聖 せい ディオニジオ
殉教者 じゅんきょうしゃ 崇敬 すうけい する教派 きょうは
カトリック教会 きょうかい 記念 きねん 日 び
10月9日 にち 守護 しゅご 対象 たいしょう
頭痛 ずつう 、悪魔 あくま 憑き テンプレートを表示 ひょうじ
パリのディオニュシウス (Dionysius, ? - 250年 ねん 頃 ころ )あるいはパリの聖 せい ディオニジオ は、キリスト教 きりすときょう の殉教者 じゅんきょうしゃ で、カトリック教会 きょうかい で聖人 せいじん 。3世紀 せいき のパリ の司教 しきょう で、250年 ねん 頃 ごろ に殉教 じゅんきょう したとされる。フランス の守護 しゅご 聖人 せいじん として、また十 じゅう 四 よん 救難 きゅうなん 聖人 せいじん (en:Fourteen Holy Helpers )の一人 ひとり として知 し られる。ディオニュシウス という名 な は、「ディオニューソス の召使 めしつかい 」という意味 いみ である。現在 げんざい ではフランス語 ふらんすご 、英語 えいご で“Denis ”と表記 ひょうき され、日本語 にほんご では聖 せい ドニ 、サン・ドニ と呼 よ ばれることが多 おお い。フランスの都市 とし サン=ドニ の名前 なまえ の由来 ゆらい である。
首 くび なしの聖人 せいじん としてヤコブス・デ・ウォラギネ の『黄金 おうごん 伝説 でんせつ 』においても取 と り上 あ げられている、ヨーロッパを代表 だいひょう する聖人 せいじん である。モデルとした絵画 かいが や彫刻 ちょうこく 作品 さくひん も非常 ひじょう に数多 かずおお いが、後述 こうじゅつ のように首 くび なしの聖人 せいじん は必 かなら ずしもディオニュシウスに限 かぎ られないことに留意 りゅうい が必要 ひつよう である[ 1] 。
トゥールのグレゴリウス [ 2] の言 げん によれば、ディオニュシウスはパリシイ族 ぞく の司教 しきょう で、剣 けん で首 くび を切 き られて殉教 じゅんきょう したという。
彼 かれ の人生 じんせい と迫害 はくがい とに触 ふ れた最初 さいしょ の文書 ぶんしょ 『聖 せい ディオニュシウス、ルスティクスおよびエレウテリスの受難 じゅなん 』(Passio SS. Dionysii Rustici et Eleutherii)は、600年 ねん 頃 ごろ に成立 せいりつ したものである。本書 ほんしょ は誤 あやま って詩人 しじん のヴェナンティウス・フォルトゥナトゥスの作 さく とされてきたもので、伝説 でんせつ 集 しゅう 的 てき なものであるが、その記述 きじゅつ によればディオニュシウスは3世紀 せいき 、ガリア を改宗 かいしゅう させるためイタリア から送 おく り出 だ されたものと思 おも われ、ファビアヌス教皇 きょうこう の指示 しじ のもと送 おく り出 だ された「ガリアへの伝道 でんどう 者 しゃ 」のひとりであるともされる。これは、デキウス 帝 みかど の迫害 はくがい によって、ルテティア (パリの古名 こみょう )のキリスト教徒 きりすときょうと の小 しょう 集団 しゅうだん が解散 かいさん した後 のち のことであった。ディオニュシウスは、不離 ふり の同志 どうし であり、ともに殉教 じゅんきょう したルスティクス及 およ びエレウテルスと一緒 いっしょ にセーヌ川 がわ のシテ島 とう で暮 く らした。ローマ時代 じだい のパリは、セーヌ川 がわ から離 はな れた左岸 さがん の高地 こうち に位置 いち していた。
ディオニュシウスは、多 おお くの人々 ひとびと を改宗 かいしゅう させたために異教 いきょう の僧侶 そうりょ の怒 いか りを買 か い、ドルイド の聖地 せいち であったと思 おも われるパリ近郊 きんこう の最 もっと も高 たか い丘 おか (現在 げんざい のモンマルトル )で斬首 ざんしゅ 刑 けい に処 しょ せられた。現在 げんざい のモンマルトルという名 な は、古 ふる いフランス語 ふらんすご で「殉教者 じゅんきょうしゃ の山 やま 」という意味 いみ であり、ディオニュシウスらの殉教 じゅんきょう にちなんで名 な づけられたものである[ 3] 。『黄金 おうごん 伝説 でんせつ 』によると、ディオニュシウスは、首 くび を斬 き り落 お とされた後 のち 、それを拾 ひろ い上 あ げ、説教 せっきょう をしながら数 すう キロメートルを歩 ある いたという[ 4] 。彼 かれ が説教 せっきょう をやめ本当 ほんとう に死 し んだ場所 ばしょ には、小 ちい さな礼拝 れいはい 所 しょ が建 た てられ、歴代 れきだい フランス国王 こくおう が埋葬 まいそう されるサン=ドニ大 だい 聖堂 せいどう になった。他 た の説 せつ では、彼 かれ の遺体 いたい はセーヌ川 がわ に投 な げ込 こ まれ、その夜 よる 、彼 かれ によって改宗 かいしゅう した者 もの 達 たち によって収容 しゅうよう され埋葬 まいそう されたという[ 5] 。
