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「オリフラム」のはんあいだ差分さぶん

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オリフラムがかかげられた戦場せんじょう(とくに[[ひゃくねん戦争せんそう]]ちゅう)では、一切いっさいの[[捕虜ほりょ]]をゆるさず、オリフラムがげられるまでその効力こうりょくつづいたとい、くにげての無慈悲むじひ覚悟かくごあらわれは、フランスぐん鼓舞こぶし、おおいに士気しきたかめたという。
オリフラムがかかげられた戦場せんじょう(とくに[[ひゃくねん戦争せんそう]]ちゅう)では、一切いっさいの[[捕虜ほりょ]]をゆるさず、オリフラムがげられるまでその効力こうりょくつづいたとい、くにげての無慈悲むじひ覚悟かくごあらわれは、フランスぐん鼓舞こぶし、おおいに士気しきたかめたという。
また、自軍じぐん士気しきだけではなく、てきぐん士気しきげる効果こうかもあり、ふるくからヨーロッパの大国たいこくであったフランス王国おうこくてきまわし、一切いっさい容赦ようしゃ恩赦おんしゃあたえられないという事実じじつきつける恐怖きょうふ対象たいしょうでもあった。とりわけ、通常つうじょうなら捕虜ほりょにされた場合ばあい身代金みのしろきん釈放しゃくほうされるという手立てだてがあった王公おうこう貴族きぞくにとっては、捕虜ほりょ一切いっさいゆるされないという事実じじつ一般いっぱんへいよりさらなる恐怖きょうふ対象たいしょうであった。
また、自軍じぐん士気しきだけではなく、てきぐん士気しきげる効果こうかもあり、ふるくからヨーロッパの大国たいこくであったフランス王国おうこくてきまわし、一切いっさい容赦ようしゃ恩赦おんしゃあたえられないという事実じじつきつける恐怖きょうふ対象たいしょうでもあった。とりわけ、通常つうじょうなら捕虜ほりょにされた場合ばあい身代金みのしろきん釈放しゃくほうされるという手立てだてがあった王公おうこう貴族きぞくにとっては、捕虜ほりょ一切いっさいゆるされないという事実じじつ一般いっぱんへいよりさらなる恐怖きょうふ対象たいしょうであった。
[[File:Battle of Poitiers.jpg|thumb|upright=1.2|The [[Battle of Poitiers]] 1356. 左上ひだりうえにオリフラムがられる。]]
[[File:Battle of Poitiers.jpg|thumb|upright=1.2| [[ポワティエのたたか]] 1356. 左上ひだりうえにオリフラムがられる。]]
歴史れきしてきおうはたとして、はじめてオリフラムが言及げんきゅうされたのは[[11世紀せいき]]の[[フランス語ふらんすご叙事詩じょじし]]([[武勲ぶくん]])シャンソン・デ・ローラン(Chanson de Roland:ふつ) (vv. 3093-5)である。最初さいしょはロメイン(Romaine)で、その、モンジョワエ(Montjoie)とえる。伝記でんきによれば、[[カール大帝たいてい]](シャルルマーニュ、Charlemagne:ふつ)が黄金おうごんの[[ランス]]をった[[騎士きし]]が[[サラセン]]を[[聖地せいち]]からくし追放ついほうするという預言よげんもとづき、聖地せいち持参じさんしたとされる。
歴史れきしてきおうはたとして、はじめてオリフラムが言及げんきゅうされたのは[[11世紀せいき]]の[[フランス語ふらんすご叙事詩じょじし]]([[武勲ぶくん]])シャンソン・デ・ローラン(Chanson de Roland:ふつ) (vv. 3093-5)である。最初さいしょはロメイン(Romaine)で、その、モンジョワエ(Montjoie)とえる。伝記でんきによれば、[[カール大帝たいてい]](シャルルマーニュ、Charlemagne:ふつ)が黄金おうごんの[[ランス]]をった[[騎士きし]]が[[サラセン]]を[[聖地せいち]]からくし追放ついほうするという預言よげんもとづき、聖地せいち持参じさんしたとされる。
これは当時とうじ騎士きし王公おうこう貴族きぞくうまってたたかうこと、ランスが馬上もうえやりであること、そして騎兵きへい存在そんざいが[[フランク王国おうこく]]/中世ちゅうせいフランス王国おうこくにとって、戦場せんじょうでの、ないし、戦場せんじょうでなくてもかれらの存在そんざい意義いぎそのもののちからと尊厳そんげん象徴しょうちょうであることから、ランスの存在そんざい重要じゅうようであったことがうかがえる。また、そのはたよりランスのほう重要じゅうようせいたかいことをまえると、はた自体じたいもっぱらランスのかざりであり、「オリフラムのはたそのもの」ではなく、「オリフラムをたずさえたランス」に特別とくべつせいがあった。ゆえに、「オリフラムのはたそのもの」が重要じゅうようとなるのは、時代じだいとも騎兵きへい以外いがい戦場せんじょうでの雌雄しゆうけっする戦法せんぽう数多かずおおえ、ランスの象徴しょうちょうせいうすまることで、はたそのものの意味合いみあいがつよまるのち時代じだいのこととかんがえられている。
これは当時とうじ騎士きし王公おうこう貴族きぞくうまってたたかうこと、ランスが馬上もうえやりであること、そして騎兵きへい存在そんざいが[[フランク王国おうこく]]/中世ちゅうせいフランス王国おうこくにとって、戦場せんじょうでの、ないし、戦場せんじょうでなくてもかれらの存在そんざい意義いぎそのもののちからと尊厳そんげん象徴しょうちょうであることから、ランスの存在そんざい重要じゅうようであったことがうかがえる。また、そのはたよりランスのほう重要じゅうようせいたかいことをまえると、はた自体じたいもっぱらランスのかざりであり、「オリフラムのはたそのもの」ではなく、「オリフラムをたずさえたランス」に特別とくべつせいがあった。ゆえに、「オリフラムのはたそのもの」が重要じゅうようとなるのは、時代じだいとも騎兵きへい以外いがい戦場せんじょうでの雌雄しゆうけっする戦法せんぽう数多かずおおえ、ランスの象徴しょうちょうせいうすまることで、はたそのものの意味合いみあいがつよまるのち時代じだいのこととかんがえられている。

