ケネス・アール・ウィルバー・ジュニア (Kenneth Earl "Ken" Wilber Junior , 1949年 ねん 1月 がつ 31日 にち - )は、現代 げんだい アメリカのニューエイジ の思想家 しそうか 、トランスパーソナル心理 しんり 学 がく の論客 ろんかく 、哲学 てつがく 者 しゃ 。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、オクラホマ州 しゅう 生 う まれ。心理 しんり 学 がく の範疇 はんちゅう を超 こ えたアメリカを代表 だいひょう する哲学 てつがく 者 しゃ で、インテグラル思想 しそう の提唱 ていしょう 者 しゃ である。東洋 とうよう の思想 しそう と修行 しゅぎょう の影響 えいきょう を大 おお きく受 う けており、東洋 とうよう の宗教 しゅうきょう 的 てき な知見 ちけん 、霊的 れいてき 発達 はったつ の思想 しそう と現代 げんだい 心理 しんり 学 がく を総合 そうごう 的 てき に統合 とうごう するという巨大 きょだい な試 こころ みを成 な し、「フロイト とブッダ を結合 けつごう させた」というキャッチフレーズで知 し られている。
23歳 さい の時 とき に、トランスパーソナル心理 しんり 学 がく 方面 ほうめん の様々 さまざま なセラピーや古今 ここん 東西 とうざい の宗教 しゅうきょう 思想 しそう とを鳥瞰図 ちょうかんず 的 てき に組 く み合 あ わせ、わかりやすくまとめた第 だい 1作 さく 『意識 いしき のスペクトル』を公刊 こうかん してベストセラーとなり、一躍 いちやく 時代 じだい の寵児 ちょうじ となった。トランスパーソナル心理 しんり 学 がく の代表 だいひょう 的 てき 論客 ろんかく として、その発展 はってん に大 おお きく貢献 こうけん し、最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく を持 も っており、その評価 ひょうか は賛否 さんぴ 両論 りょうろん であった。世界 せかい の伝統 でんとう 宗教 しゅうきょう にみられる、高次 こうじ の微細 びさい なエネルギーに対応 たいおう する身体 しんたい 性 せい である微 ほろ 細身 ほそみ の概念 がいねん を前提 ぜんてい とし、エネルギーが階層 かいそう をなし多次元 たじげん の場 ば を造 つく り出 だ しているという普遍 ふへん 的 てき な霊的 れいてき 伝統 でんとう 「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」に連 つら なる思想家 しそうか であり、ヒンドゥー教 きょう のヴェーダーンタ や仏教 ぶっきょう といった「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」が提示 ていじ するものが正 ただ しいという前提 ぜんてい に立 た って思想 しそう が展開 てんかい されている。『アートマン・プロジェクト』では、人間 にんげん の心 しん の発達 はったつ は、ウパニシャッド の「梵我一如 いちにょ 」の「我 わが (アートマン )」であるところの真 しん の自己 じこ を希求 ききゅう して進 すす んでいく運動 うんどう であると説 と き、その心理 しんり 的 てき な発達 はったつ 、意識 いしき の evolution(進化 しんか 、外 そと 展 てん )の過程 かてい を示 しめ した。ウィルバーは、自己 じこ 意識 いしき が生 しょう じる前 ぜん 段階 だんかい 、自我 じが 意識 いしき が生 しょう じるパーソナルな意識 いしき 、自我 じが 領域 りょういき を超 こ えてアイデンティティが拡張 かくちょう するトランスパーソナルな意識 いしき へ至 いた る発達 はったつ 過程 かてい としてモデル化 か し、さらにトランスパーソナルな意識 いしき を3段階 だんかい に分 わ けて説明 せつめい している。
1990年代 ねんだい 中期 ちゅうき 以降 いこう 、トランスパーソナル思想 しそう からの決別 けつべつ を宣言 せんげん し、これを構成 こうせい 要素 ようそ として統合 とうごう するより包括 ほうかつ 的 てき な理論 りろん として、「すべては正 ただ しいが、部分 ぶぶん 的 てき である」を原理 げんり とするインテグラル思想 しそう を提唱 ていしょう し、自身 じしん の心理 しんり 学 がく アプローチを「統合 とうごう 的 てき 」と好 この んで説明 せつめい している。
代表 だいひょう 作 さく は『進化 しんか の構造 こうぞう 』(Sex, ecology, spirituality / Shambhala, 1995)、 『宗教 しゅうきょう と科学 かがく の統合 とうごう 』(The marriage of sense and soul / Random House, 1998)、『万物 ばんぶつ の歴史 れきし 』(A Brief history of Everything / Shambhala, 1996)など。 20以上 いじょう にも及 およ ぶ著作 ちょさく は世界中 せかいじゅう の言語 げんご に翻訳 ほんやく され、専門 せんもん 家 か ・一般 いっぱん 読者 どくしゃ の双方 そうほう に幅広 はばひろ く読 よ まれている。
インテグラル思想 しそう の研究 けんきゅう 組織 そしき であるIntegral Instituteを主催 しゅさい し、2005年 ねん には総合大学 そうごうだいがく であるIntegral Universityを発足 ほっそく 、現在 げんざい 同 どう 大学 だいがく のPresidentとして運営 うんえい の中核 ちゅうかく を担 にな っている。
彼 かれ のインテグラル思想 しそう は、コーチング において一 ひと つの流派 りゅうは になっている。また、コンサルタントのフレデリック・ラルーは、インテグラル理論 りろん における「意識 いしき のスペクトラム」を元 もと に、組織 そしき のフェーズを5段階 だんかい に分 わ けてとらえ、進化 しんか 形 がた の組織 そしき モデル「ティール組織 そしき 」を提唱 ていしょう した[8] 。
ケン・ウィルバーは、1949年 ねん 1月 がつ 31日 にち 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のオクラホマ州 しゅう に生 う まれた。合衆国 がっしゅうこく 空軍 くうぐん に在籍 ざいせき していた父親 ちちおや の頻繁 ひんぱん な配置 はいち 転換 てんかん にともない、幼児 ようじ 期 き は国内 こくない を転々 てんてん とした(転居 てんきょ 先 さき には、バミューダ・エルパソ・テキサス・アイダホ・グレイトフォールズ・モンタナが含 ふく まれる)。ウィルバーは、当時 とうじ を回想 かいそう して、頻繁 ひんぱん な転居 てんきょ が苦痛 くつう であったこと、そして、そうした経験 けいけん のなかで物事 ものごと に執着 しゅうちゃく しない態度 たいど を習得 しゅうとく したことを述懐 じゅっかい している。いずれにしても、この時期 じき からウィルバーは、勉強 べんきょう において非常 ひじょう に優秀 ゆうしゅう な成績 せいせき をおさめ、数々 かずかず の賞 しょう を受賞 じゅしょう していた。また、当時 とうじ から非常 ひじょう に社交 しゃこう 的 てき な性格 せいかく で、運動 うんどう や自治 じち 活動 かつどう 等 とう 、課外 かがい 活動 かつどう にも積極 せっきょく 的 てき に取 と り組 く んでいたという。
高校 こうこう 生活 せいかつ をネブラスカ州 しゅう のリンカーン で修了 しゅうりょう 後 ご 、1968年 ねん にウィルバーはデューク大学 だいがく の医学部 いがくぶ に進学 しんがく する。しかし、ウィルバーは、進学 しんがく 後 ご すぐに、老子 ろうし の道徳 どうとく 経 けい の「道 みち (みち)の道 みち とすべきは、常 つね (つね)の道 みち に非 ひ (あら)ず。名 な (な)の名 な とすべきは、常 つね の名 な に非 ひ ず。名 な 無 な きは天地 てんち (てんち)の始 はじ め、名 な 有 あ るは万物 ばんぶつ (ばんぶつ)の母 はは 。」という冒頭 ぼうとう の一文 いちぶん に出会 であ った。彼 かれ は科学 かがく を愛 あい する青年 せいねん だったが、この出会 であ いにより、それまでに自己 じこ を支 ささ えてきた現代 げんだい 科学 かがく を核 かく とする思想 しそう 的 てき 基盤 きばん を根本 こんぽん 的 てき に揺 ゆ さぶられる深刻 しんこく な精神 せいしん 的 てき 危機 きき を経験 けいけん することになる。こうした危機 きき のなか、ウィルバーはデューク大学 だいがく を退学 たいがく し、ネブラスカにもどり、ネブラスカ大学 だいがく に再 さい 入学 にゅうがく する。この頃 ころ 、ウィルバーは、化学 かがく と生物 せいぶつ 学 がく を専攻 せんこう しながら、同時 どうじ に、自 みずか らの人生 じんせい の意味 いみ を回復 かいふく しようという内的 ないてき な欲求 よっきゅう に突 つ き動 うご かされ、東西 とうざい の哲学 てつがく 書 しょ を貪 むさぼ るように読破 どくは し、また、日本 にっぽん からの禅 ぜん の修行 しゅぎょう とチベット仏教 ぶっきょう の修行 しゅぎょう に集中 しゅうちゅう 的 てき に取 と り組 く むようになったという。その後 ご 、ウィルバーは、生物 せいぶつ 化学 かがく の専攻 せんこう 生 せい として大学院 だいがくいん に進学 しんがく するが、その頃 ころ すでに哲学 てつがく 的 てき 思索 しさく と修行 しゅぎょう の実践 じっせん に自己 じこ の重心 じゅうしん を移行 いこう していたウィルバーは、学位 がくい の取得 しゅとく を目前 もくぜん に退学 たいがく をすることになる。
退学 たいがく 後 ご 、ウィルバーは、家庭 かてい 教師 きょうし や皿洗 さらあら いをはじめとする諸々 もろもろ のアルバイトをして生計 せいけい を立 た てながら、思索 しさく と修行 しゅぎょう と執筆 しっぴつ の生活 せいかつ に従事 じゅうじ する。1972年 ねん には、家庭 かてい 教師 きょうし の生徒 せいと のひとりであったエイミー・ワグナー(Amy Wagner)と結婚 けっこん している。結婚 けっこん 生活 せいかつ は1981年 ねん まで続 つづ いた。また、この頃 ころ 、ウィルバーは、自 みずか らの文章 ぶんしょう 技術 ぎじゅつ を磨 みが くために、著名 ちょめい な東洋 とうよう 思想 しそう ・禅 ぜん の研究 けんきゅう 者 しゃ であるアラン・ワッツ (Alan Watts)の全 ぜん 著作 ちょさく をノートに書 か きうつしたという。
ウィルバーの執筆 しっぴつ 作業 さぎょう は、普通 ふつう 、まず10月 がつ 間 あいだ ほど資料 しりょう を読 よ みこむ作業 さぎょう をすることからはじまるという。そして、あるとき(「ある朝 あさ 、目覚 めざ めると」)、自 みずか らのなかに作品 さくひん が完全 かんぜん なかたちで完成 かんせい していることに気 き づくのだという。それからの数 すう 月 がつ 間 あいだ は、この「作品 さくひん 」を文字 もじ として書 か きとめていく作業 さぎょう に没頭 ぼっとう することになる。今日 きょう まで継続 けいぞく するウィルバーの旺盛 おうせい な創造 そうぞう 活動 かつどう は、基本 きほん 的 てき に、常 つね にこうした過程 かてい をとおして展開 てんかい しているということだが、それはこの時期 じき に著者 ちょしゃ のなかで確立 かくりつ されたものである。
1973年 ねん 、ウィルバーは『意識 いしき のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)を完成 かんせい する。この作品 さくひん は、20以上 いじょう の出版 しゅっぱん 社 しゃ に断 ことわ られた後 のち 、1977年 ねん にQuest Booksより出版 しゅっぱん される。この作品 さくひん は非常 ひじょう に評価 ひょうか され、ウィルバーは瞬 またた く間 ま に意識 いしき 研究 けんきゅう における新 あたら しいパイオニアとして認識 にんしき されることになる。この成功 せいこう を契機 けいき として、ウィルバーのもとには多数 たすう の教職 きょうしょく の招待 しょうたい が舞 ま いこむようになる。ウィルバーは、こうしたリクエストにこたえて、短期 たんき 的 てき にレクチャーやワークショップの提供 ていきょう を中心 ちゅうしん とした教育 きょういく 活動 かつどう に従事 じゅうじ することになる。しかし、教育 きょういく 活動 かつどう の喜 よろこ びを満喫 まんきつ しながらも、ウィルバーは、間 ま もなく執筆 しっぴつ 生活 せいかつ に自 みずか らの活動 かつどう を集中 しゅうちゅう することを決意 けつい する。この決断 けつだん について、ウィルバーはこう述懐 じゅっかい する。
それは今 いま という時間 じかん をどう活用 かつよう するかについての決断 けつだん ということできるものでした。この瞬間 しゅんかん に、わたしは、過去 かこ に書 か きあげたものについて説明 せつめい をすることもできますし、また、新 あたら しいものを生 う みだすこともできます。それは、これらのうちどちらを選択 せんたく するかということでした。
1978年 ねん 、ウィルバーは、ジャック・クリッテンデン(Jack Crittenden)と協力 きょうりょく して、雑誌 ざっし ReVisionを創刊 そうかん する。1979年 ねん には、『意識 いしき のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)の「要約 ようやく 」である『無 む 境界 きょうかい 』(No Boundary)を出版 しゅっぱん 。その数 すう 年 ねん 後 ご には、ウィルバーの理論 りろん 体系 たいけい の新 しん 段階 だんかい の到来 とうらい を告 つ げる『アートマン・プロジェクト』(The Atman Project)(1980年 ねん )と『エデンより』(Up from Eden)(1981年 ねん )を発表 はっぴょう する。また、この頃 ころ 、ReVision編集 へんしゅう の作業 さぎょう に集中 しゅうちゅう するために、マサチューセッツ州 しゅう ケンブリッジに移動 いどう する。
1983年 ねん 、ウィルバーはカリフォルニア州 しゅう マリン郡 ぐん に移動 いどう する。間 あいだ もなくして、ウィルバーはロジャー・ウォルシュ(Roger Walsh)とフランシス・ヴォーン(Francis Vaughan)の紹介 しょうかい でトレヤ・キラム(Treya Killam)と出逢 であ い、結婚 けっこん する。しかし、結婚 けっこん の数日 すうじつ 後 ご 、トレヤは乳癌 にゅうがん と診断 しんだん され、1984年 ねん から1987年 ねん まで、ウィルバーは、執筆 しっぴつ 活動 かつどう をほぼ完全 かんぜん に停止 ていし して、彼女 かのじょ の看病 かんびょう に集中 しゅうちゅう することになる。後日 ごじつ ウィルバーは、この過酷 かこく な状況 じょうきょう のなかで、自 みずか らが一時 いちじ 的 てき に瞑想 めいそう の実践 じっせん を放棄 ほうき し、アルコールに依存 いぞん するようになったことを報告 ほうこく している。また、1985年 ねん 、療養 りょうよう 生活 せいかつ のために夫婦 ふうふ で訪問 ほうもん したネバダ州 しゅう レイク・タホで、ウィルバーは、汚染 おせん 物質 ぶっしつ 流出 りゅうしゅつ のためにひきおこされた疾病 しっぺい (RNase )に罹患 りかん する(ウィルバーは、今日 きょう も、この慢性 まんせい 疾患 しっかん との闘病 とうびょう 生活 せいかつ を続 つづ けている)。1987年 ねん 、夫婦 ふうふ はコロラド州 しゅう ボルダー に移動 いどう し、1989年 ねん のトレヤの死 し まで、比較 ひかく 的 てき な平穏 へいおん のなかで時間 じかん を過 す ごすことになる。ウィルバーは、トレヤの遺 のこ した日記 にっき を織 お り交 ま ぜながら、ふたりの出逢 であ いから離別 りべつ までを著作 ちょさく 『グレース・アンド・グリット』(Grace and Grit)(1991)にまとめている。
