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えいらん戦争せんそう

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だい2えいらん戦争せんそうちゅうの1666ねん6がつ11にちから14にちにかけて海戦かいせんおこなわれた(エイブラハム・ストーク

えいらん戦争せんそう(えいらんせんそう、Anglo-Dutch Wars)は17世紀せいき後半こうはんの3にわたるイングランドオランダ戦争せんそう海戦かいせん中心ちゅうしん双方そうほうとも相手方あいてがた本土ほんど侵攻しんこうすることはなく、いずれも中途半端ちゅうとはんぱ結果けっかわった。しかし、一連いちれん戦争せんそうでオランダの国力こくりょく疲弊ひへいした。

背景はいけい

17世紀せいきはじめにはえいらん両国りょうこくカトリックスペインポルトガル勢力せいりょくたいして協力きょうりょく関係かんけいにあったが、オランダひがしインド会社かいしゃ実力じつりょくイギリスひがしインド会社かいしゃ上回うわまわり、1623ねんアンボイナ事件じけん契機けいきに、イングランドは東南とうなんアジアひがしアジアから撤退てったいせざるをなくなった。香料こうりょう貿易ぼうえき独占どくせんしたオランダにはアジアとみ流入りゅうにゅうし、イングランドでははんオランダ感情かんじょうたかまった。

だいいちえいらん戦争せんそう

航海こうかいほうをきっかけに1652ねんから1654ねんにかけて、クロムウェルのイングランド共和きょうわこくネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく(オランダ)のあいだたたかわれた。イングランド艦隊かんたいひがしインドなどからアジアのとみ満載まんさいして帰国きこくするオランダ船団せんだんをイギリス海峡かいきょう襲撃しゅうげきし、拿捕だほはじめた。このため当初とうしょはイギリス海峡かいきょう制海権せいかいけん焦点しょうてんとなった。当時とうじオランダの造船ぞうせん能力のうりょく世界せかい最高さいこう水準すいじゅんにあり、オランダせい大型おおがた軍艦ぐんかんすで輸出ゆしゅつ商品しょうひんとして確立かくりつされていたが、常設じょうせつだい艦隊かんたい保有ほゆうしない方針ほうしんであること、小型こがたかん中心ちゅうしんのオランダ艦隊かんたい大型おおがたかん中心ちゅうしんのスペイン艦隊かんたいつね勝利しょうりつづけたこと、通商つうしょうルートの保護ほごのためには小型こがたかんかずをそろえたほうが便利べんりひとし理由りゆうにより、ブルジョア政治せいじたちは大型おおがた軍艦ぐんかん建造けんぞう承認しょうにんしなかった。また、オランダの沿岸えんがん水深すいしんあさいため、喫水きっすいふかくなる大型おおがたかん運用うんようしづらいというどうしようもない事情じじょうもあった。これにたいしてイングランドがわはよく装備そうびされた大型おおがた軍艦ぐんかん投入とうにゅうした。デ・ウィッテ一部いちぶ進歩しんぽてき政治せいじ現場げんば海軍かいぐん士官しかんたちは大型おおがたかん必要ひつようせいづいていたが、対応たいおうおくれた。オランダのトロンプ提督ていとく優勢ゆうせい英国えいこく海軍かいぐんたいして奮戦ふんせんしたが、装備そうびはどうすることもできず、イギリス海峡かいきょう制海権せいかいけんうしない、オランダ船団せんだんスコットランドきたおおきく迂回うかいしてオランダ本国ほんごく帰国きこくしなければならなかった。イギリス海軍かいぐんはオランダしょみなと封鎖ふうさつづけ、貿易ぼうえき立国りっこくのオランダはだい打撃だげきけた、とわれているが、本当ほんとうのところはたいした損害そんがいこうむっていない。イングランドの護国ごこくきょうとなっていたクロムウェルは、理想りそう主義しゅぎてきなプロテスタントえいらん対等たいとう合邦がっぽうろんとなえ、1654ねん和議わぎおうじ、ウェストミンスターやく成立せいりつ戦争せんそうわった。