2021ねん1がつ11にち (月)げつ 18:46時点じてんにおけるはん

オリフラム(Oriflamme:ふつ)は、中世ちゅうせいフランス王国おうこくおう軍旗ぐんき)で語源ごげんラテン語らてんごの"Aurea flamma"「黄金おうごんほのお」に由来ゆらいする。 もとは、せいドニないし、サン=ドニだい聖堂せいどうはたであり、宗教しゅうきょうてきな「せいなるはた」の意味合いみあいもねる。

 2種類しゅるいのオリフラムの再現さいげん。また、これらのほかたんあか無地むじはた存在そんざいしていたとされる。

中世ちゅうせいヨーロッパでは、様々さまざましょう国家こっか(ほうこく公国こうこくのような)が独立どくりつ臣従しんじゅうしてはまれたり、滅亡めつぼうしたりなどするようなきや寝返ねがえり、小規模しょうきぼからだい規模きぼ紛争ふんそう非公式ひこうしき戦闘せんとう多数たすうあるなか、フランス王国おうこく国家こっかげ、おうのもとにの戦争せんそうをするときに使用しようされた。 オリフラムがかかげられた戦場せんじょう(とくひゃくねん戦争せんそうなか)では、一切いっさい捕虜ほりょゆるさず、オリフラムがげられるまでその効力こうりょくつづいたとい、くにげての無慈悲むじひ覚悟かくごあらわれは、フランスぐん鼓舞こぶし、おおいに士気しきたかめたという。 また、自軍じぐん士気しきだけではなく、てきぐん士気しきげる効果こうかもあり、ふるくからヨーロッパの大国たいこくであったフランス王国おうこくてきまわし、一切いっさい容赦ようしゃ恩赦おんしゃあたえられないという事実じじつきつける恐怖きょうふ対象たいしょうでもあった。とりわけ、通常つうじょうなら捕虜ほりょにされた場合ばあい身代金みのしろきん釈放しゃくほうされるという手立てだてがあった王公おうこう貴族きぞくにとっては、捕虜ほりょ一切いっさいゆるされないという事実じじつ一般いっぱんへいよりさらなる恐怖きょうふ対象たいしょうであった。

ポワティエのたたか 1356. 左上ひだりうえにオリフラムがられる。

歴史れきしてきおうはたとして、はじめてオリフラムが言及げんきゅうされたのは11世紀せいきフランス語ふらんすご叙事詩じょじし武勲ぶくん)シャンソン・デ・ローラン(Chanson de Roland:ふつ) (vv. 3093-5)である。最初さいしょはロメイン(Romaine)で、その、モンジョワエ(Montjoie)とえる。伝記でんきによれば、カール大帝たいてい(シャルルマーニュ、Charlemagne:ふつ)が黄金おうごんランスった騎士きしサラセン聖地せいちからくし追放ついほうするという預言よげんもとづき、聖地せいち持参じさんしたとされる。 これは当時とうじ騎士きし王公おうこう貴族きぞくうまってたたかうこと、ランスが馬上もうえやりであること、そして騎兵きへい存在そんざいフランク王国おうこく/中世ちゅうせいフランス王国おうこくにとって、戦場せんじょうでの、ないし、戦場せんじょうでなくてもかれらの存在そんざい意義いぎそのもののちからと尊厳そんげん象徴しょうちょうであることから、ランスの存在そんざい重要じゅうようであったことがうかがえる。また、そのはたよりランスのほう重要じゅうようせいたかいことをまえると、はた自体じたいもっぱらランスのかざりであり、「オリフラムのはたそのもの」ではなく、「オリフラムをたずさえたランス」に特別とくべつせいがあった。ゆえに、「オリフラムのはたそのもの」が重要じゅうようとなるのは、時代じだいとも騎兵きへい以外いがい戦場せんじょうでの雌雄しゆうけっする戦法せんぽう数多かずおおえ、ランスの象徴しょうちょうせいうすまることで、はたそのものの意味合いみあいがつよまるのち時代じだいのこととかんがえられている。

こんにちのフランス語ふらんすごにおいて、オリフラムという言葉ことばもと意味いみもとづき、わりをしめはた/しるし/兆候ちょうこうという意味いみ使つかわれることもある。