数 すう 年間 ねんかん の喪 も に服 ふく した後 のち 、1993年 ねん に、ウィルバーは10年 ねん ぶりの理論 りろん 書 しょ を完成 かんせい させた(出版 しゅっぱん は1995年 ねん )。それが、今日 きょう 、ウィルバーの代表 だいひょう 作 さく として認知 にんち されている『進化 しんか の構造 こうぞう 』(Sex, Ecology, Spirituality)である(この作品 さくひん のまえに発表 はっぴょう した最後 さいご の理論 りろん 書 しょ はTransformations of Consciousness)。この作品 さくひん について、著者 ちょしゃ は、「自 みずか らの最初 さいしょ の成熟 せいじゅく した作品 さくひん 」("my first mature work")と形容 けいよう しており、現在 げんざい 、構想 こうそう されている「コスモス三 さん 部 ぶ 作 さく 」(Kosmos Trilogy)の第 だい 一部 いちぶ を構成 こうせい する作品 さくひん であるという。
1996年 ねん には『進化 しんか の構造 こうぞう 』の「要約 ようやく 」として『万物 ばんぶつ の歴史 れきし 』(A Brief History of Everything)を、そして、1997年 ねん には『進化 しんか の構造 こうぞう 』について投 な げかけられた批判 ひはん に応答 おうとう することを目的 もくてき として執筆 しっぴつ された論文 ろんぶん をまとめた『統合 とうごう 心理 しんり 学 がく への道 みち 』(The Eye of Spirit)を発表 はっぴょう した。また、1998年 ねん には、Random Houseより、『科学 かがく と宗教 しゅうきょう の統合 とうごう 』(The Marriage of Sense and Soul)を発表 はっぴょう している。
1997年 ねん 、ウィルバーは、日々 ひび の哲学 てつがく 的 てき 考察 こうさつ を日記 にっき 形式 けいしき でまとめて、これを1999年 ねん に『ワン・テイスト』(One Taste)として出版 しゅっぱん している。この作品 さくひん で、ウィルバーは、自 みずか らの理論 りろん 家 か としての側面 そくめん のみならず、実践 じっせん 家 か としての側面 そくめん を強調 きょうちょう している。その後 ご 、1999年 ねん には Integral Psychology を、2000年 ねん には『万物 ばんぶつ の理論 りろん 』(A Theory of Everything)を、そして、2002年 ねん には初 はじ めての小説 しょうせつ 作品 さくひん である Boomeritis を発表 はっぴょう している。ウィルバーは、この時期 じき をそれまでの執筆 しっぴつ 生活 せいかつ において最 もっと も生産 せいさん 的 てき な時期 じき であると回顧 かいこ している(また、この時期 じき 、Shambhala Publicationsは、ウィルバーの全 ぜん 著作 ちょさく を編纂 へんさん した集成 しゅうせい の刊行 かんこう を開始 かいし している――現在 げんざい (2006年 ねん 4月 がつ )、8巻 かん が刊行 かんこう 済 ず み)。
私生活 しせいかつ の領域 りょういき では、1997年 ねん にボウルダーにあるNaropa Instituteの修士 しゅうし 課程 かてい に在籍 ざいせき していたマーシー・ウォルターズ(Marci Walters)と交際 こうさい をはじめ、2001年 ねん に結婚 けっこん をし、2002年 ねん に離婚 りこん している。その後 ご コロラド州 しゅう デンバーに移動 いどう して、著述 ちょじゅつ 活動 かつどう 、そして、自 みずか らの主催 しゅさい するIntegral InstituteやIntegral Universityの運営 うんえい 活動 かつどう に取 と り組 く んでいる。
ウィルバーの思想 しそう は、オルダス・ハクスリー が『永遠 えいえん の哲学 てつがく 』(1947)で語 かた った、すべての宗教 しゅうきょう は教義 きょうぎ ・経験 けいけん において深 ふか い構造 こうぞう を共有 きょうゆう しているという信念 しんねん に基 もと づく。また、世界 せかい の宗教 しゅうきょう ・哲学 てつがく を研究 けんきゅう するようになった20代 だい の頃 ころ から、日本 にっぽん からの禅 ぜん の修行 しゅぎょう とチベット仏教 ぶっきょう の修行 しゅぎょう を行 おこな っており、この修行 しゅぎょう による境涯 きょうがい 、境地 きょうち が思想 しそう の基盤 きばん となっている。
20代 だい で思想 しそう 的 てき 探究 たんきゅう を始 はじ めたウィルバーは、世界中 せかいじゅう の宗教 しゅうきょう ・哲学 てつがく の著作 ちょさく を読 よ みふけり、心理 しんり 学 がく や東洋 とうよう 宗教 しゅうきょう が説 と く内容 ないよう が異 こと なるのは、同 おな じ心 しん に対 たい して対立 たいりつ ・矛盾 むじゅん する見方 みかた をしているのではなく、心 しん の別々 べつべつ のスペクトルを見 み ているからであり、そう見 み れば、それぞれの理論 りろん ・主張 しゅちょう を補 おぎな い合 あ うものとして統合 とうごう できるのではないかというアイデアを得 え た[10] 。最初 さいしょ の著作 ちょさく 『意識 いしき のスペクトル』は、西洋 せいよう の心理 しんり 学 がく や東洋 とうよう 宗教 しゅうきょう の心 しん についての様々 さまざま な説 せつ を意識 いしき のスペクトルというモデルで統合 とうごう 的 てき に捉 とら えた[10] 。彼 かれ が『意識 いしき のスペクトル』で提示 ていじ したようなスペクトル・モデルが、トランスパーソナル心理 しんり 学 がく の基盤 きばん 、基礎 きそ 理論 りろん となっている。
世界 せかい の伝統 でんとう 宗教 しゅうきょう において、宇宙 うちゅう はエネルギー(気 き 、プラーナなどと呼 よ ばれる)に満 み ちており、エネルギーは微細 びさい な次元 じげん から粗雑 そざつ な次元 じげん に展開 てんかい すると考 かんが え、微細 びさい なエネルギーに対応 たいおう する身体 しんたい 性 せい である微 ほろ 細身 ほそみ という概念 がいねん を前提 ぜんてい とし、神 かみ 的 てき なエネルギーがスペクトル的 てき に自己 じこ 展開 てんかい し階層 かいそう をなす多次元 たじげん の場 ば を作 つく り出 だ しているという宇宙 うちゅう 観 かん が多 おお くみられ、こうした普遍 ふへん 的 てき な霊的 れいてき 伝統 でんとう は「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」と呼 よ ばれるが、ウィルバーはこの「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」に連 つら なる思想家 しそうか であり、「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」の提示 ていじ するものが正 ただ しいという前提 ぜんてい に立 た って思想 しそう を展開 てんかい している。こうした態度 たいど は、実証 じっしょう されないものはすべて疑 うたが うという近代 きんだい の知的 ちてき 態度 たいど とは全 まった く異 こと なっている。彼 かれ の仮説 かせつ は、科学 かがく 的 てき 認識 にんしき 方法 ほうほう の限界 げんかい の自覚 じかく から出発 しゅっぱつ しており、検証 けんしょう の手段 しゅだん として、「科学 かがく 的 てき 認識 にんしき 」の方法 ほうほう ではなく、魂 たましい の次元 じげん 固有 こゆう の方法 ほうほう があると主張 しゅちょう する。「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」に基 もと づく階層 かいそう 論 ろん モデルをはっきりと知 ち のパラダイム として打 う ち出 だ している。
彼 かれ にとって「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」とは、「存在 そんざい の大 おお いなる連鎖 れんさ 」という物質 ぶっしつ 的 てき ・心的 しんてき ・霊的 れいてき な進化 しんか の過程 かてい において、物質 ぶっしつ ・心 しん ・霊 れい (スピリット)が相互 そうご に関係 かんけい していることを教 おし えるものであり、この進化 しんか の連鎖 れんさ は、心理 しんり 的 てき な発達 はったつ において、自己 じこ 意識 いしき がない・もしくは原初 げんしょ 的 てき ・身体 しんたい 的 てき な自己 じこ 意識 いしき しかないプリパーソナルな意識 いしき から、自我 じが 意識 いしき が生 しょう じるパーソナルな意識 いしき 、自我 じが 領域 りょういき を超 こ えてアイデンティティが拡張 かくちょう するトランスパーソナルな意識 いしき へ至 いた る発達 はったつ 過程 かてい としてみられるとされる。さらに、トランスパーソナルな次元 じげん にも段階 だんかい があるとし、心象 しんしょう 的 てき ・元 もと 型 かた 的 てき な形態 けいたい の経験 けいけん 、本性 ほんしょう との合一 ごういつ を経験 けいけん する微細 びさい 意識 いしき 、形態 けいたい のない超越 ちょうえつ 経験 けいけん の元 もと 因 いん (コーザル)意識 いしき 、形態 けいたい 世界 せかい が再 ふたた び現 あらわ れるが、心 しん や霊 れい の振 ふ る舞 ま いや投影 とうえい として直 じか に経験 けいけん される究極 きゅうきょく 意識 いしき という段階 だんかい を設定 せってい している。彼 かれ は「発達 はったつ とは進化 しんか (外 そと 展 てん )であり、進化 しんか とは超越 ちょうえつ であり、超越 ちょうえつ の最終 さいしゅう 的 てき なゴールはアートマン、ないし唯 ただ 神 しん における究極 きゅうきょく 的 てき 統合 とうごう 意識 いしき に他 た ならない」と語 かた っており、宗教 しゅうきょう 的 てき 的 てき 資質 ししつ は誰 だれ の中 なか にも備 そな わっているとしている。
なお、ウィルバーの意識 いしき のスペクトル・モデルは、素粒子 そりゅうし 物理 ぶつり 学 がく におけるクォークモデル のように、コミュニケーションと研究 けんきゅう のため作 つく られた一 ひと つの科学 かがく 的 てき モデル化 か であり、実際 じっさい に意識 いしき がスペクトルを形成 けいせい していることを意味 いみ するわけではない。甲田 こうだ 烈 れつ は「この意識 いしき のスペクトル・モデルは、心理 しんり 学 がく において認 みと められるモデルの実体 じったい 化 か を明確 めいかく に拒絶 きょぜつ すると同時 どうじ に、東西 とうざい の諸 しょ 宗教 しゅうきょう において示 しめ されてきた宗教 しゅうきょう 体験 たいけん の諸 しょ 様態 ようたい を、ある一 ひと つのありうべき意識 いしき 水準 すいじゅん からの認識 にんしき として、包括 ほうかつ 的 てき に理解 りかい するための道 みち を開 ひら いていると言 い えるであろう。」と述 の べている。東洋 とうよう の宗教 しゅうきょう 伝統 でんとう が示 しめ す体験 たいけん 領域 りょういき を心 しん の水準 すいじゅん として概念 がいねん 化 か したことで、ウィルバーの理論 りろん は心 しん の水準 すいじゅん の研究 けんきゅう 者 しゃ から唯一 ゆいいつ の心 しん の水準 すいじゅん の基準 きじゅん とみなされるという困難 こんなん を抱 かか えたが、そのため、通常 つうじょう の人間 にんげん の意識 いしき 水準 すいじゅん が生成 せいせい される過程 かてい を「見 み かけ上 じょう の進化 しんか 」として述 の べようとしている。
1990年代 ねんだい 中期 ちゅうき 以降 いこう 、トランスパーソナルから決別 けつべつ し、より包括 ほうかつ 的 てき な理論 りろん としてインテグラル思想 しそう を提唱 ていしょう しているが、その原理 げんり は「すべては正 ただ しいが、部分 ぶぶん 的 てき である」というものである。我々 われわれ が経験 けいけん する事物 じぶつ ・事象 じしょう は、個人 こじん における内面 ないめん (主観 しゅかん 的 てき な心理 しんり 現象 げんしょう )と外面 がいめん (客観 きゃっかん 的 てき な行動 こうどう 現象 げんしょう )、集合 しゅうごう 的 てき 領域 りょういき における内面 ないめん (文化 ぶんか )と外面 がいめん (社会 しゃかい ・システム)という4つの領域 りょういき から見 み ることができるという四 よん 象限 しょうげん モデルを提示 ていじ している。
彼 かれ の思想 しそう は、オープンなリベラリズムという特性 とくせい を持 も つ。自分 じぶん の思想 しそう を押 お し付 つ けるのではなく、こういう考 かんが え方 かた もあるという態度 たいど で提示 ていじ し、その思想 しそう の最後 さいご の頂点 ちょうてん は、柔和 にゅうわ な空 そら の境涯 きょうがい となっている。
ウィルバーは自身 じしん の思想 しそう を、ウィルバーI、ウィルバーⅡ、ウィルバーⅢ、ウィルバーⅣという4つの時期 じき に分 わ けて説明 せつめい している。第 だい 1作 さく の『意識 いしき のスペクトラム』はウィルバーⅠに当 あ たり、『アートマン・プロジェクト』はウィルバーⅡを代表 だいひょう する著作 ちょさく で、個人 こじん の人間 にんげん の個体 こたい 発生 はっせい 的 てき な心理 しんり の発展 はってん を論 ろん じている。同時 どうじ 的 てき に『エデンから』が書 か かれ、こちらでは人類 じんるい 全体 ぜんたい の系統 けいとう 発生 はっせい 的 てき な進化 しんか の歴史 れきし が扱 あつか われた。この2冊 さつ では、人間 にんげん の心 しん の発展 はってん という同 おな じ視点 してん から、人間 にんげん の個体 こたい 発生 はっせい と系統 けいとう 発生 はっせい の軌跡 きせき が並行 へいこう して研究 けんきゅう されている。この後 のち のウィルバーⅢでは、人間 にんげん の心 しん の発展 はってん が一本 いっぽん の太 ふと い単線 たんせん ではなく、複数 ふくすう のラインからなる複線 ふくせん 的 てき 発達 はったつ であるという気 き づきがあり、この時期 じき の代表 だいひょう 作 さく は共著 きょうちょ の『意識 いしき の変容 へんよう 』である。ウィルバーⅢの思想 しそう は、妻 つま の病気 びょうき の看護 かんご とその死 し の衝撃 しょうげき のため、すぐに研究 けんきゅう が詳 くわ しく進展 しんてん することはなかった。意識 いしき の発展 はってん の段階 だんかい だけでなく、それが他 た の人類 じんるい の文化 ぶんか 的 てき 領域 りょういき とどう関 かか わるのかまで考察 こうさつ し、ウィルバーIVの主著 しゅちょ 『進化 しんか の構造 こうぞう 』が執筆 しっぴつ された。『進化 しんか の構造 こうぞう 』への対話 たいわ 形式 けいしき の入門 にゅうもん 書 しょ として『万物 ばんぶつ の歴史 れきし 』が書 か かれた。
ウィルバーの思想 しそう 活動 かつどう の基盤 きばん にある根本 こんぽん 的 てき な発想 はっそう は、次 つぎ のように説明 せつめい することができるだろう。
世界 せかい に存在 そんざい するあらゆる視点 してん は必 かなら ずある真実 しんじつ を内包 ないほう する。従 したが って、必要 ひつよう とされるのは、存在 そんざい する多数 たすう の視点 してん のうち、どれを最 もっと も正 ただ しいものとして選択 せんたく するかということではなく、それぞれの視点 してん が内包 ないほう する真実 しんじつ を認識 にんしき ・尊重 そんちょう したうえで、それらがどのように相互 そうご に関係 かんけい しているかを理解 りかい することである。