だいえいらん戦争せんそう

1665ねんから1667ねんにかけてチャールズ2せいいただ王政おうせい復古ふっこのイングランド王国おうこくと、デ・ウィッテのひきいるネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく(オランダ)のあいだ展開てんかいされた。イングランドぐんが、きたアメリカにおけるオランダ植民しょくみんニューアムステルダム占領せんりょうしたことが発端ほったん前回ぜんかい同様どうよう、イングランド艦隊かんたいはオランダ商船しょうせん拿捕だほやオランダしょみなと封鎖ふうさおこなおうとしたが、財政難ざいせいなん失敗しっぱいした。この戦争せんそうはじまるとイングランドでは疫病えきびょう流行りゅうこうしたり、ロンドン大火たいかこったりした。オランダ艦隊かんたいテムズがわ侵入しんにゅうしてチャタム周辺しゅうへん停泊ていはくちゅう軍艦ぐんかんちにし、さらにイングランド艦隊かんたいそう旗艦きかんロイヤル・チャールズをふくめたすうせき捕獲ほかくされた。イングランドは決定的けっていてき敗北はいぼくげたのだが、フランスぐんみなみネーデルラント現在げんざいベルギー侵攻しんこう対処たいしょするため、オランダがわがイングランドと協力きょうりょくする方針ほうしん転換てんかんした。そのため1667ねん7がつ3にち講和こうわ条件じょうけんをかなり譲歩じょうほしたブレダのやくむすばれ、戦争せんそう終結しゅうけつした。オランダはこのやくニューアムステルダム現在げんざいニューヨーク)をふく北米ほくべい植民しょくみんニューネーデルラント現在げんざいニューヨークしゅう)をイングランドに割譲かつじょうしたが、オランダが占領せんりょうしたみなみアメリカギアナ地方ちほう一部いちぶが、そのままオランダりょうギアナ(現在げんざいスリナム)となった。

だいさんえいらん戦争せんそう

フランスルイ14せい盟約めいやくむすんだチャールズ2せい1672ねんから1674ねんにかけて、フランスのはじめたオランダ戦争せんそう協力きょうりょくするかたちはじまった。オランダ戦争せんそう局地きょくちせんともえる。当初とうしょフランスの侵略しんりゃく意図いとあきらかになると、デ・ウィッテはイングランドと同盟どうめいむすんだ。しかしルイ14せい絶世ぜっせい美女びじょケルアイユあたえてチャールズ2せい籠絡ろうらくし、イングランドを味方みかたにつけた。1672ねん、フランスぐんはオランダに侵攻しんこうして国土こくどだい部分ぶぶん占領せんりょうしたが、オランダがわ堤防ていぼう決壊けっかいさせてなにとかフランスぐんによるアムステルダム占領せんりょうふせいだ。危機ききひんした国内こくないではオラニエ=ナッサウすべりょう総督そうとくしょく復帰ふっきのぞこえつよまり、わかいオラニエこうウィレム3せいぐん最高さいこう司令しれいかんいですべりょう就任しゅうにんした。その発生はっせいした暴動ぼうどうにより、デ・ウィッテ兄弟きょうだい民衆みんしゅう惨殺ざんさつされた。ウィレム3せいオーストリアスペイン同盟どうめいむすんでフランスを包囲ほういし、フランスぐん撤退てったいさせている。戦争せんそう末期まっきにイングランドはだい艦隊かんたい組織そしきしてオランダをおそったが、オランダのめい提督ていとくデ・ロイテル撃退げきたいされた。

一方いっぽうイングランド議会ぎかいでは、オランダがフランスのちればイングランドはフランスじゅうしょう主義しゅぎによって経済けいざいてき屈服くっぷくさせられる、とこえたかまり、チャールズ2せいしんふつ路線ろせん撤回てっかいもとめるようになった。このため、1677ねんにチャールズ2せいおとうとヨークこうジェームズ2せい)のむすめメアリ(メアリ2せい)をウィレム3せいとつがせて同盟どうめいむすび、国内こくない不満ふまん沈静ちんせいつとめることになった。

結末けつまつ

イングランドは3にわたってオランダと開戦かいせんし、オランダ経済けいざいだい打撃だげきあたえたが、皮肉ひにくにも1688ねん名誉めいよ革命かくめいにより、かつて敵対てきたいしたオランダみつるりょうウィレムをイングランドおうウィリアム3せいとしてむかえることとなる。名誉めいよ革命かくめい国際こくさい関係かんけいからみれば、クロムウェルが提唱ていしょうしたえいらん合邦がっぽうあん実現じつげんえなくもない。

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