風間かざま 礼助れいすけ(かざま れいすけ、明治めいじ7年ねん(1874年ねん)2月がつ4日にち - 昭和しょうわ34年ねん(1959年ねん)9月がつ10日とおか[1])は、日本にっぽんの政治せいじ家か・ジャーナリスト。衆議院しゅうぎいん議員ぎいん、号ごうは冠かんむり峯みね。
長野ながの県けん更級さらしな郡ぐん稲荷山いなりやま村むら(現げん千せん曲きょく市し)生うまれ。成立せいりつ学舎がくしゃ、旧制きゅうせい第一高等学校だいちこうとうがっこうを経へて、帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ学科がっかを卒業そつぎょう[2]。明治めいじ36年ねん(1903年ねん)茅原かやはら華山かざんの後任こうにんとして『長野ながの新聞しんぶん』主筆しゅひつとなる。その後ご、横浜よこはま港湾こうわん改良かいりょう期成きせい委員いいん会かい書記しょき長ちょう、横浜よこはま精糖せいとう会社かいしゃ営業えいぎょう部長ぶちょうなどを務つとめた。同どう45年ねん(1912年ねん)第だい11回かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん総そう選挙せんきょに初はつ当選とうせんし、同年どうねん末まつには憲政けんせい擁護ようご、藩閥はんばつ打破だはの見地けんちから第だい一いち次じ護憲ごけん運動うんどうを推進すいしんした。大正たいしょう2年ねん(1913年ねん)第だい1次じ山本やまもと内閣ないかくに際さいして、尾崎おざき行雄ゆきおらと政友せいゆう会かいを脱党だっとうして政友せいゆう倶楽部くらぶを結成けっせいし、営業えいぎょう税ぜい全廃ぜんぱい運動うんどうでも先陣せんじんに立たって活動かつどうした。
雷かみなり庵あん生せいという筆名ひつめい[3]で雑誌ざっし『大日だいにち』、『劇げきと映画えいが』に寄稿きこう。著書ちょしょに『雷かみなり庵あん贅ぜい録ろく』がある。
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