こうした発想 はっそう は、ウィルバーが、自 みずか らの自己 じこ 探求 たんきゅう の過程 かてい において、多様 たよう な技法 ぎほう を経験 けいけん するうちに直面 ちょくめん した事実 じじつ に対 たい する素朴 そぼく な疑問 ぎもん を基盤 きばん としている。それは、いずれの自己 じこ 探求 たんきゅう の視点 してん も非常 ひじょう に重要 じゅうよう な洞察 どうさつ をもたらしてくれるものでありながら、それぞれは、自 みずか らが最 もっと も正当 せいとう なものであることを主張 しゅちょう して、相互 そうご に争 あらそ いをしているという事実 じじつ に対 たい する疑問 ぎもん ――それぞれの存在 そんざい 価値 かち を認識 にんしき ・尊重 そんちょう したうえで、それらの共存 きょうぞん を許容 きょよう する方法 ほうほう はないのだろうかという疑問 ぎもん ということができるだろう。
人間 にんげん は世界 せかい そのものを体験 たいけん することはできない。人間 にんげん は、(内的 ないてき ・外的 がいてき )世界 せかい を体験 たいけん する際 さい 、世界 せかい を体験 たいけん するという行為 こうい そのものをとおして、不可避 ふかひ 的 てき に世界 せかい の「創造 そうぞう 」に参画 さんかく することになる。その意味 いみ で、存在 そんざい するあらゆる視点 してん は、それぞれの世界 せかい を構築 こうちく する創造 そうぞう の装置 そうち ということのできるものである。しかし、それぞれの創造 そうぞう 行為 こうい は、また、独特 どくとく の方法 ほうほう で世界 せかい を照明 しょうめい するとともに、同時 どうじ に、独特 どくとく の方法 ほうほう で世界 せかい を覆 おお い隠 かく してしまう。その意味 いみ で、あらゆる視点 してん は構造 こうぞう 的 てき に盲点 もうてん を内包 ないほう するのである。
こうした事実 じじつ に着目 ちゃくもく したウィルバーは、それぞれの視点 してん が相補 そうほ 的 てき に存在 そんざい することを可能 かのう とするための枠組 わくぐみ の構想 こうそう に取 と り組 く むことになる。今日 きょう 、広範 こうはん に認知 にんち されている「意識 いしき のスペクトラム」(Spectrum of Consciousness)理論 りろん とは、日々 ひび の思索 しさく と修行 しゅぎょう の実践 じっせん のなかで、こうした要求 ようきゅう に応 こた えるために創造 そうぞう されたのである。その概要 がいよう は下記 かき のように説明 せつめい することができるだろう。
人間 にんげん の意識 いしき は、複数 ふくすう の階層 かいそう により構成 こうせい されており、人間 にんげん の成長 せいちょう はこれらの階層 かいそう を段階 だんかい 的 てき に通過 つうか することをとおして実現 じつげん される。そして、この段階 だんかい 的 てき 成長 せいちょう の過程 かてい は、人間 にんげん の生得 しょうとく 的 てき な自己 じこ 中心 ちゅうしん 性 せい の克服 こくふく の過程 かてい としてとらえることのできるものである。そして、古今 ここん 東西 とうざい の自己 じこ 探求 たんきゅう の方法 ほうほう は、この成長 せいちょう 過程 かてい の各 かく 段階 だんかい において経験 けいけん される諸々 もろもろ の課題 かだい ・問題 もんだい を解決 かいけつ するための触媒 しょくばい (catalyst)として機能 きのう するのである。こうした成長 せいちょう 段階 だんかい は、大別 たいべつ して3 (4) つの段階 だんかい に分類 ぶんるい することができるという。
プリパーソナル(pre-personal):生物 せいぶつ としての基盤 きばん となる肉体 にくたい 的 てき 衝動 しょうどう の充足 じゅうそく を行動 こうどう 論理 ろんり とする段階 だんかい 。この段階 だんかい において、人間 にんげん は、生命 せいめい 体 たい として生存 せいぞん するために必要 ひつよう となる基礎 きそ 的 てき な自己 じこ 認識 にんしき を確立 かくりつ する。世界 せかい とは峻別 しゅんべつ された存在 そんざい ――それゆえに世界 せかい の脅威 きょうい に対 たい して脆弱 ぜいじゃく な存在 そんざい ――としての自己 じこ を認識 にんしき し、それを防衛 ぼうえい ・維持 いじ することを最高 さいこう の関心事 かんしんじ とする。この段階 だんかい における課題 かだい ・問題 もんだい を解決 かいけつ するための有効 ゆうこう な方法 ほうほう としては、例 たと えば、認知 にんち 行動 こうどう 療法 りょうほう があげられる。これは、人格 じんかく の基盤 きばん となる基礎 きそ 的 てき 構造 こうぞう を構築 こうちく することを主眼 しゅがん とするものである。
前期 ぜんき パーソナル(personal):共同 きょうどう 体 たい の言語 げんご ・規範 きはん を習得 しゅうとく して、共同 きょうどう 体 たい の構成 こうせい 員 いん としての自己 じこ を確立 かくりつ することを行動 こうどう 論理 ろんり とする段階 だんかい 。共同 きょうどう 体 たい において共有 きょうゆう されている普遍 ふへん 的 てき な規範 きはん を内面 ないめん 化 か することをとおして、自己 じこ の肉体 にくたい 的 てき 衝動 しょうどう の呪縛 じゅばく を克服 こくふく することがこの成長 せいちょう 段階 だんかい における重要 じゅうよう な課題 かだい となる。この段階 だんかい における成長 せいちょう 課題 かだい は、内面 ないめん 化 か された共同 きょうどう 体 たい の規範 きはん を徐々 じょじょ に対象 たいしょう 化 か する能力 のうりょく を涵養 かんよう することである。これにより、自己 じこ を規範 きはん と完全 かんぜん に同一 どういつ 化 か するのではなく、それらとの関係 かんけい 性 せい (自由 じゆう )を確保 かくほ することができるようになるのである。こうした成長 せいちょう 課題 かだい を解決 かいけつ するための有効 ゆうこう な方法 ほうほう としては、例 たと えば、共同 きょうどう 体 たい の規範 きはん を内面 ないめん 化 か する過程 かてい において発生 はっせい した抑圧 よくあつ ・分裂 ぶんれつ 等 とう の内的 ないてき な歪 ひずみ (ひずみ)を解決 かいけつ することを目的 もくてき とする精神 せいしん 分析 ぶんせき 療法 りょうほう があげられる。
後期 こうき パーソナル(personal):内面 ないめん 化 か された諸々 もろもろ の共同 きょうどう 体 たい の規範 きはん ・信念 しんねん 等 とう を対象 たいしょう 化 か して、自己 じこ の独自 どくじ の価値 かち 体系 たいけい にもとづいて、それらをあらためて構成 こうせい しなおす段階 だんかい 。自己 じこ の所属 しょぞく する共同 きょうどう 体 たい の期待 きたい に盲目的 もうもくてき に応 こた えるのではなく、それらをさらに包括 ほうかつ 的 てき な視野 しや (世界 せかい 中心 ちゅうしん 的 てき 視野 しや )から検討 けんとう したうえで、自己 じこ の責任 せきにん (response-ability)にもとづいて自律 じりつ 的 てき な行動 こうどう をすることができる。この段階 だんかい におけるこうした成長 せいちょう 課題 かだい を解決 かいけつ するための方法 ほうほう としては、例 たと えば、実存 じつぞん 主義 しゅぎ 療法 りょうほう があげられる。これは、個人 こじん としての自己 じこ の存在 そんざい を定義 ていぎ する諸々 もろもろ の構造 こうぞう 的 てき 限定 げんてい 条件 じょうけん (例 れい :死 し )を認識 にんしき ・抱擁 ほうよう したうえで、それらの条件 じょうけん の範囲 はんい 内 ない で自己 じこ の人生 じんせい を充実 じゅうじつ させるための「思想 しそう 」を構築 こうちく ・実践 じっせん する能力 のうりょく の涵養 かんよう を援助 えんじょ する。
トランスパーソナル(transpersonal・postpersonal):自己 じこ 感覚 かんかく (self-sense)を個人 こじん の領域 りょういき から霊 れい 性 せい の領域 りょういき へと拡張 かくちょう をする段階 だんかい 。自己 じこ の存在 そんざい 基盤 きばん を時空 じくう 間 あいだ に存在 そんざい する個人 こじん としての存在 そんざい から時空 じくう 間 あいだ を内包 ないほう (観想 かんそう )する「目撃 もくげき 者 しゃ 」(Soul・Spirit)へと移行 いこう する段階 だんかい 。この段階 だんかい における成長 せいちょう 課題 かだい を解決 かいけつ するための方法 ほうほう としては、例 たと えば、瞑想 めいそう に代表 だいひょう される、東洋 とうよう 宗教 しゅうきょう により開発 かいはつ された意識 いしき 変容 へんよう の方法 ほうほう があげられる。こうした方法 ほうほう は、時空 じくう 間 あいだ に存在 そんざい する個人 こじん としての自己 じこ の成熟 せいじゅく ではなく、自己 じこ (identity)の基盤 きばん をそうした個人 こじん としての自己 じこ をあらしめる背景 はいけい (Soul・Spirit)へと移行 いこう することを目的 もくてき とする。
(人間 にんげん の意識 いしき 段階 だんかい を上記 じょうき のように3 (4) つに分類 ぶんるい するのは、あくまでも便宜 べんぎ 的 てき なものであり、必 かなら ずしも、この数字 すうじ にこだわる必要 ひつよう はない。こうした階層 かいそう 構造 こうぞう というのは、虹 にじ のようなものであり、その層 そう 数 すう は、識別 しきべつ する視点 してん により、多様 たよう なものとなる。実際 じっさい 、ウィルバーは、著作 ちょさく のなかで、必要 ひつよう に応 おう じて、各 かく 階層 かいそう をさらに詳細 しょうさい に峻別 しゅんべつ して説明 せつめい をしている。各 かく 段階 だんかい において個人 こじん が直面 ちょくめん する課題 かだい ・問題 もんだい とそれらに適応 てきおう した対応 たいおう 方法 ほうほう についての詳細 しょうさい な説明 せつめい は、Transformations of Consciousnessの所収 しょしゅう 論文 ろんぶん を参照 さんしょう していただきたい。)
ここで留意 りゅうい するべきことは、多数 たすう の発達 はったつ 心理 しんり 学者 がくしゃ が指摘 してき するように、こうした成長 せいちょう 段階 だんかい というものが、非常 ひじょう に流動的 りゅうどうてき なものであるということである。個人 こじん の成長 せいちょう 段階 だんかい とは、あくまでも重心 じゅうしん (“Center of Gravity”)にすぎず、それは、個人 こじん の生存 せいぞん 状 じょう 況 きょう との関係 かんけい 性 せい のなかで常 つね に変動 へんどう しつづけているものである。また、個人 こじん の内的 ないてき 領域 りょういき について把握 はあく するうえで、段階 だんかい (“stages”)のみならず、状態 じょうたい (“states”)・領域 りょういき (“streams”)・スタイル(“styles”)等 とう の要素 ようそ にも着目 ちゃくもく することが重要 じゅうよう になる。その意味 いみ では、こうした段階 だんかい 的 てき な発達 はったつ 理論 りろん がインテグラル思想 しそう の人間 にんげん 観 かん の「核 かく 」を構成 こうせい するものであると見 み なすことは、深刻 しんこく な誤謬 ごびゅう を犯 おか すことになるといえるだろう。
重要 じゅうよう なことは、ウィルバーの思想 しそう 活動 かつどう を貫 つらぬ く「統合 とうごう の衝動 しょうどう 」が、その基本 きほん において、人間 にんげん の認識 にんしき 能力 のうりょく というものが構造 こうぞう 的 てき に盲点 もうてん を内包 ないほう することの認識 にんしき にもとづき、それを可能 かのう な限 かぎ り克服 こくふく することを志向 しこう して展開 てんかい するものであるということを認識 にんしき することであろう。そうした問題 もんだい 意識 いしき は、ウィルバーの思想 しそう 活動 かつどう の最初 さいしょ の理論 りろん 体系 たいけい である「意識 いしき のスペクトラム」にも刻印 こくいん されているのである。
「前 ぜん ・後 ご の混同 こんどう 」(“Pre/Post Fallacy”)とは、実際 じっさい には非常 ひじょう に異 こと なる2つの成長 せいちょう 段階 だんかい をある共通 きょうつう 項 こう の存在 そんざい を理由 りゆう に短絡 たんらく 的 てき に混同 こんどう することを意味 いみ する。
『アートマン・プロジェクト』(The Atman Project)と『エデンより』(Up from Eden)(これらは、ひとつの作品 さくひん として構想 こうそう された)の執筆 しっぴつ 中 ちゅう 、ウィルバーは、深刻 しんこく な思想 しそう 的 てき 危機 きき を経験 けいけん する。これは、『意識 いしき のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)において展開 てんかい されたモデルが内包 ないほう していた問題 もんだい が、これらの作品 さくひん の執筆 しっぴつ 過程 かてい のなかで朧気 おぼろげ に認識 にんしき されはじめたことに起因 きいん するものであるという。
『意識 いしき のスペクトル』において、ウィルバーは、人間 にんげん の意識 いしき 成長 せいちょう の過程 かてい を次 つぎ のように描写 びょうしゃ した。
誕生 たんじょう の瞬間 しゅんかん において、人間 にんげん は、「堕落 だらく 」(the Fall)を経験 けいけん するまえの「至福 しふく 」の状態 じょうたい にある。しかし、成長 せいちょう の過程 かてい のなかで、人間 にんげん は、徐々 じょじょ に、こうした「至福 しふく 」の状態 じょうたい から苦悩 くのう に満 み たされた状態 じょうたい へと「堕落 だらく 」していく。それは、誕生 たんじょう の瞬間 しゅんかん に存在 そんざい していた霊 れい とのつながりを喪失 そうしつ することなのである。意識 いしき の成長 せいちょう とは、こうして「堕落 だらく 」をとおして「喪失 そうしつ 」された霊 れい (Spirit)とのつながりを恢復 かいふく する過程 かてい なのである。
しかし、『アートマン・プロジェクト』と『エデンより』の執筆 しっぴつ 中 ちゅう 、ウィルバーは、こうした認識 にんしき が「堕落 だらく 」というものについての、誤解 ごかい を内包 ないほう していたことを認識 にんしき する。この誤解 ごかい について、ウィルバー(1983/2005)は、後日 ごじつ 、次 つぎ のように総括 そうかつ している。
『意識 いしき のスペクトル』が内包 ないほう していた問題 もんだい とは、2種類 しゅるい の「堕落 だらく 」(the Fall)――「存在 そんざい 論 ろん 的 てき 堕落 だらく 」(“metaphysical fall”)と「心理 しんり 的 てき 堕落 だらく 」(“psychological fall”)――の混同 こんどう と形容 けいよう できるものである。「存在 そんざい 論 ろん 的 てき 堕落 だらく 」とは、霊 れい との意識 いしき 的 てき な同 どう 一 いち 感覚 かんかく の喪失 そうしつ 、そして、それにもとづく「罪 つみ 」(疎外 そがい ・別離 べつり ・二元 にげん 性 せい ・有限 ゆうげん 性 せい )の世界 せかい への埋没 まいぼつ である。そして、「心理 しんり 的 てき 堕落 だらく 」とは、自 みずか らがそうした堕落 だらく した状況 じょうきょう にあることの内省 ないせい 的 てき な認識 にんしき である。
