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ヤコブス・デ・ウォラギネ

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ヤコブス・デ・ウォラギネ
だい8だいジェノヴァ大司教だいしきょう
着座ちゃくざ 1292ねん
離任りにん 1298ねん7がつ13にち
個人こじん情報じょうほう
出生しゅっしょう 1230ねん?
ジェノヴァ共和きょうわこくヴァラッツェ近郊きんこう
死去しきょ 1298ねん7がつ13にち
ジェノヴァ共和きょうわこくジェノヴァ
墓所はかしょ サン・タゴスティーノ教会きょうかい
聖人せいじん
崇敬すうけい教派きょうは カトリック教会きょうかい
称号しょうごう ぶくしゃ
れつぶく 1816ねん
れつぶく決定けっていしゃ ピウス7せい
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ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine, 1230ねん? - 1298ねん7がつ13にち)は、中世ちゅうせいイタリア年代ねんだい作者さくしゃジェノヴァだい8だい大司教だいしきょう。ヨーロッパでもっとひろまれたキリスト教きりすときょう聖者せいじゃ殉教者じゅんきょうしゃたちの列伝れつでんである『黄金おうごん伝説でんせつ』(Legenda aurea)の作者さくしゃ。その名前なまえはJacobus de VoragineかJacobus a Voragine(ラテン語らてんごかたち)、Jacopo da Varagine(イタリアかたち)がおおもちいられる。カトリック教会きょうかいぶくしゃ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ジェノヴァ西方せいほうにあるしょう都市としヴァラッツェ近郊きんこうまれたとされる。ヴァラッツェにあるドミニコかい学校がっこうかよい、1244ねんに「救世主きゅうせいしゅ天恵てんけい」によりドミニコかい入会にゅうかい。そのつぎとしそう会長かいちょうヨハネス・テウトニクスがジェノヴァにちよったさいに、ヤコブスを短期間たんきかんドイツのケルンともない、そこではじめて5さい年長ねんちょうトマス・アクィナス出会であっているというせつもある。

伝承でんしょうによるとヤコブスはボローニャパリまなび、教父きょうふがく典礼てんれいがくくわしかったとされるが、かれくわえられる神学しんがくしゃ学士がくし修士しゅうし博士はかせなどの肩書かたがきは、後世こうせい勝手かってにつけた称号しょうごうかんがえられる。

1251ねん1253ねんには托鉢たくはつ巡回じゅんかいおもとする説教せっきょう活動かつどう従事じゅうじし、たちまち傑出けっしゅつした説教せっきょうという名声めいせい獲得かくとく。そのあいだ1252ねんにペトルスという同門どうもん説教せっきょう修道しゅうどう道中どうちゅう殉教じゅんきょうするという事件じけんこり、ヤコブスはそのちょ黄金おうごん伝説でんせつ』のいちしょう列聖れっせいされたペトルスにささげているところから、聖者せいじゃでん執筆しっぴつする構想こうそうはこのころからあったのではないかと推測すいそくされる。1264ねんころに修道院しゅうどういんふく院長いんちょう、やがて院長いんちょうとなる。1288ねんにはルッカ1290ねんにはフェッラーラかれ地方ちほうロンバルディア)の代理人だいりにんとして会議かいぎ参加さんかする。晩年ばんねん大作たいさく1297ねん完成かんせいしたのが『ジェノヴァ年代ねんだい』(Chronica Civitatis Januensis)である。1292ねんからそのまでにジェノヴァ大司教だいしきょうつとめる。遺体いたい修道院しゅうどういん教会きょうかい現在げんざいのサン・タゴスティーノ教会きょうかい)にほうむられる。その当時とうじさかんであったグェルフとうギベリンとうあらそいを融和ゆうわすることに熱心ねっしんな「仲裁ちゅうさいしゃ」としての功績こうせきにより、1816ねんにカトリック教会きょうかいぶくしゃれっせられた。

黄金おうごん伝説でんせつ[編集へんしゅう]

ウォラギネの主著しゅちょである『黄金おうごん伝説でんせつ』は、1267ねんころに完成かんせいした。ラテン語らてんご散文さんぶんかれ、きゅう新約しんやく聖書せいしょ全体ぜんたいにほぼ匹敵ひってきする分量ぶんりょうである。その最初さいしょしょうは「おも降臨こうりん再臨さいりん」をあつかい、新約しんやく聖書せいしょおわりへん直接ちょくせつむすびつき、いわば聖書せいしょ物語ものがたりかたちをとっている。聖人せいじんたちの伝説でんせつのみならず、ヨーロッパ中世ちゅうせいまでに成立せいりつしたキリスト教きりすときょう祭日さいじつなどの習慣しゅうかん聖書せいしょ権威けんいにまでさかのぼっていている。この著作ちょさくがヨーロッパ文化ぶんかあたえた影響えいきょうは、はかれない。人文書院じんぶんしょいんより邦訳ほうやく刊行かんこうされた。現在げんざい平凡社へいぼんしゃライブラリー

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]