭越せんえついや専横せんおうけ、だってほろぼすことはなかった。しかし一族いちぞくは霍光の威勢いせいを恃んで傲慢ごうまんであり、せんみかど皇后こうごうもとたいらくん毒殺どくさつしてわりに一族いちぞくむすめ皇后こうごうてるなど、暴慢ぼうまんいが目立めだった。かれらは霍光ほどの人望じんぼうかったことから、霍光きあとはせんみかど実権じっけんうばわれたうえ最後さいごには謀反むほん計画けいかくしたため、せんみかど勅命ちょくめいにより霍禹こししょされ、その生母せいぼ姉妹しまいなど一族いちぞく皆殺みなごろしにしょされた(上官じょうかん皇后こうごうはこのときも無事ぶじんだ)。

霍光と日本にっぽん関白かんぱく

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霍光によって擁立ようりつされたせんみかどは、即位そくい当初とうしょに霍光に政権せいけんゆだねるむねみことのりはっしたが、そのさいもちいられた文言もんごんせき(あずかり)りしろ(もう)す」が、日本にっぽん実質じっしつじょう宰相さいしょうであった関白かんぱく由来ゆらいとされる[1]。また、関白かんぱく異名いみょうとして「ひろしりく」ともしょうするが、これは霍光がはくりくこうであったことに由来ゆらいしている[2]

初代しょだい関白かんぱくである藤原基経ふじわらのもとつねは、陽成ようぜい天皇てんのうはいして皇族こうぞく長老ちょうろう光孝みつたか天皇てんのう擁立ようりつした。『かみすめらぎ正統せいとう』ではこの行動こうどうあきら邑王りゅうはいしてせんみかどむかえた霍光のそれになぞらえて、たたえている。

登場とうじょう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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