霊 れい とは、この現象 げんしょう 世界 せかい の基盤 きばん であり、あらゆる存在 そんざい は一瞬 いっしゅん たりともそれと疎外 そがい された状態 じょうたい で存在 そんざい することはできない。つまり、この現象 げんしょう 世界 せかい のあらゆる存在 そんざい は、常 つね に完全 かんぜん なかたちで霊 れい と結 むす びついており、また、霊 れい の顕現 けんげん として存在 そんざい しているのである。したがって、人間 にんげん の直面 ちょくめん する問題 もんだい は、霊 れい との結 むす びつきをいかにして確立 かくりつ するかということではなく、むしろ、霊 れい との結 むす びつきが確立 かくりつ されていることをいかにして認識 にんしき するかということなのである。
人間 にんげん は、成長 せいちょう 過程 かてい において、内省 ないせい 能力 のうりょく が成熟 せいじゅく してくると、自 みずか らが「罪 つみ 」の世界 せかい に生 い きていることを認識 にんしき するようになる。内省 ないせい 能力 のうりょく の成熟 せいじゅく がもたらすこうした認識 にんしき は、不可避 ふかひ 的 てき に、精神 せいしん 的 てき な苦悩 くのう を醸成 じょうせい することになる。そして、そうした苦悩 くのう は――もしそれを抑圧 よくあつ することなく対峙 たいじ することができるならば――われわれを自 みずか らを救済 きゅうさい するための積極 せっきょく 的 てき な取 と り組 く みへと突 とっ き動 うご かすことになる。ウィルバーは、こうした成熟 せいじゅく した内省 ないせい 能力 のうりょく の確立 かくりつ を契機 けいき としてもたらされる精神 せいしん 的 てき な転換 てんかん を「外的 がいてき 方向 ほうこう 性 せい 」(“Outward Arc”)から「内的 ないてき 方向 ほうこう 性 せい 」(“Inward Arc”)への転換 てんかん と形容 けいよう するが、それは、人間 にんげん の人格 じんかく 成長 せいちょう がより高度 こうど の成熟 せいじゅく 段階 だんかい であるトランスパーソナル段階 だんかい へと向 む かうことができるために必要 ひつよう とされるものなのである。つまり、「存在 そんざい 論 ろん 的 てき 堕落 だらく 」の解決 かいけつ の可能 かのう 性 せい は、世界 せかい に存在 そんざい することが構造 こうぞう 的 てき に内包 ないほう する問題 もんだい (「罪 つみ 」)と対峙 たいじ することが醸成 じょうせい するこうした苦悩 くのう の経験 けいけん ――「心理 しんり 的 てき 堕落 だらく 」――をとおしてもたらされるのである。
人間 にんげん は、世界 せかい に誕生 たんじょう することそのものをとおして、「存在 そんざい 論 ろん 的 てき 堕落 だらく 」を経験 けいけん している。その意味 いみ で、すべての人間 にんげん は生 う まれながらにして「地獄 じごく 」(“Hell”)に存在 そんざい しているのである。しかし、自 みずか らが「地獄 じごく 」に存在 そんざい していることを認識 にんしき することができるためには、そうした認識 にんしき を可能 かのう とする内省 ないせい 能力 のうりょく を構築 こうちく する必要 ひつよう がある。そうした能力 のうりょく が構築 こうちく されるまでは、人間 にんげん は、「存在 そんざい 論 ろん 的 てき 堕落 だらく 」という自 みずか らの状況 じょうきょう そのものを把握 はあく することができず、結果 けっか として、「無意識 むいしき 的 てき 地獄 じごく 」(“Unconscious Hell”)を生 い きることになる。
そうした自己 じこ 内省 ないせい 力 りょく を欠如 けつじょ した状態 じょうたい にある人間 にんげん の姿 すがた は、傍目 はため には平穏 へいおん に見 み えるかもしれない。しかし、実際 じっさい には、その自覚 じかく が欠如 けつじょ しているだけで、当人 とうにん の存在 そんざい は「罪 つみ 」に特徴 とくちょう づけられている。内省 ないせい 力 りょく の欠如 けつじょ は、内的 ないてき な平穏 へいおん という外観 がいかん をあたえはするが、実際 じっさい には、彼 かれ らの存在 そんざい は、自 みずか らの存在 そんざい 論 ろん 的 てき 状況 じょうきょう に自覚 じかく 的 てき である人間 にんげん と同様 どうよう 、「罪 つみ 」に起因 きいん する諸々 もろもろ の執着 しゅうちゃく により特徴 とくちょう づけられているのである。むしろ、自 みずか らが救済 きゅうさい を必要 ひつよう としていることを認識 にんしき することができていないという意味 いみ では、「天国 てんごく 」(“Heaven”)と最 もっと も乖離 かいり したところにいる状態 じょうたい ということができるだろう。真 しん の救済 きゅうさい のために必要 ひつよう とされるのは、そうした虚偽 きょぎ の平穏 へいおん 状態 じょうたい に留 と まることではなく、自 みずか らが救済 きゅうさい を必要 ひつよう とすることを自覚 じかく することなのである。そして、これは、いわば、「無意識 むいしき 的 てき 地獄 じごく 」を脱却 だっきゃく して「意識 いしき 的 てき 地獄 じごく 」(“Conscious Hell”)へ前進 ぜんしん していく行為 こうい ということのできるものである。こうした成長 せいちょう をとおして、人間 にんげん は、はじめて「意識 いしき 的 てき 天国 てんごく 」(“Conscious Heaven”)に到達 とうたつ するための可能 かのう 性 せい を生 う みだすことができるのである。
意識 いしき 成長 せいちょう の過程 かてい をとおして内省 ないせい 能力 のうりょく が確立 かくりつ されてくれば、結果 けっか として、人々 ひとびと は、「意識 いしき 的 てき 地獄 じごく 」のなかで、苦悩 くのう と苦闘 くとう しながら日常 にちじょう を暮 く らすことになる。そうした状況 じょうきょう に置 お かれた人間 にんげん の視点 してん には、しばしば、自己 じこ を執拗 しつよう に苦悶 くもん させる苦悩 くのう から「解放 かいほう 」されることが、救済 きゅうさい の証左 しょうさ として意識 いしき されるようになる。実際 じっさい には、そうした苦悩 くのう は、「無意識 むいしき 的 てき 地獄 じごく 」から「意識 いしき 的 てき 地獄 じごく 」への移行 いこう という非常 ひじょう に重要 じゅうよう な意識 いしき 深化 しんか の過程 かてい を経 へ て獲得 かくとく したものであるにもかかわらず、そのあまりの重圧 じゅうあつ のために、苦悩 くのう の存在 そんざい しないことそのものが救済 きゅうさい であると思 おも いこんでしまうのである。こうした精神 せいしん 状態 じょうたい において、「無意識 むいしき 的 てき 地獄 じごく 」と「意識 いしき 的 てき 天国 てんごく 」とが――「意識 いしき 的 てき 地獄 じごく 」を特徴 とくちょう づける苦悩 くのう に煩 わずら わされていないと意味 いみ において――どちらもあたかも同 おな じものであるように思 おも われてくるのは自然 しぜん なことであるといえるだろう。「前 ぜん ・後 ご の混同 こんどう 」(“Pre/Post Fallacy”)とは、このように実際 じっさい には非常 ひじょう に異 こと なる成長 せいちょう 段階 だんかい をある共通 きょうつう 項 こう の存在 そんざい を理由 りゆう に短絡 たんらく 的 てき に混同 こんどう することを意味 いみ する。そして、ウィルバーが説明 せつめい するように、『意識 いしき のスペクトル』は、まさに、こうした混同 こんどう を犯 おか していたのである。
普通 ふつう 、こうした混同 こんどう は、結果 けっか として、2つの混乱 こんらん を生 う みだすことになる。ひとつは、高度 こうど の成長 せいちょう 段階 だんかい (例 れい :トランスパーソナル段階 だんかい )を低 てい 度 ど の成長 せいちょう 段階 だんかい (例 れい :プリパーソナル段階 だんかい )として誤解 ごかい すること(“Reductionism”)。そして、もうひとつは、低 てい 度 ど の成長 せいちょう 段階 だんかい (例 れい :プリパーソナル段階 だんかい )を高度 こうど の成長 せいちょう 段階 だんかい (例 れい :トランスパーソナル段階 だんかい )として誤解 ごかい すること(“Elevationism”)である。前者 ぜんしゃ の典型 てんけい 的 てき な例 れい としては、高度 こうど の宗教 しゅうきょう 的 てき 体験 たいけん を病的 びょうてき な退行 たいこう 体験 たいけん として解釈 かいしゃく するものがあげられる。そして、後者 こうしゃ の典型 てんけい 的 てき な例 れい としては、幼児 ようじ 的 てき な体験 たいけん を高度 こうど の宗教 しゅうきょう 的 てき 体験 たいけん として解釈 かいしゃく するものがあげられる。
いうまでもなく、こうした理論 りろん 的 てき な混同 こんどう は、実践 じっせん 的 てき な混乱 こんらん をもたらすことになる。例 たと えば、前者 ぜんしゃ の場合 ばあい 、突発 とっぱつ 的 てき ・瞬間 しゅんかん 的 てき に経験 けいけん された宗教 しゅうきょう 体験 たいけん を構造 こうぞう 的 てき な意識 いしき 変容 へんよう の過程 かてい を促進 そくしん することをとおして統合 とうごう することが重要 じゅうよう になるときに、それを病的 びょうてき な退行 たいこう 体験 たいけん として誤解 ごかい することにより、薬物 やくぶつ 投与 とうよ 等 とう の不適切 ふてきせつ な介入 かいにゅう がなされることになる。また、後者 こうしゃ の場合 ばあい 、人格 じんかく 構造 こうぞう が脆弱 ぜいじゃく であるために発生 はっせい した病的 びょうてき 体験 たいけん を高度 こうど の宗教 しゅうきょう 体験 たいけん として誤解 ごかい することにより、そうした状況 じょうきょう において必要 ひつよう となる人格 じんかく 構造 こうぞう の補強 ほきょう を志向 しこう する介入 かいにゅう 方法 ほうほう ではなく、瞑想 めいそう 等 とう の人格 じんかく 構造 こうぞう を対象 たいしょう 化 か する介入 かいにゅう 方法 ほうほう が実践 じっせん されることになる。これらの実践 じっせん 的 てき な混乱 こんらん は、臨床 りんしょう 現場 げんば においては、時 とき としてクライアントのなかに深刻 しんこく な「傷 きず 」を生 う みだすことになる危険 きけん 性 せい を孕 はら むものである。
ウィルバーの報告 ほうこく によれば、これまでの執筆 しっぴつ 活動 かつどう において、こうした枠組 わくぐみ は、普通 ふつう 、瞬間 しゅんかん 的 てき な霊感 れいかん のなかにもたらされるという。例 たと えば、この「意識 いしき のスペクトラム」理論 りろん の場合 ばあい 、集中 しゅうちゅう 的 てき な瞑想 めいそう 体験 たいけん の最中 さいちゅう に経験 けいけん した、この惑星 わくせい における生命 せいめい の歴史 れきし をその主体 しゅたい として追 つい 体験 たいけん するような体験 たいけん のなかにもたらされた洞察 どうさつ を理論 りろん 化 か したものであるという(こうした体験 たいけん は集中 しゅうちゅう 的 てき な瞑想 めいそう 体験 たいけん においては必 かなら ずしも珍 めずら しいものではない)。
人間 にんげん の人格 じんかく 的 てき 発達 はったつ について検討 けんとう しようとするときに、複数 ふくすう の発達 はったつ 領域 りょういき を認識 にんしき することが重要 じゅうよう となることをケン・ウィルバーは強調 きょうちょう する。今日 きょう 、注目 ちゅうもく を集 あつ めているHoward GardnerのMultiple Intelligence Theoryにも象徴 しょうちょう されるように、人間 にんげん の発達 はったつ 領域 りょういき をひとつのものとしてとらえ、その発達 はったつ 度 ど を測定 そくてい することが個人 こじん の成長 せいちょう 段階 だんかい の把握 はあく を可能 かのう とするという発想 はっそう には、修正 しゅうせい がくわえられはじめている(例 たと えば、"IQ"に対 たい する相補 そうほ 的 てき な概念 がいねん として"EQ"というものが提唱 ていしょう されはじめていることは、こうした動向 どうこう の端 はし 的 てき なあらわれといえるだろう)。これまでに使用 しよう されてきた視点 してん (測定 そくてい 方法 ほうほう )の価値 かち を認識 にんしき したうえで、しかし、それでは十全 じゅうぜん にとらえられない人間 にんげん 存在 そんざい の他 た 領域 りょういき を認識 にんしき ・尊重 そんちょう することをとおして、はじめて人間 にんげん 性 せい の包括 ほうかつ 的 てき な理解 りかい に近 ちか づくことができるという姿勢 しせい は、ウィルバーのインテグラル理論 りろん の非常 ひじょう に重要 じゅうよう な構成 こうせい 要素 ようそ である。
具体 ぐたい 的 てき な発達 はったつ 領域 りょういき (Lines of Development)の代表 だいひょう 的 てき なものとして、例 たと えば、この領域 りょういき における代表 だいひょう 的 てき 研究 けんきゅう 者 しゃ であるHoward Gardner (1983/1993) は、下記 かき のものを挙 あ げている。
言語 げんご (Linguistic Intelligence)
音楽 おんがく (Musical Intelligence)
論理 ろんり ・数学 すうがく (logical-mathematical)
空間 くうかん 感覚 かんかく (Spatial Intelligence)
身体 しんたい ・運動 うんどう (Bodily-Kinesthetic Intelligence)
自己 じこ (Personal Intelligence―intrapersonalとinterpersonal)
また、その後 ご の調査 ちょうさ にもとづき、Gardner (1999) は下記 かき の2つをくわえている。
自然 しぜん (Naturalist Intelligence)
実存 じつぞん (Existential Intelligence)
留意 りゅうい するべきことは、これらの発達 はったつ 領域 りょういき が、ある程度 ていど の自律 じりつ 性 せい を保 たも ちながら、個人 こじん のなかに並存 へいそん しているということである。それぞれの発達 はったつ 領域 りょういき は、独自 どくじ の「介入 かいにゅう 」――「支援 しえん 」(support)と「挑戦 ちょうせん 」(challenge)――を必要 ひつよう としながら、独自 どくじ のダイナミズムにもとづいて段階 だんかい 的 てき に成長 せいちょう をするのである。 また、人間 にんげん がこうした自律 じりつ 的 てき に展開 てんかい する複数 ふくすう の領域 りょういき を内包 ないほう する存在 そんざい であるということは、必然 ひつぜん 的 てき に、個人 こじん の存在 そんざい をあるひとつの発達 はったつ 段階 だんかい に成立 せいりつ するものとして定義 ていぎ することが不可能 ふかのう であることを示唆 しさ する。
ただ、複数 ふくすう の発達 はったつ 領域 りょういき の存在 そんざい を認識 にんしき するとは、必 かなら ずしも、それらの発達 はったつ 領域 りょういき を列記 れっき することではない。同時 どうじ に重要 じゅうよう となるのは、並存 へいそん する発達 はったつ 領域 りょういき がどのような相互 そうご 関係 かんけい にあるのかということについて検討 けんとう することである。例 たと えば、その問題 もんだい について検討 けんとう をするうえで、下記 かき のような質問 しつもん が想起 そうき されるだろう。
ある発達 はったつ 領域 りょういき における課題 かだい ・問題 もんだい に取 と り組 く むうえで、どの並存 へいそん する発達 はったつ 領域 りょういき に働 はたら きかけることにより、成長 せいちょう (治療 ちりょう )を効果 こうか 的 てき に促進 そくしん できるのか?