ディオニュシウスは、死後 しご まもなく崇拝 すうはい の対象 たいしょう になった。ディオニュシウス、エレウテルス及 およ びルスティクスの遺体 いたい は殉教 じゅんきょう の地 ち に埋葬 まいそう され、パリの人々 ひとびと の支援 しえん を受 う けた聖 せい ジュヌヴィエーヴによって、その名 な を冠 かん したバシリカ が創建 そうけん された[ 6] 。
やがて、ディオニュシウスの名 な は、フランス軍 ぐん の鬨 かちどき (とき)の声 こえ (Montjoie Saint-Denis、モンジョワ・サン=ドニ。『我 われ らの喜 よろこ びサン=ドニよ』)に使 つか われるようになった。彼 かれ の墓所 はかしょ に奉献 ほうけん された旗 はた (Oriflamme )は、軍旗 ぐんき となり、フランスの国旗 こっき となった。754年 ねん 、フランス出身 しゅっしん の教皇 きょうこう ステファヌス2世 せい は、ディオニュシウス崇敬 すうけい をローマに持 も ち込 こ み、これによって崇敬 すうけい はフランス国外 こくがい にも広 ひろ がった。彼 かれ への崇敬 すうけい はまもなくヨーロッパ中 ちゅう に広 ひろ まった[ 6] 。
ディオニュシウスは800年 ねん 以降 いこう 各地 かくち で祝 いわ われていたが、1568年 ねん になって教皇 きょうこう ピウス5世 せい によって正式 せいしき に列聖 れっせい され、聖人 せいじん 暦 れき に加 くわ えられた。ディオニュシウスの祝日 しゅくじつ は10月9日 にち である[ 5] 。
カトリック教会 きょうかい では、ディオニュシウスは十 じゅう 四 よん 救難 きゅうなん 聖人 せいじん のひとりとして崇敬 すうけい されてきた。ディオニュシウスは悪魔 あくま 憑きや頭痛 ずつう のときに取 と り成 な しを願 ねが うと効果 こうか があるとされていた。[ 7]
『ディオニュシウスの殉教 じゅんきょう 』アンリ・ベルショーズ 、1416年 ねん 。ディオニュシウスと同志 どうし の殉教 じゅんきょう を描 えが いている。
10月9日 にち は、ディオニュシウスと、その同志 どうし で彼 かれ とともに殉教 じゅんきょう し埋葬 まいそう された司祭 しさい ルスティクス、助祭 じょさい エレウテルスの祝日 しゅくじつ として伝統 でんとう 的 てき に祝 いわ われてきた。
少 すく なくとも9世紀 せいき から、ディオニシウス・アレオパギタの伝説 でんせつ とパリのディオニュシウスとはしばしば混同 こんどう されてきた。814年 ねん 頃 ごろ 、ルートヴィヒ1世 せい は、ディオニシウス・アレオパギタの著作 ちょさく とされる書物 しょもつ をフランスにもたらし、それ以来 いらい 、フランスの伝説 でんせつ 作家 さっか の間 あいだ では、パリのディオニュシウスは、有名 ゆうめい な宣教師 せんきょうし でパウロ の弟子 でし であったディオニシウスと同 どう 一人物 いちじんぶつ であるとするのが一般 いっぱん 的 てき となった[ 6] 。聖 せい ディオニュシウスと、ディオニシウス・アレオパギタと、ルートヴィヒ1世 せい がフランスに持 も ち込 こ んだディオニシウス作 さく とされる書物 しょもつ の実際 じっさい の作者 さくしゃ である偽 にせ ディオニシウス・アレオパギタ との人格 じんかく の混同 こんどう は、サン・ドニ修道院 しゅうどういん の院長 いんちょう ヒルドゥイン(en:Hilduin )がルートヴィヒ1世 せい の求 もと めに応 こた えて836年 ねん に著 あらわ した『アレオパギティカ』(Areopagitica)によってさらに広 ひろ まった。今日 きょう の歴史 れきし 書 しょ 編集 へんしゅう 者 しゃ の間 あいだ では、この点 てん について異論 いろん はない。
ディオニュシウスの首 くび なしで歩 ある く様 よう は、美術 びじゅつ 上 じょう は、斬首 ざんしゅ され、司教 しきょう の衣装 いしょう を身 み にまとい、ミトラ を戴 いただ いた自分 じぶん の首 くび を手 て に抱 かか えた姿 すがた で描 えが かれる[ 6] 。この場合 ばあい 、画家 がか にとって、光背 こうはい をどう扱 あつか うかがこの画題 がだい 特有 とくゆう の問題 もんだい となる。首 くび がかつてあったところに光背 こうはい を配 はい する画家 がか もいれば、聖 せい ディオニュシウスが持 も ち運 はこ ぶ首 くび の回 まわ りに光背 こうはい を描 えが く画家 がか もいる。
ただし、首 くび なしの聖人 せいじん はルーベンス 『聖 せい ユストゥスの奇跡 きせき 』(ボルドー美術館 びじゅつかん )やニコラ・フロマン 『聖 せい ミトルの伝説 でんせつ 』(サン・ソヴール大 だい 聖堂 せいどう )等 とう 、多数 たすう のバリエーションが存在 そんざい することに留意 りゅうい が必要 ひつよう である[ 8] 。
また、他 た に聖人 せいじん ではないが、フランスのベルトラン・デ・ボルン も同 おな じく首 くび なしで著名 ちょめい であり、ボッティチェリ やウィリアム・ブレイク などの作品 さくひん がある。
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