ある発達 はったつ 領域 りょういき における課題 かだい ・問題 もんだい を克服 こくふく することができるまえに、まず、どの並存 へいそん する発達 はったつ 領域 りょういき において成長 せいちょう (治癒 ちゆ )が実現 じつげん する必要 ひつよう があるのか?
人間 にんげん の複雑 ふくざつ 性 せい を認識 にんしき ・尊重 そんちょう したところに発 はっ せられるこうした問題 もんだい 意識 いしき の背景 はいけい には、関係 かんけい 性 せい というものへの感覚 かんかく (認識 にんしき )が存在 そんざい する。こうした感覚 かんかく は、今日 きょう のように、ある課題 かだい ・問題 もんだい に取 と り組 く むうえで、複数 ふくすう の方法 ほうほう を統合 とうごう 的 てき に活用 かつよう することの有効 ゆうこう 性 せい が広範 こうはん に認識 にんしき されはじめている現代 げんだい という時代 じだい において、とりわけ重要 じゅうよう になることはいうまでもない。
ここで、ウィルバーは、これらの並存 へいそん する発達 はったつ 領域 りょういき をひとつの人格 じんかく の構成 こうせい 要素 ようそ としてまとめる意識 いしき の統合 とうごう 機能 きのう (integrative capacity of the psyche)に注目 ちゅうもく する。これは、人格 じんかく の内部 ないぶ に存在 そんざい する諸々 もろもろ の能力 のうりょく を自己 じこ (identity)の重要 じゅうよう な構成 こうせい 要素 ようそ として抱擁 ほうよう する機能 きのう と形容 けいよう できるものである。結果 けっか として、ある能力 のうりょく は自己 じこ の構成 こうせい 要素 ようそ として重視 じゅうし されることになり、また、ある機能 きのう は自己 じこ の構成 こうせい 要素 ようそ として放擲 ほうてき されることになる。こうした「取捨選択 しゅしゃせんたく 」の「判断 はんだん 」にもとづいて、自己 じこ の内部 ないぶ に存在 そんざい する諸 しょ 能力 のうりょく を整合 せいごう 性 せい をもつ組織 そしき (self-system)として束 たば ねる機能 きのう をウィルバーは意識 いしき の統合 とうごう 機能 きのう と形容 けいよう するのである。その意味 いみ では、こうした領域 りょういき は、人間 にんげん の主体 しゅたい (subjectivity)のよりどころとして、とりわけ重要 じゅうよう となる発達 はったつ 領域 りょういき であるといえるだろう。つまり、これこそが、「意識 いしき の進化 しんか の中枢 ちゅうすう にあるものなのである」(Wilber, 2000, p. 35)。
この機能 きのう は、(自他 じた 識別 しきべつ 機能 きのう ・意味 いみ 構築 こうちく 機能 きのう 等 とう )人間 にんげん の根源 こんげん 的 てき な精神 せいしん 機能 きのう を可能 かのう とする認知 にんち 能力 のうりょく (cognitive capacity)として、発達 はったつ 心理 しんり 学 がく により綿密 めんみつ に研究 けんきゅう されてきたものである。インテグラル思想 しそう においては、人間 にんげん の意識 いしき 体験 たいけん の基盤 きばん に存在 そんざい する「自己 じこ 感覚 かんかく 」("the proximate self-sense")と形容 けいよう されている。
ウィルバーは、認知 にんち 能力 のうりょく の発達 はったつ 度 ど は、他 た の発達 はったつ 領域 りょういき における成長 せいちょう の可能 かのう 性 せい を設定 せってい するものとして、とりわけ重要 じゅうよう となると指摘 してき する。例 たと えば倫理 りんり (morality)(Carol Gilligan)や信仰 しんこう (faith)(James Fowler)等 とう の領域 りょういき における発達 はったつ は、認知 にんち 能力 のうりょく の発達 はったつ 段階 だんかい を超 こ えるかたちでは、展開 てんかい しえないという。つまり、認知 にんち 能力 のうりょく の発達 はったつ 度 ど とは、これら他 た 領域 りょういき における発達 はったつ の上限 じょうげん を設定 せってい するのである。その意味 いみ では、倫理 りんり や信仰 しんこう の領域 りょういき における成長 せいちょう を実現 じつげん するためには、こうした認知 にんち 能力 のうりょく の成熟 せいじゅく が非常 ひじょう に重要 じゅうよう となるといえるだろう。
因 ちな みに、トランスパーソナル研究 けんきゅう において強調 きょうちょう される「個 こ を超 こ えることができる前 まえ に、まず、個 こ を構築 こうちく しなければならない」("You have to be somebody before you can be nobody")(Jack Engler in Wilber, 1997, p. 353)という洞察 どうさつ は、あくまでも、人間 にんげん の主体 しゅたい (subjectivity)のよりどころとして機能 きのう する認知 にんち 能力 のうりょく (cognitive capacity)というひとつの発達 はったつ 領域 りょういき についてのみあてはまるものである。上記 じょうき の洞察 どうさつ が人間 にんげん 存在 そんざい のどの領域 りょういき にあてはまるものであるのかを明確 めいかく 化 か することなしに、その妥当 だとう 性 せい について検討 けんとう をするのは無意味 むいみ である。
尚 なお 、上記 じょうき と関連 かんれん する主題 しゅだい である、並存 へいそん する意識 いしき の3領域 りょういき ――"Frontal Line"・"Soul Line"・"Causal Line"――については、「統合 とうごう 心理 しんり 学 がく への道 みち 」(The Eye of Spirit)を参照 さんしょう していただきたい。また、人間 にんげん の意識 いしき 成長 せいちょう について検討 けんとう するうえで、「発達 はったつ 段階 だんかい 」("stages")・「発達 はったつ 領域 りょういき 」("lines")とともに重要 じゅうよう となる意識 いしき 状態 じょうたい ("states")・性格 せいかく タイプ("types")については、『統合 とうごう 心理 しんり 学 がく 』(Integral Psychology)を参照 さんしょう していただきたい。
個人 こじん の人格 じんかく 的 てき 成長 せいちょう は、常 つね に、関係 かんけい 性 せい のなかで展開 てんかい するものである。Robert Kegan (1994) の指摘 してき するように、成長 せいちょう は、周囲 しゅうい の適切 てきせつ な介入 かいにゅう ――支援 しえん (support)と挑戦 ちょうせん (challenge)――を必要 ひつよう とする。それらは、成長 せいちょう への潜在 せんざい 能力 のうりょく を解 かい 発 はっ する必要 ひつよう 因子 いんし として機能 きのう するのである。そして、そのどちらが欠落 けつらく しても、成長 せいちょう はありえないのである。必然 ひつぜん 的 てき に、人間 にんげん の意識 いしき の深化 しんか の可能 かのう 性 せい について探求 たんきゅう するうえで、「個 こ 」(the individual)と「集合 しゅうごう 」(the collective)の有機 ゆうき 的 てき な関連 かんれん 性 せい を把握 はあく することは、非常 ひじょう に重要 じゅうよう となる。
インテグラル思想 しそう を構築 こうちく するうえで、ウィルバーは、こうした課題 かだい について綿密 めんみつ な議論 ぎろん を展開 てんかい している(Wilber, 1981/1996, 1983/2005, 1995/2000)。「個 こ 」と「集合 しゅうごう 」が重要 じゅうよう な性質 せいしつ 上 じょう のちがいをもつことを認識 にんしき したうえで、ウィルバーは、それらを、人類 じんるい の進化 しんか に参与 さんよ する2つの重要 じゅうよう 要素 ようそ として位置 いち づける。 人類 じんるい の進化 しんか とは、「個 こ 」の進化 しんか と「集合 しゅうごう 」の進化 しんか を相補 そうほ 的 てき なものとして内包 ないほう しながら展開 てんかい する過程 かてい である。そのため、人間 にんげん は、個人 こじん としての救済 きゅうさい を追求 ついきゅう しようとするとき、不可避 ふかひ 的 てき に、共同 きょうどう 体 たい の進化 しんか に取 と り組 く むことを要求 ようきゅう されるのである。
インテグラル思想 しそう においては、「個 こ 」の進化 しんか と「集合 しゅうごう 」の進化 しんか は、霊 れい (Spirit)という基盤 きばん のうえに、そして、霊 れい の顕現 けんげん として展開 てんかい するプロセスの2つの側面 そくめん である。霊 れい との「つながり」(identity)を自 みずか らの本質 ほんしつ 的 てき な条件 じょうけん として認識 にんしき することを窮極 きゅうきょく 的 てき な救済 きゅうさい としてとらえるインテグラル思想 しそう において、自 みずか らの本質 ほんしつ 的 てき な課題 かだい として、これらの側面 そくめん における成長 せいちょう (治癒 ちゆ )に取 と り組 く むことは、必須 ひっす の課題 かだい なのである。
しかし、現代 げんだい において、進化 しんか という概念 がいねん を――自然 しぜん 世界 せかい ではなく――人類 じんるい に適応 てきおう することの妥当 だとう 性 せい には疑問 ぎもん が投 な げかけられている。ウィルバーは、そうした状況 じょうきょう が存在 そんざい する背景 はいけい には、大別 たいべつ して3つの勢力 せいりょく が存在 そんざい することを指摘 してき している。
過去 かこ の宗教 しゅうきょう 的 てき 世界 せかい 観 かん を踏襲 とうしゅう する伝統 でんとう 主義 しゅぎ 者 しゃ にとり、「人類 じんるい 進化 しんか 」を伝統 でんとう 的 てき な世界 せかい 観 かん の否定 ひてい をとおして達成 たっせい されるものとしてとらえる現代 げんだい の歴史 れきし 観 かん は、受容 じゅよう することのできるものではない。伝統 でんとう 主義 しゅぎ 者 しゃ にとり、今日 きょう において、「進化 しんか 」と見 み なされているものは、むしろ、正当 せいとう な世界 せかい 観 かん を継承 けいしょう することに失敗 しっぱい する過程 かてい 、すなわち、「堕落 だらく 」の過程 かてい として見 み なされるべきものなのである。
人類 じんるい の歴史 れきし を太古 たいこ に存在 そんざい していた「楽園 らくえん 」("Eden")を「追放 ついほう 」されることを契機 けいき として始 はじ まる「堕落 だらく 」の過程 かてい として見 み なす回顧 かいこ 的 てき 浪漫 ろうまん 主義 しゅぎ 者 しゃ ("Retro-Romantics")にとり、進化 しんか のダイナミクスが人類 じんるい に働 はたら いているという見解 けんかい は受容 じゅよう できるものではない。彼 かれ らにとり、人類 じんるい の歴史 れきし とは、「楽園 らくえん 」を「追放 ついほう 」された堕落 だらく した存在 そんざい による「罪 つみ 」の歴史 れきし なのである。そして、大量 たいりょう 消費 しょうひ 主義 しゅぎ という思想 しそう を基盤 きばん として惑星 わくせい 規模 きぼ で自然 しぜん 資源 しげん を搾取 さくしゅ する体制 たいせい を確立 かくりつ した現代 げんだい という時代 じだい は、人類 じんるい の「罪 つみ 」が最大限 さいだいげん に肥大 ひだい 化 か した時代 じだい なのである。こうした状況 じょうきょう において、彼 かれ らが希求 ききゅう するのは、太古 たいこ に存在 そんざい していた「楽園 らくえん 」へと回帰 かいき することである。
今日 きょう 、惑星 わくせい 規模 きぼ で展開 てんかい する現代 げんだい 文明 ぶんめい を構築 こうちく することをとおして、人類 じんるい が、進化 しんか の最終 さいしゅう 的 てき な目的 もくてき 地 ち に到達 とうたつ したと信 しん じる合理 ごうり 主義 しゅぎ 者 しゃ にとり、今後 こんご 、質的 しつてき にさらに高度 こうど な認識 にんしき 構造 こうぞう 、そして、それを基盤 きばん とする世界 せかい 観 かん が発生 はっせい するとは信 しん じがたい。実際 じっさい 、「意識 いしき の進化 しんか 」という標語 ひょうご のもと、新 あたら しい世界 せかい 観 かん ("New Paradigm")として提唱 ていしょう されるものは、おうおうにして、これまでの歴史 れきし のなかで獲得 かくとく された成果 せいか を蔑 ないがし ろにした退行 たいこう 的 てき (regressive)なものである。彼 かれ らにとり、人類 じんるい の進化 しんか とは基本 きほん 的 てき に完了 かんりょう しているのであり、今後 こんご 、必要 ひつよう とされるのは、こうして確立 かくりつ された成果 せいか を展開 てんかい していくことなのである。
これらの「立場 たちば 」は、独自 どくじ の価値 かち 構造 こうぞう を基盤 きばん とするものであるが、それぞれは、あらゆる価値 かち 構造 こうぞう がそうであるように、何 なん らかの重要 じゅうよう な真実 しんじつ をとらえるものであるとともに、また、必 かなら ず何 なん らかの盲点 もうてん を内包 ないほう している。現代 げんだい において必要 ひつよう とされているのは、これらの「立場 たちば 」の内包 ないほう する真実 しんじつ と盲点 もうてん を認識 にんしき したうえで、人類 じんるい 進化 しんか の妥当 だとう 性 せい を確立 かくりつ することであるとウィルバーは主張 しゅちょう する。人類 じんるい 進化 しんか という概念 がいねん を復権 ふっけん するために必要 ひつよう となる重要 じゅうよう 法則 ほうそく としてウィルバーは、下記 かき のものをあげる。
進化 しんか の両義 りょうぎ 性 せい :進化 しんか とは、現在 げんざい の段階 だんかい において解決 かいけつ することのできない課題 かだい ・問題 もんだい を高次 こうじ の段階 だんかい を構築 こうちく することをとおして解決 かいけつ する過程 かてい である。しかし、そうした高次 こうじ の発達 はったつ 段階 だんかい を構築 こうちく することをとおして、過去 かこ の段階 だんかい には存在 そんざい しなかった問題 もんだい ・課題 かだい を創造 そうぞう することになる。その意味 いみ で、進化 しんか とは、常 つね に、新 あたら しい可能 かのう 性 せい と新 あたら しい危険 きけん 性 せい をもたらす過程 かてい であるということができる。また、進化 しんか の過程 かてい で、超越 ちょうえつ と継承 けいしょう (transcend and include)という法則 ほうそく のもと、共同 きょうどう 体 たい の構造 こうぞう が複雑 ふくざつ 化 か するなかで、共同 きょうどう 体 たい は、その複雑 ふくざつ 性 せい ゆえに、必然 ひつぜん 的 てき に比較 ひかく 的 てき に単純 たんじゅん な構造 こうぞう においては存在 そんざい しえない問題 もんだい ・課題 かだい を包含 ほうがん することになる。人類 じんるい の進化 しんか について検討 けんとう するうえで、高次 こうじ の構造 こうぞう を構築 こうちく するということが不可避 ふかひ 的 てき に内包 ないほう することになる両義 りょうぎ 性 せい に注目 ちゅうもく することが非常 ひじょう に重要 じゅうよう になる。
差異 さい 化 か と乖離 かいり の識別 しきべつ :進化 しんか の過程 かてい に働 はたら く重要 じゅうよう な法則 ほうそく のひとつとして、「差異 さい 化 か 」(differentiation)がある。これは、当初 とうしょ はひとつのものとして混乱 こんらん ・混同 こんどう していたものに秩序 ちつじょ をあたえて、そこに内包 ないほう されていた要素 ようそ を明確 めいかく 化 か して、新 あたら しい関係 かんけい 性 せい のなかに位置 いち づけることを意味 いみ する。例 たと えば、個人 こじん の意識 いしき の深化 しんか において、理性 りせい 的 てき な構造 こうぞう としての自我 じが を確立 かくりつ して、自己 じこ の身体 しんたい を対象 たいしょう 化 か することは、肉体 にくたい 的 てき 衝動 しょうどう の絶対 ぜったい 的 てき な支配 しはい からの自己 じこ の自由 じゆう を確保 かくほ するために、必須 ひっす の課題 かだい となる。しかし、そうした差異 さい 化 か が過剰 かじょう なものとなるとき、身体 しんたい は個人 こじん の自己 じこ (identity)の構成 こうせい 要素 ようそ として抱擁 ほうよう されず、結果 けっか として、乖離 かいり (dissociation)することになる。今日 きょう 、個人 こじん の領域 りょういき において蔓延 まんえん している身体 しんたい 性 せい の乖離 かいり は、共同 きょうどう 体 たい の領域 りょういき においては、自然 しぜん (nature)との乖離 かいり をもたらす。こうした病理 びょうり は、今日 きょう 、惑星 わくせい 規模 きぼ の深刻 しんこく な自然 しぜん 破壊 はかい として結実 けつじつ している。進化 しんか の過程 かてい において、差異 さい 化 か は非常 ひじょう に重要 じゅうよう な法則 ほうそく であるが、これは、また、常 つね に乖離 かいり の危険 きけん 性 せい を宿 やど していることを認識 にんしき する必要 ひつよう がある。
超越 ちょうえつ と抑圧 よくあつ の識別 しきべつ :進化 しんか の過程 かてい において、高次 こうじ の構造 こうぞう は、常 つね に、低 てい 次 つぎ の構造 こうぞう を対象 たいしょう 化 か して、自己 じこ の構成 こうせい 要素 ようそ (基盤 きばん )として抱擁 ほうよう する。これにより、高次 こうじ の構造 こうぞう は、自己 じこ の構成 こうせい 要素 ようそ として抱擁 ほうよう された対象 たいしょう に対 たい して支配 しはい 力 りょく を行使 こうし して、操作 そうさ することができるようになるのである("downward causation")。しかし、こうした低 てい 次 つぎ 階層 かいそう への操作 そうさ 能力 のうりょく は、時 とき として、歪 いびつ なかたちで行使 こうし され、結果 けっか として、諸々 もろもろ の病理 びょうり を生 う みだすことになる(例 れい :抑圧 よくあつ ・否認 ひにん ・歪曲 わいきょく )。進化 しんか の過程 かてい において、高次 こうじ 構造 こうぞう の構築 こうちく は、人間 にんげん に、低 てい 次 つぎ 構造 こうぞう の絶対 ぜったい 性 せい を解消 かいしょう することをとおして、より包括 ほうかつ 的 てき な視野 しや から行動 こうどう することを可能 かのう にする非常 ひじょう に重要 じゅうよう な活動 かつどう である。しかし、そこには、また、諸々 もろもろ の病理 びょうり を生 う みだす可能 かのう 性 せい が内包 ないほう されていることをわれわれは留意 りゅうい しなければならない。
自然 しぜん なヒエラルキーと病的 びょうてき なヒエラルキーの識別 しきべつ :進化 しんか の過程 かてい において、ある発達 はったつ 段階 だんかい において全体 ぜんたい であるものが、次 つぎ の発達 はったつ 段階 だんかい においてより包括 ほうかつ 的 てき な全体 ぜんたい の構成 こうせい 要素 ようそ として抱擁 ほうよう されることになる。そして、より高度 こうど の統合 とうごう 能力 のうりょく をもつ構造 こうぞう に抱擁 ほうよう (embrace)されることにより、それそのものとしては所有 しょゆう していない意味 いみ (価値 かち )を賦与 ふよ されるのである。 こうした高次 こうじ と低 てい 次 つぎ の関係 かんけい 性 せい (ヒエラルキー)は、いうまでもなく、このコスモスのあらゆるところに見 み いだされるものである。その意味 いみ で、ヒエラルキーは、自然 しぜん の組織 そしき 法則 ほうそく と形容 けいよう することができるだろう。しかし、また、「抱擁 ほうよう 」を基本 きほん 法則 ほうそく として展開 てんかい するヒエラルキー構造 こうぞう は、とりわけ人間 にんげん の活動 かつどう 領域 りょういき においては、常 つね に、諸々 もろもろ の病理 びょうり をひきおこす病的 びょうてき なヒエラルキーへと転 てん じる可能 かのう 性 せい を内包 ないほう している。従 したが い、人類 じんるい の進化 しんか について検討 けんとう をする際 さい 、ヒエラルキーという法則 ほうそく が、実際 じっさい に自然 しぜん なものとして発現 はつげん しているのか、もしくは、病的 びょうてき なものとして発現 はつげん しているのかについて注意 ちゅうい をする必要 ひつよう がある。
高次 こうじ の段階 だんかい が低 てい 次 つぎ の衝動 しょうどう に掌握 しょうあく されてしまう可能 かのう 性 せい があること:高次 こうじ の構造 こうぞう により創出 そうしゅつ された装置 そうち ・技術 ぎじゅつ ・機能 きのう は、常 つね に、低 てい 次 つぎ の衝動 しょうどう ・欲求 よっきゅう により利用 りよう される危険 きけん 性 せい を秘 ひ めている。とりわけ、今日 きょう のように、大量 たいりょう 破壊 はかい 兵器 へいき 等 とう 、最先端 さいせんたん の科学 かがく 技術 ぎじゅつ を利用 りよう して開発 かいはつ された装置 そうち が大量 たいりょう 生産 せいさん ・大量 たいりょう 販売 はんばい されている状況 じょうきょう においては、そうした装置 そうち を開発 かいはつ するための必要 ひつよう 能力 のうりょく をもちあわせていない人々 ひとびと も容易 ようい にそれらを購入 こうにゅう ・使用 しよう することができることになる。結果 けっか として、合理 ごうり 性 せい の創造 そうぞう 物 ぶつ である装置 そうち が、神話 しんわ 的 てき 合理 ごうり 性 せい 段階 だんかい の部族 ぶぞく 主義 しゅぎ 的 てき な衝動 しょうどう にもとづいて利用 りよう されることになるのである。上記 じょうき のように、進化 しんか とは、常 つね に、可能 かのう 性 せい と危険 きけん 性 せい の両方 りょうほう を増幅 ぞうふく する過程 かてい である。人類 じんるい の進化 しんか について検討 けんとう をする際 さい 、共同 きょうどう 体 たい のなかに並存 へいそん する複数 ふくすう の発達 はったつ 段階 だんかい の行動 こうどう 論理 ろんり がどのような相互 そうご 作用 さよう をしながら、可能 かのう 性 せい と危険 きけん 性 せい を発露 はつろ させているかを慎重 しんちょう に考察 こうさつ をする必要 ひつよう があるのである。
「前 ぜん ・後 ご の混同 こんどう 」("Pre/Post Fallacy")の項目 こうもく においても述 の べたように、目前 もくぜん に展開 てんかい する世界 せかい があまりにも過酷 かこく な苦悩 くのう に特徴 とくちょう づけられるとき、われわれは、しばしば、そうした世界 せかい をもたらした歴史 れきし の過程 かてい を進化 しんか の過程 かてい ではなく退化 たいか の過程 かてい であると思 おも いこむようである。そうした意識 いしき 状態 じょうたい においては、それらの苦悩 くのう が高度 こうど の意識 いしき 構造 こうぞう を構築 こうちく することにより獲得 かくとく されたものであることは無視 むし され、ただ、その瞬間 しゅんかん に経験 けいけん される苦悩 くのう の重圧 じゅうあつ のみが注目 ちゅうもく される。そして、その感覚 かんかく を正当 せいとう 化 か するために歴史 れきし 観 かん が構築 こうちく されるのである。こうした「錯覚 さっかく 」を回避 かいひ するために、上記 じょうき の法則 ほうそく は非常 ひじょう に重要 じゅうよう な意味 いみ をもつといえるだろう。
1995年 ねん に出版 しゅっぱん された『進化 しんか の構造 こうぞう 』(Sex, Ecology, Spirituality)において、ウィルバーは、自己 じこ の思想 しそう 活動 かつどう をその端緒 たんしょ より特徴 とくちょう づけていた「個人 こじん 」と「集合 しゅうごう 」の領域 りょういき を相互 そうご に有機 ゆうき 的 てき に関連 かんれん するものとしてひとつの包括 ほうかつ 的 てき な理論 りろん 構想 こうそう のなかに統合 とうごう することに成功 せいこう する。そして、この理論 りろん 構想 こうそう は、『進化 しんか の構造 こうぞう 』の発表 はっぴょう 後 ご 、継続 けいぞく 的 てき な修正 しゅうせい をくわえられながら、今日 きょう の"AQAL"("All Quadrants, All Levels"を省略 しょうりゃく したもの)と形容 けいよう されるものへと展開 てんかい している。このあたりの理論 りろん 展開 てんかい の詳細 しょうさい については『進化 しんか の構造 こうぞう 』とKosmic Karma and Creativityを参照 さんしょう していただくとして、ここでは、これらの理論 りろん 構想 こうそう をその基盤 きばん において支 ささ えている発想 はっそう (態度 たいど )について紹介 しょうかい する。
与那城 よなぐすく 務 つとむ (2006)の論文 ろんぶん においても指摘 してき されているように、インテグラル思想 しそう は、「インテグラル」(統合 とうごう )という大義 たいぎ のもと、多様 たよう な理論 りろん 体系 たいけい をその構成 こうせい 要素 ようそ として包摂 ほうせつ することを意図 いと するものではない。むしろ、インテグラル思想 しそう とは、人間 にんげん の意識 いしき というものが、ある視点 してん (perspective)を抱擁 ほうよう することをとおして、必然 ひつぜん 的 てき に盲点 もうてん を抱 かか えこむものであることの認識 にんしき のもと、人間 にんげん の認識 にんしき 行為 こうい の構造 こうぞう 的 てき な限定 げんてい 条件 じょうけん を建設 けんせつ 的 てき に活用 かつよう することを意図 いと するものである。つまり、それは、世界 せかい を認識 にんしき する際 さい 、視点 してん というものを利用 りよう せざるをえない人間 にんげん の認識 にんしき 能力 のうりょく の特性 とくせい を内省 ないせい することをとおして、認識 にんしき という経験 けいけん が生成 せいせい する背景 はいけい としての意識 いしき という空間 くうかん に立 た ちかえることを援助 えんじょ しようとするものなのである。こうした観想 かんそう 者 しゃ の視野 しや に継続 けいぞく 的 てき に立 た ちかえることをとおして、人間 にんげん は、はじめて、自 みずか らの得意 とくい とする視点 してん に執着 しゅうちゃく することなく、様々 さまざま な視点 してん を柔軟 じゅうなん に活用 かつよう することができるようになるのである。
『意識 いしき のスペクトラム』は、こうした態度 たいど を基盤 きばん として、垂直 すいちょく 的 てき に存在 そんざい する認識 にんしき (存在 そんざい )の階層 かいそう をまとめたものである。そして、『進化 しんか の構造 こうぞう 』以降 いこう の著作 ちょさく のなかで提唱 ていしょう されるAQALは、この意識 いしき (存在 そんざい )の階層 かいそう を、水平 すいへい 的 てき に存在 そんざい する認識 にんしき (存在 そんざい )の領域 りょういき へと展開 てんかい したものである。
水平 すいへい 的 てき に存在 そんざい する認識 にんしき (存在 そんざい )の領域 りょういき として、ウィルバーは、"I"・"WE "・"IT"・"ITS"の4つをあげている。これらは、人間 にんげん が生得 しょうとく 的 てき に所有 しょゆう する視点 してん として普遍 ふへん 的 てき に共有 きょうゆう されているものであり、また、この世界 せかい のあらゆる事象 じしょう を包括 ほうかつ 的 てき に認識 にんしき するうえで必要 ひつよう とされるものであるという。
"I"(Individual Interior):個 こ の内面 ないめん の領域 りょういき 。この視点 してん は、個 こ の主観 しゅかん 的 てき (subjective)な存在 そんざい としての真実 しんじつ 性 せい を尊重 そんちょう するもので、そこでは、個 こ は、自己 じこ の内的 ないてき な意図 いと にもとづいて行動 こうどう する自律 じりつ 的 てき な存在 そんざい としてとらえられる。この領域 りょういき の価値 かち 基準 きじゅん は、個人 こじん が、自己 じこ の内的 ないてき な感覚 かんかく をいかに正確 せいかく に解釈 かいしゃく ・表現 ひょうげん するかに注目 ちゅうもく する主観 しゅかん 的 てき な「誠実 せいじつ 」(sincerity)というものである。
"WE "(Collective Interior):集合 しゅうごう の内面 ないめん の領域 りょういき 。この視点 してん は、自律 じりつ 的 てき な内面 ないめん を所有 しょゆう する個人 こじん の相互 そうご 理解 りかい と相互 そうご 尊重 そんちょう を重視 じゅうし するもので、そこでは、集合 しゅうごう (共同 きょうどう 体 たい )は、規範 きはん ・倫理 りんり ・価値 かち 等 とう の文化 ぶんか を共有 きょうゆう する個人 こじん による共感 きょうかん により維持 いじ されるものとしてとらえられる。この領域 りょういき の価値 かち 基準 きじゅん は、集合 しゅうごう (共同 きょうどう 体 たい )の構成 こうせい 員 いん が、相互 そうご 理解 りかい ・相互 そうご 尊重 そんちょう をとおして、いかにまとまりのある文化 ぶんか 空間 くうかん を構築 こうちく するかに注目 ちゅうもく する「正義 まさよし 」(justness)である。
"IT"(Individual Exterior):個 こ の外面 がいめん の領域 りょういき 。この視点 してん は、客観 きゃっかん 的 てき に観察 かんさつ をすることのできる事象 じしょう を重視 じゅうし するもので、そこでは、主観 しゅかん 的 てき な要素 ようそ の影響 えいきょう することない、普遍 ふへん 的 てき な事実 じじつ が追求 ついきゅう される。この領域 りょういき の価値 かち 基準 きじゅん は、いかにあらゆる主観 しゅかん 的 てき な「歪曲 わいきょく 」に影響 えいきょう されない「客観 きゃっかん 的 てき 」・「普遍 ふへん 的 てき 」な真実 しんじつ を抽出 ちゅうしゅつ するかに注目 ちゅうもく する「真実 しんじつ 」(truth)である。
"ITS"(Collective Exterior):集合 しゅうごう (共同 きょうどう 体 たい )の外面 がいめん の領域 りょういき 。この視点 してん は、集合 しゅうごう の組織 そしき 体 たい としての整合 せいごう 性 せい を尊重 そんちょう するもので、そこでは、個 こ は、あくまでも、集合 しゅうごう の構成 こうせい 要素 ようそ としてとらえられる。この領域 りょういき の価値 かち 基準 きじゅん は、ある存在 そんざい (個人 こじん ・組織 そしき )が、それをとりまく外的 がいてき な生存 せいぞん 状 じょう 況 きょう にいかに適合 てきごう するかに注目 ちゅうもく する「機能 きのう 的 てき な適合 てきごう 」(functional fit)というものである。
上記 じょうき の視野 しや は、独自 どくじ の価値 かち 基準 きじゅん にもとづいて事象 じしょう を把握 はあく ・検証 けんしょう する。つまり、それらは、独自 どくじ の方法 ほうほう で事象 じしょう を照明 しょうめい し、また、独自 どくじ の方法 ほうほう で事象 じしょう を隠蔽 いんぺい するのである。重要 じゅうよう なことは、それぞれの視野 しや の自律 じりつ 性 せい を尊重 そんちょう したうえで、それらを相互 そうご の有機 ゆうき 的 てき な関係 かんけい 性 せい のなかに位置 いち づけることである。世界 せかい のあらゆる事象 じしょう は、少 すく なくともこれら4つの視野 しや から認識 にんしき することのできるものである。インテグラル・アプローチは、これらの視野 しや が内在 ないざい する光 ひかり と陰 かげ を認識 にんしき したうえで、それらを包括 ほうかつ 的 てき に活用 かつよう することの重要 じゅうよう 性 せい を認識 にんしき する。
ウィルバーの指摘 してき するように、これらの視野 しや の相補 そうほ 的 てき な重要 じゅうよう 性 せい を尊重 そんちょう することなく、どれかを絶対 ぜったい 化 か すること("Quadrant Absolutism")は、深刻 しんこく な悲劇 ひげき をもたらすことになる。例 たと えば、今日 きょう 、現代 げんだい 社会 しゃかい は、内面 ないめん 性 せい の価値 かち を溶解 ようかい しようとする文化 ぶんか 的 てき な潮流 ちょうりゅう に席巻 せっけん されている。これは、ウィルバーが「フラットランド」("Flatland")と呼 よ ぶもので、近代 きんだい 科学 かがく の物質 ぶっしつ 主義 しゅぎ と現代 げんだい 思想 しそう の価値 かち 相対 そうたい 主義 しゅぎ の融合 ゆうごう により生 う みだされた、あらゆる価値 かち 基準 きじゅん の外面 がいめん 化 か ・浅薄 せんばく 化 か の流 なが れと形容 けいよう することのできるものである。そこでは、人間 にんげん を人間 にんげん たらしめる内面 ないめん 性 せい というものが妥当 だとう 性 せい をもつ価値 かち 領域 りょういき として否定 ひてい され、その代 か わりに、視覚 しかく や触覚 しょっかく 等 とう 、肉体 にくたい 感覚 かんかく により計測 けいそく することのできる情報 じょうほう が信頼 しんらい できる基盤 きばん として排他 はいた 的 てき に抱擁 ほうよう るれたのである。こうした状況 じょうきょう において、人間 にんげん の内面 ないめん 性 せい を探求 たんきゅう することをとおして人格 じんかく の成熟 せいじゅく を醸成 じょうせい することを意図 いと する芸術 げいじゅつ 等 とう の営為 えいい の存在 そんざい 価値 かち は、必然 ひつぜん 的 てき に軽視 けいし されるようになる。こうした外面 がいめん 化 か ・浅薄 せんばく 化 か の蔓延 まんえん した社会 しゃかい においては、人間 にんげん とは、あくまでも自己 じこ の肉体 にくたい 的 てき 衝動 しょうどう に忠実 ちゅうじつ に行動 こうどう する物質 ぶっしつ 的 てき 存在 そんざい にすぎず、その「治癒 ちゆ 」は、肉体 にくたい 的 てき 衝動 しょうどう の充足 じゅうそく をとおして可能 かのう となるものであるとされるのである。
しかし、発達 はったつ 心理 しんり 学 がく の調査 ちょうさ が示唆 しさ するように、人間 にんげん の成長 せいちょう (治癒 ちゆ )とは、内省 ないせい 力 りょく の深化 しんか をとおして、肉体 にくたい 的 てき 衝動 しょうどう を高度 こうど のレベルに昇華 しょうか して、成熟 せいじゅく した社会 しゃかい 性 せい のもとに表現 ひょうげん する、自己 じこ 中心 ちゅうしん 性 せい を克服 こくふく する過程 かてい である。そこでは、成長 せいちょう (治癒 ちゆ )とは、自己 じこ を対象 たいしょう 化 か して、複数 ふくすう の視点 してん を考慮 こうりょ したうえで、表現 ひょうげん することのできる意識 いしき 構造 こうぞう を構築 こうちく することをとおして達成 たっせい されるものとして認識 にんしき されるのである。そうした人間 にんげん 存在 そんざい の垂直 すいちょく 的 てき な可能 かのう 性 せい を尊重 そんちょう する人間 にんげん 観 かん は、今日 きょう の外面 がいめん 領域 りょういき の絶対 ぜったい 化 か を基盤 きばん とした人間 にんげん 観 かん と真向 まっこう から衝突 しょうとつ するものである。結果 けっか として、こうした内面 ないめん 領域 りょういき の否定 ひてい は、とりわけ先進 せんしん 諸国 しょこく において、意識 いしき の広範 こうはん な地盤 じばん 沈下 ちんか をもたらしている。
インテグラル思想 しそう においては、普遍 ふへん 性 せい と時代 じだい 性 せい ・自律 じりつ 性 せい と関係 かんけい 性 せい ・創造 そうぞう と継承 けいしょう 等 とう 、一般 いっぱん 的 てき に対照 たいしょう 的 てき なものとして見 み なされている対極 たいきょく 的 てき 事項 じこう の統合 とうごう が積極 せっきょく 的 てき に志向 しこう される。われわれが瞬間 しゅんかん ・瞬間 しゅんかん に経験 けいけん する呼吸 こきゅう の動 うご きに象徴 しょうちょう されるように、人間 にんげん の存在 そんざい は無数 むすう の対極 たいきょく 的 てき な事項 じこう により特徴 とくちょう づけられているが、インテグラル思想 しそう は、それらをダイナミックに往復 おうふく することの価値 かち を認識 にんしき ・強調 きょうちょう することをとおして、人間 にんげん の可能 かのう 性 せい のより完全 かんぜん な実現 じつげん を可能 かのう としようとするのである。
無数 むすう の対極 たいきょく 性 せい のなかでも、インテグラル思想 しそう において、とりわけ重要 じゅうよう な意味 いみ をもつのが「理論 りろん と実践 じっせん 」である。これらの相補 そうほ 的 てき な対極 たいきょく 性 せい を巧 たく みに管理 かんり することは、非常 ひじょう に重要 じゅうよう な課題 かだい として認識 にんしき される。
上述 じょうじゅつ のように、インテグラル思想 しそう において、最 もっと も重要 じゅうよう 視 し されるのが、構築 こうちく 物 ぶつ としての理論 りろん をのりこえていこうとする姿勢 しせい である。ウィルバーは、しばしば、その著作 ちょさく の末尾 まつび において、自 みずか らが構築 こうちく した思想 しそう を自 みずか らの手 て により「否定 ひてい 」することをとおして、読者 どくしゃ を常 つね に既 すで に存在 そんざい する観想 かんそう 者 しゃ としての自己 じこ にひきもどす。窮極 きゅうきょく 的 てき に必要 ひつよう とされるのは、概念的 がいねんてき な構築 こうちく 物 ぶつ としての思想 しそう を記憶 きおく することではなく、人間 にんげん の存在 そんざい を特徴 とくちょう づける無 む (Nothingness)と神秘 しんぴ (Mystery)と空 そら (Emptiness)を自覚 じかく することなのである。そして、それは、必然 ひつぜん 的 てき に、われわれに生 い きることを要求 ようきゅう する。
こうした洞察 どうさつ にもとづいて、今日 きょう 、インテグラル・コミュニティーは、研究 けんきゅう と実践 じっせん の相補 そうほ 的 てき な重要 じゅうよう 性 せい を強調 きょうちょう するAction Inquiry(行動 こうどう 探求 たんきゅう )のコミュニティーとして、その活動 かつどう を展開 てんかい しはじめている。活動 かつどう の主眼 しゅがん は、個人 こじん の領域 りょういき の変容 へんよう (治癒 ちゆ )のみならず、また、集合 しゅうごう の領域 りょういき の変容 へんよう (治癒 ちゆ )を包含 ほうがん する、包括 ほうかつ 的 てき なものである。
今日 きょう 、人類 じんるい をとりまく生存 せいぞん 状 じょう 況 きょう が惑星 わくせい 規模 きぼ で急激 きゅうげき に劣化 れっか するなかで、人類 じんるい の生存 せいぞん の可能 かのう 性 せい そのものが深刻 しんこく な危機 きき にさらされている。こうした状況 じょうきょう のなか、現代 げんだい 文明 ぶんめい を真 しん の意味 いみ で持続 じぞく 可能 かのう なものとして構築 こうちく しなおすための積極 せっきょく 的 てき な活動 かつどう を展開 てんかい することの必要 ひつよう 性 せい は、ますます切迫 せっぱく した課題 かだい として認識 にんしき されている。しかし、実際 じっさい には、そうした認識 にんしき が、成熟 せいじゅく した責任 せきにん 能力 のうりょく にもとづいて、意図 いと 的 てき ・継続 けいぞく 的 てき な変革 へんかく の実践 じっせん として世界 せかい 的 てき 規模 きぼ で実現 じつげん されるまでには、まだまだ至 いた っていない。むしろ、今日 きょう 、世界 せかい 的 てき に頻発 ひんぱつ しているのは、生存 せいぞん 状 じょう 況 きょう の劣化 れっか を契機 けいき として発生 はっせい する諸々 もろもろ の共同 きょうどう 体 たい 間 あいだ の衝突 しょうとつ である。Steven LeBlanc (2003) の指摘 してき するように、人間 にんげん は、自 みずか らの生活 せいかつ する共同 きょうどう 体 たい の人口 じんこう 収容 しゅうよう 能力 のうりょく が自然 しぜん 資源 しげん の枯渇 こかつ や自然 しぜん 環境 かんきょう の劣化 れっか により低下 ていか するとき、周辺 しゅうへん 領域 りょういき を侵略 しんりゃく することをとおして、自己 じこ の生存 せいぞん を図 はか ろうとする生物 せいぶつ である。今日 きょう 、人類 じんるい の繁栄 はんえい と生存 せいぞん を可能 かのう としている重要 じゅうよう 資源 しげん である化石 かせき 燃料 ねんりょう が枯渇 こかつ 局面 きょくめん を迎 むか えようとするなか(Heinberg, 2003)、自己 じこ の生存 せいぞん を確保 かくほ するために、(国家 こっか ・民族 みんぞく 等 とう )諸々 もろもろ の共同 きょうどう 体 たい 間 あいだ の衝突 しょうとつ が頻発 ひんぱつ しはじめていることは、むしろ、当然 とうぜん のことといえるだろう。
この惑星 わくせい は閉鎖 へいさ システムであり、そこに存在 そんざい する資源 しげん は有限 ゆうげん である。継続 けいぞく 的 てき な人口 じんこう 増加 ぞうか に基 もと づいた自然 しぜん 資源 しげん の大量 たいりょう 消費 しょうひ は、いずれは、人類 じんるい 種 しゅ の生存 せいぞん を可能 かのう とする重要 じゅうよう 資源 しげん の枯渇 こかつ を招 まね くことになる。そして、生存 せいぞん 条件 じょうけん という外的 がいてき 状況 じょうきょう の悪化 あっか は、個人 こじん ・共同 きょうどう 体 たい の内的 ないてき 領域 りょういき における退行 たいこう をひきおこし、人間 にんげん の生得 しょうとく 的 てき な自己 じこ 中心 ちゅうしん 性 せい を増幅 ぞうふく することになる。そうした状況 じょうきょう が発生 はっせい するとき、今日 きょう 、先進 せんしん 諸国 しょこく において物質 ぶっしつ 的 てき 豊 ゆた かさの基盤 きばん のうえに成立 せいりつ している内面 ないめん 性 せい 探求 たんきゅう は、全 まった く意味 いみ をもたないものに成 な り果 は ててしてしまう。
今日 きょう の繁栄 はんえい を可能 かのう としている諸々 もろもろ の前提 ぜんてい 条件 じょうけん を溶解 ようかい するであろう危機 きき の時代 じだい において必要 ひつよう とされるのは、われわれに自 みずか らをとりまく生存 せいぞん 状 じょう 況 きょう を包括 ほうかつ 的 てき に認識 にんしき することを可能 かのう にする視野 しや である。そうした認識 にんしき の存在 そんざい しないところで創出 そうしゅつ される対応 たいおう 策 さく は――たとえ、それがどれほどの誠実 せいじつ さに支 ささ えられたものであろうとも――非 ひ 効果 こうか 的 てき なものとならざるをえないだろう。
インテグラル・アプローチを特徴 とくちょう づけるのは、内面 ないめん と外面 がいめん 、そして、個 こ と集合 しゅうごう という領域 りょういき を相互 そうご に関連 かんれん するものとしてとらえる包括 ほうかつ 的 てき な視野 しや である。また、インテグラル・アプローチは、そうした視野 しや を自己 じこ の認識 にんしき 構造 こうぞう として確立 かくりつ するために必要 ひつよう となる自己 じこ 変容 へんよう の実践 じっせん に取 と り組 く むことを重視 じゅうし する実践 じっせん 思想 しそう である。
そうした包括 ほうかつ 的 てき な視野 しや をとおして自己 じこ の置 お かれている時代 じだい 状況 じょうきょう と対峙 たいじ するとき、われわれは、はじめて、真 しん の意味 いみ の責任 せきにん 能力 のうりょく を所有 しょゆう する存在 そんざい として人生 じんせい を生 い きることができるのである。
ウィルバーは、トランスパーソナルな見方 みかた を重 おも んじることから[13] 、ニューエイジ に分類 ぶんるい されるが、近年 きんねん では哲学 てつがく 者 しゃ であるとも評価 ひょうか されている[14] 。Publishers Weekly は彼 かれ を「東洋 とうよう の霊 れい 性 せい のヘーゲル 」と呼 よ んでいる[15] 。
ウィルバーは、「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」の魅力 みりょく を人々 ひとびと に広 ひろ めたと言 い われる。「意識 いしき のスペクトル」(1977)に始 はじ まる一連 いちれん の論文 ろんぶん と著作 ちょさく において、高度 こうど で幅広 はばひろ い知識 ちしき をもとに広範 こうはん な応用 おうよう を伴 ともな う概念 がいねん モデルを作 つく り、現代 げんだい の学術 がくじゅつ 的 てき トランスパーソナル心理 しんり 学 がく 、トランスパーソナル心理 しんり 学 がく の初期 しょき の理論 りろん 構築 こうちく に最 もっと も影響 えいきょう を与 あた えた。津 つ 城 じょう 寛文 ひろふみ は、ウィルバーのモデルは「自己 じこ 完結 かんけつ 的 てき でなく、他者 たしゃ による発展 はってん や修正 しゅうせい にも開 ひら かれている。いずれにせよ、宗教 しゅうきょう 研究 けんきゅう の射程 しゃてい の広 ひろ さを確保 かくほ するためにも、ウィルバーの統合 とうごう 的 てき なビジョンは有益 ゆうえき である」と宗教 しゅうきょう 研究 けんきゅう における有用 ゆうよう 性 せい を評価 ひょうか している。
東洋 とうよう の修行 しゅぎょう を行 おこな い、その思想 しそう ・実践 じっせん に大 おお きな影響 えいきょう を受 う けているが、清水 しみず 大介 だいすけ は「ウィルバーの思想 しそう は、 東洋 とうよう の思想 しそう と修練 しゅうれん を受容 じゅよう したとはいえ、やはり思想 しそう の本質 ほんしつ は強靭 きょうじん な骨格 こっかく をもった西洋 せいよう 人 じん のものかと思 おも われる。後述 こうじゅつ の(本 ほん 項 こう では前述 ぜんじゅつ の)「前 まえ /超 ちょう の虚偽 きょぎ 」に示 しめ されるように、合理 ごうり 主義 しゅぎ をしっかり踏 ふ まえている。北米 ほくべい は、西欧 せいおう 文明 ぶんめい 圏 けん の一部 いちぶ であるということである。古今 ここん 東西 とうざい の思想 しそう が根本 こんぽん 的 てき に統合 とうごう されているのだが、それが西欧 せいおう 的 てき な強靭 きょうじん で生々 なまなま しい思索 しさく 力 りょく と合理 ごうり 的 てき な精神 せいしん によって遂行 すいこう されている、といえるかもしれない。」と、彼 かれ の思想 しそう の根本 こんぽん は西洋 せいよう 人 じん のものであると評 ひょう している。
ビル・クリントン [18] 、アル・ゴア 、ディパック・チョープラ、リチャード・ローア[19] 、ミュージシャンのビリー・コーガン など、様々 さまざま な政治 せいじ 家 か や文化 ぶんか 人 じん がウィルバーの影響 えいきょう に言及 げんきゅう している[20] 。 トランスパーソナル心理 しんり 学 がく の主要 しゅよう な論客 ろんかく である一方 いっぽう 、その評価 ひょうか は賛否 さんぴ 両論 りょうろん である。
前期 ぜんき ウィルバーのトランスパーソナル心理 しんり 学 がく 、中期 ちゅうき ウィルバーが追究 ついきゅう した「世界 せかい 哲学 てつがく あるいは統合 とうごう 的 てき 哲学 てつがく 」は、発想 はっそう の発端 ほったん や経緯 けいい から、近 きん 未来 みらい 的 てき なビジョンまで、わかりやすく、難解 なんかい で回 まわ りくどい表現 ひょうげん や不可視 ふかし の図式 ずしき が隠 かく されているということもなく、明快 めいかい で図式 ずしき 化 か されており、「ウィルバーには深 ふか みや奥行 おくゆ きがない」、過度 かど にカテゴライズして客観 きゃっかん 化 か している、という批判 ひはん は少 すく なくない[21] [22] 。彼 かれ の思想 しそう は家父長制 かふちょうせい 的 てき で階層 かいそう 的 てき な考 かんが え方 かた によるモデルに見 み え、また自然 しぜん 神秘 しんぴ 主義 しゅぎ を低 ひく く評価 ひょうか しているように見 み えることから、一部 いちぶ のフェミニスト やトランスパーソナル・エコロジストに、男性 だんせい 主義 しゅぎ 的 てき なアプローチ[21] [22] 等 ひとし と批判 ひはん されてきた。また、ウィルバーのアプローチは、スピリチュアリティ を商品 しょうひん 化 か し[23] 、感情 かんじょう を悪 わる くとらえていると批判 ひはん されてきた[24] 。一神教 いっしんきょう 的 てき な宗教 しゅうきょう 経験 けいけん を適切 てきせつ に説明 せつめい することに失敗 しっぱい しているという批判 ひはん もある。多 おお くの批評 ひひょう 家 か は、ウィルバーの解釈 かいしゃく や、彼 かれ が幅広 はばひろ い情報 じょうほう を必 かなら ずしも正確 せいかく に引用 いんよう していないこと、また、繰 く り返 かえ される反復 はんぷく は無意味 むいみ であり、著作 ちょさく は過剰 かじょう に長 なが く、文体 ぶんたい が誇張 こちょう されている等 ひとし と問題 もんだい を挙 あ げている[25] 。クリストファー・バッハはウィルバーの作品 さくひん のいくつかの側面 そくめん を賞賛 しょうさん しているが、ウィルバーの文体 ぶんたい は「口達者 くちだっしゃ 」だと評 ひょう している[26] 。
20代 だい の頃 ころ から、日本 にっぽん からの禅 ぜん の修行 しゅぎょう とチベット仏教 ぶっきょう の修行 しゅぎょう を行 おこな っているが、彼 かれ のトランスパーソナル的 てき な発達 はったつ モデルは、ヒンドゥー教 きょう のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ 、禅 ぜん 、チベット仏教 ぶっきょう といった東洋 とうよう 思想 しそう に偏向 へんこう しすぎているという批判 ひはん がある。スティーブ・マッキントッシュは、ウィルバーの作品 さくひん を賞賛 しょうさん しているが、彼 かれ は「哲学 てつがく 」を自身 じしん のヴェーダーンタや仏教 ぶっきょう といった「宗教 しゅうきょう 」と区別 くべつ していないとも指摘 してき している[27] 。彼 かれ の思想 しそう は、ヴェーダーンタや仏教 ぶっきょう の言 い うところが「真実 しんじつ 」という前提 ぜんてい に立 た って成 な り立 た っているため、「科学 かがく 的 てき 実証 じっしょう 性 せい に乏 とぼ しい」という批判 ひはん は当然 とうぜん ある。菅原 すがわら 浩 ひろし は、ウィルバーの仮説 かせつ はそもそも科学 かがく 的 てき 認識 にんしき 方法 ほうほう の限界 げんかい の自覚 じかく から出発 しゅっぱつ し、あえて「永遠 えいえん の哲学 てつがく 」の真理 しんり 性 せい を受 う け入 い れており、むしろ、「科学 かがく 的 てき 実証 じっしょう 性 せい に乏 とぼ しい」と批判 ひはん する側 がわ こそ科学 かがく 的 てき 認識 にんしき 方法 ほうほう の絶対 ぜったい 性 せい を無 む 批判 ひはん に前提 ぜんてい としており、「そもそも何 なん らかの形而上学 けいじじょうがく 的 てき な前提 ぜんてい ぬきに知 ち のパラダイムが成 な り立 た つと考 かんが えるほうが幻想 げんそう 」であるとウィルバーへの批判 ひはん に反論 はんろん している。
精神 せいしん 科 か 医 い のスタニスラフ・グロフ は、ウィルバーの知識 ちしき と仕事 しごと を最上級 さいじょうきゅう のことばで賞賛 しょうさん している[28] 。その一方 いっぽう 、グロフは、ウィルバーが意識 いしき のスペクトルから、出生 しゅっしょう 前 まえ および出生 しゅっしょう 前後 ぜんこう の領域 りょういき を省略 しょうりゃく し、生物 せいぶつ としての誕生 たんじょう と死 し の心理 しんり 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい を無視 むし したことを批判 ひはん している[29] 。グロフはウィルバーの著作 ちょさく について、「しばしば個人 こじん 的 てき な攻撃 こうげき といえる強 つよ い言葉 ことば を含 ふく む攻撃 こうげき 的 てき な極論 きょくろん のスタイルであり、個人 こじん 的 てき な対話 たいわ を促進 そくしん しない」と評 ひょう している[30] 。ウィルバーの応答 おうとう は、グロフが出生 しゅっしょう 前後 ぜんこう にあると考 かんが えている重要 じゅうよう 性 せい は、世界 せかい の伝統 でんとう 宗教 しゅうきょう には見 み られないというというものだった[31] 。
The Spectrum of Consciousness , 1977, anniv. ed. 1993.『意識 いしき のスペクトル1・2』吉福 よしふく 伸 しん 逸 いっ +菅 かん 靖彦 やすひこ 訳 わけ 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 1985年 ねん 。
No Boundary: Eastern and Western Approaches to Personal Growth , 1979, reprint ed. 2001. 『無 む 境界 きょうかい 』吉福 よしふく 伸 しん 逸 いっ 訳 やく 、平河 ひらかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1986年 ねん 。
The Atman Project: A Transpersonal View of Human Development , 1980, 2nd ed. 『アートマン・プロジェクト』吉福 よしふく 伸 しん 逸 いっ +プラブッダ +菅 かん 靖彦 やすひこ 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、初 はつ 訳 わけ 1986、改訂 かいてい 1997年 ねん 。
Up from Eden: A Transpersonal View of Human Evolution , 1981, new ed. 1996.『エデンから』松尾 まつお 弌之訳 やく 、講談社 こうだんしゃ 、1986年 ねん 。
The Holographic Paradigm and Other Paradoxes: Exploring the Leading Edge of Science (editor), 1982. 『空 そら 像 ぞう としての世界 せかい 』井上 いのうえ 忠 ただし 他 た 訳 やく 、青土 おうづち 社 しゃ 、初 はつ 訳 わけ 1983年 ねん 、改訂 かいてい 1992年 ねん 。
A Sociable God: A Brief Introduction to a Transcendental Sociology , 1983, new ed. 2005 subtitled Toward a New Understanding of Religion . 『構造 こうぞう としての神 かみ 』井上 いのうえ 章子 あきこ 訳 やく 、青土 おうづち 社 しゃ 、1984年 ねん 。
Eye to Eye: The Quest for the New Paradigm , 1984, 3rd rev. ed. 2001. 『眼 め には眼 め を』吉福 よしふく 伸 しん 逸 いっ +プラブッダ+菅 かん 靖彦 やすひこ +田中 たなか 三彦 みつひこ 訳 やく 、青土 おうづち 社 しゃ 、1987年 ねん 。
Quantum Questions: Mystical Writings of the World's Great Physicists (editor), 1984, rev. ed. 2001. 『量子 りょうし の公案 こうあん 』田中 たなか 三彦 みつひこ 訳 やく 、工作 こうさく 舎 しゃ 、邦訳 ほうやく 1984年 ねん 、新装 しんそう 1987年 ねん 。
Transformations of Consciousness: Conventional and Contemplative Perspectives on Development (co-authors: Jack Engler, Daniel Brown), 1986.
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Grace and Grit: Spirituality and Healing in the Life of Treya Killam Wilber , 1991, 2nd ed. 2001. 『グレース&グリット1・2』伊東 いとう 宏 ひろし 太郎 たろう 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、1999年 ねん 。
Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution , 1st ed. 1995, 2nd rev. ed. 2001. 『進化 しんか の構造 こうぞう 1・2』松永 まつなが 太郎 たろう 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、1998年 ねん 。
A Brief History of Everything , 1st ed. 1996, 2nd ed. 2001.『万物 ばんぶつ の歴史 れきし 』大野 おおの 純一 じゅんいち 訳 わけ 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、1996年 ねん 。
The Eye of Spirit: An Integral Vision for a World Gone Slightly Mad , 1997, 3rd ed. 2001. 『統合 とうごう 的 てき 心理 しんり 学 がく への道 みち 』松永 まつなが 太郎 たろう 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、2004年 ねん 。
The Marriage of Sense and Soul: Integrating Science and Religion , 1998, reprint ed. 1999. 『科学 かがく と宗教 しゅうきょう の統合 とうごう 』吉田 よしだ 豊 ゆたか 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、2000年 ねん 。
One Taste: The Journals of Ken Wilber , 1999, rev. ed. 2000. 『ワン・テイスト 上 じょう ・下 した 』青木 あおき 聡 さとし 訳 やく 、コスモスライブラリー、2002年 ねん 。
Integral Psychology: Consciousness, Spirit, Psychology, Therapy , 2000.
A Theory of everything (philosophy)|Theory of Everything: An Integral Vision for Business, Politics, Science and Spirituality , 2000, paperback ed.. 『万物 ばんぶつ の理論 りろん 』岡野 おかの 守也 もりや 訳 やく 、トランスビュー 、2002年 ねん 。
Boomeritis: A Novel That Will Set You Free , 2002, paperback ed. 2003.
The Simple Feeling of Being: Visionary, Spiritual, and Poetic Writings , 2004. 『存在 そんざい することのシンプルな感覚 かんかく 』松永 まつなが 太郎 たろう 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、2005年 ねん 。
Integral-Spirituality ,2006. 『インテグラル・スピリチュアリティ』松永 まつなが 太郎 たろう 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、2008年 ねん 。
Integral Life Practice: A 21st-Century Blueprint for Physical Health, Emotional Balance, Mental Clarity, and Spiritual Awakening , 2008. 『実践 じっせん インテグラル・ライフ:自己 じこ 成長 せいちょう の設計 せっけい 図 ず 』鈴木 すずき 規夫 のりお 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ (2010年 ねん )。
『教育 きょういく トピックの教育 きょういく 学 がく 的 てき 考察 こうさつ 』村島 むらしま 義彦 よしひこ 、高 こう 菅 すが 出版 しゅっぱん 、2002年 ねん 。※巻末 かんまつ に”オデッセイ”の翻訳 ほんやく あり
『トランスパーソナル ヴィジョン 特集 とくしゅう ケン・ウィルバー』吉福 よしふく 伸 しん 逸 いっ 監修 かんしゅう 、雲母 うんも 書房 しょぼう 、1989年 ねん 。
『アメリカ現代 げんだい 思想 しそう [1] 』吉福 よしふく 伸 しん 逸 いっ 監修 かんしゅう 、阿含宗 あごんしゅう 総本山 そうほんざん 出版 しゅっぱん 局 きょく 、1986年 ねん 。※ウィルバーの論文 ろんぶん 収録 しゅうろく
『アメリカ現代 げんだい 思想 しそう [4] 』吉福 よしふく 伸 しん 逸 いっ 監修 かんしゅう 、阿含宗 あごんしゅう 総本山 そうほんざん 出版 しゅっぱん 局 きょく 、1988年 ねん 。※ウィルバーの論文 ろんぶん 収録 しゅうろく
What Survives?;Contemporary Explorations of Life After Death ,Gary Doore , 1990,『死 し を超 こ えて生 い きるもの――霊魂 れいこん の永遠 えいえん 性 せい について』ゲーリー・ドーア編 へん 笠原 かさはら 敏雄 としお +上野 うえの 圭一 けいいち 訳 やく 、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 。原書 げんしょ 1990/日本語 にほんご 訳 やく 1993年 ねん 。※ウィルバーの論文 ろんぶん 収録 しゅうろく
『インテグラル理論 りろん 入門 にゅうもん I:ウィルバーの意識 いしき 論 ろん 』鈴木 すずき 規夫 のりお ・久保 くぼ 隆司 たかし ・甲田 こうだ 烈 れつ ・青木 あおき 聡 さとし (著 ちょ )、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、2010年 ねん 。
『インテグラル理論 りろん 入門 にゅうもん II:ウィルバーの世界 せかい 論 ろん 』鈴木 すずき 規夫 のりお ・久保 くぼ 隆司 たかし ・甲田 こうだ 烈 れつ ・青木 あおき 聡 さとし (著 ちょ )、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、2010年 ねん 。
^ ティール組織 そしき とは? その意味 いみ や事例 じれい 、デメリットまとめ ビジネス+IT
^ a b 岩井 いわい 國臣 くにおみ トランスパーソナル心理 しんり 学 がく とウィルバー心理 しんり 学 がく 岩井 いわい 國臣 くにおみ の世界 せかい
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^ ... ケンは、広 ひろ い様々 さまざま な分野 ぶんや や修行 しゅぎょう から引 ひ き出 だ した情報 じょうほう を、高度 こうど に創造 そうぞう 的 てき に統合 とうごう し、並外 なみはず れた仕事 しごと をなしている... 彼 かれ の文献 ぶんけん に対 たい する知識 ちしき はまさに百科 ひゃっか 事典 じてん 的 てき であり、その分析 ぶんせき 力 りょく は体系 たいけい 的 てき で鋭 するど く、論理 ろんり の明晰 めいせき さは目 め を見張 みは るものがある。ケンの仕事 しごと は感動 かんどう 的 てき なまでに幅広 はばひろ く、包括 ほうかつ 的 てき な性格 せいかく を持 も ち、厳格 げんかく に知的 ちてき であることから、トランスパーソナル心理 しんり 学 がく の理論 りろん として広 ひろ く評価 ひょうか され、大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も つものとなっている。(Ken has produced an extraordinary work of highly creative synthesis of data drawn from a vast variety of areas and disciplines ... His knowledge of the literature is truly encyclopedic, his analytical mind systematic and incisive, and the clarity of his logic remarkable. The impressive scope, comprehensive nature, and intellectual rigor of Ken's work have helped to make it a widely acclaimed and highly influential theory of transpersonal psychology.)
Stanislav Grof, "Ken Wilber's Spectrum Psychology" Archived 2009-12-09 at the Wayback Machine .
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