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かね (小説しょうせつ)

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かね里見さとみによる中編ちゅうへん小説しょうせつ内容ないよう谷口たにぐち他吉たきちちち遺言ゆいごんけてかねげをかえ一代記いちだいきである。

解説かいせつ[編集へんしゅう]

「かね」はよん稿こうにわたり改稿かいこうされている。 初出しょしゅつとされている「きむ(かね)」(雑誌ざっし改造かいぞうばんいちきゅうさんななねん昭和しょうわいちねんいちがつ)からはじまり、『アマカラ世界せかい きん(かね)』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃいちきゅうさんななねん昭和しょうわいちねんろくがつ)、『かね』(丹頂たんちょう書房しょぼういちきゅうよんはちねん昭和しょうわさんねんがつ)、『里見さとみ弴全しゅう だいななかん』(筑摩書房ちくましょぼういちきゅうななはちねん昭和しょうわさんねんろくがつさんにち)と改稿かいこうされてきた。 初出しょしゅつだい稿こうでは、あきらはじめに「きむ(かね) 志賀しが直哉なおやけいおくる」と志賀しが直哉なおやたいする献辞けんじくわえられていたが、単行本たんこうぼん『かね』に収録しゅうろくされるさい正式せいしきにタイトルが『かね』に変更へんこうされ、献辞けんじはずされた。作中さくちゅうではなんかMやTといった地名ちめい登場とうじょうしているが、稿こうからさん稿こうにかけてほぼ改稿かいこう完了かんりょうしている。

いち稿こうから稿こうにかけては、 O大阪おおさか S=下関しものせき N=名古屋なごや T= 東京とうきょう N=新潟にいがた M=三朝みささ Y=米子よなご

とされ、稿こうからさん稿こうにかけてでは T=善通寺ぜんつうじ F=釜山ぷさん K=きょうじょう D=大連たいれん H=ほしうら A=芦屋あしや M=みなみ満州まんしゅう

とされている。また、改稿かいこうがなかった地名ちめいとしては以下いかげられる。 きち誕生たんじょうM(M銀行ぎんこう、M支店してん、M銀座ぎんざ)・Fはしどおり・Tの大福餅だいふくもち・G・Aかわ・Hえき・Y・K・Sやま・Kけんぐんむら・S展覧てんらん会場かいじょう

けいよん改稿かいこうともない、地名ちめいかされていく。きち場所ばしょ転々てんてんとするにつれて自身じしん名前なまえをもえていく。これらのことから、仮想かそうせいうすれていき、現実げんじつ世界せかいへと回復かいふくしていくことで仮想かそうせい脱却だっきゃくたしている。[1]

あらすじ[編集へんしゅう]

奉公ほうこうさき転々てんてんとしていた他吉たきち大阪おおさか下駄げたとどぶつをなくしてしまうという失態しったいおかし、そこからとどぶつぬすんだといううたがいまでかけられてしまい自殺じさつ未遂みすいをしてしまう。そのべつみせへと奉公ほうこうをしているとちち卒中そっちゅうたおれたというらせがとどく。地元じもとであるMにかえり、世話せわをしながら銀行ぎんこう小間使こまづかいの仕事しごとをしてらすこととなる。かれちちの「ひとが驚愕きょうがくするようなだい仕事しごと仕出しでかしてみろ」という言葉ことばしたがかねぬすんではべつ場所ばしょうつむことをかえすようになる。

登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

谷口たにぐち他吉たきち
ほんさく主人公しゅじんこう吃音きつおんをコンプレックスとして人間にんげんである。あにあねがいたとされるが、かれまれるまえにいずれも死亡しぼうしている。そのため、一旦いったん道端みちばたて、だれかにひろわせ、そのひとからあらためてもらけるかたちをとって名前なまえにも「」のれてそだてられたである。(他吉たきちのこわりに母親ははおやんでいる。)父親ちちおや死後しご銀行ぎんこうからいちまんえんのおかねとどけるように使つかいにされたときをはじめとし、奉公ほうこうさき転々てんてんとしながら、奉公ほうこうしたさきにて、偽名ぎめい名乗なのきんぬすむという行動こうどうかえしていく。享年きょうねんろくじゅうろくさい
いろしょうしろい、病身びょうしんらしいちゅう番頭ばんがしら名前なまえ不明ふめい
夜尿症やにょうしょうのためそそうをしたことできちしかるが、しかかたやさしく、かばってくれた人物じんぶつ
おかみさん(大阪おおさか下駄げた
まゆし、ふる内裏雛だいりびなのやうな顔立かおだちでいろ光澤こうたくの、めったにみせものとはくちくこともないような物静ものしずかな人物じんぶつきち中座ちゅうざ楽屋がくやかせ、素人しろうと義太夫ぎだゆう紋下もんしたかく旦那だんなに「これを手渡てわたしてい」と袱紗ふくさつつみひとたくした。きち袱紗ふくさつつみをなくしたことについては「こんなじん使つかいにやつわたしがわるいのです。でも、生憎あいにくみせいそがしくつて、わけのわかるひとかせるのも、とおもったものですから。すみませんが、今度こんどだけは、どうかわたしにめんじて勘辯かんべんしてやってください」と発言はつげんしていたが、きちねこいらずを自殺じさつ未遂みすいおこなうとわないくらいに気味悪きみわるがった。
工藤くどう
平三郎へいざぶろうのために看護かんご当時とうじかたによる)をんだり、出勤しゅっきん時間じかん小一時間こいちじかんまえ見舞みまってくれた人物じんぶつ平三郎へいざぶろう信頼しんらいあつく、きち遺産いさんとしてかねのこさい預金よきんちょうあづけられている。
谷口たにぐち平三郎へいさぶろう
きち父親ちちおや。もとは菊池きくち同村どうそんまれで、菊池きくちとみ百姓ずのみびゃくしょうだった生家せいかをとびして、もろしょ流浪るろうし、大阪おおさか堂島どうじま仲買なかがいてん小僧こぞうんでろくななねんほどらしていたが、情婦じょうふ他吉たきち母親ははおや)ができ、無理むりかねつくろうとして、行方ゆくえをくらました。そのは、銀行ぎんこう小使こづかいとしてらす。きちに「これ、と見込みこみがついた場合ばあい資本しほんにして、ひとつ、ひとが吃驚びっくりするやうなだい仕事しごと仕出しでかしてみろ」とななせんひゃくよんじゅうえんさんじゅうぜにかねのこしてぬ。
菊池きくち
平三郎へいざぶろう同村どうそんまれ。いち大阪おおさかちゅう花柳かりゅうかいのどこへっても、したへもかぬあつかいをされていたが、平三郎へいざぶろうんだときには葬式そうしきけつける旅費りょひ算段さんだんにしなければならない身分みぶんとなっていた。そのため、きちにはちち平三郎へいざぶろう見習みならうようにとつたえる。
緒方おがた
平三郎へいざぶろう死後しごきち共同きょうどう生活せいかつおくることになる小使こづかいよんじゅうさいほどである。
植田うえだ主人しゅじん
じいやとぶべきとき山本やまもと筆者ひっしゃちゅうきち偽名ぎめいである)、――おまえげんふべきときに、きみと、まるで友達ともだちのやうなしたしみをしめしてくれた。」とかたられる存在そんざいきち死後しごかたる「のこ聞」(作中さくちゅうにある後日ごじつだんのような箇所かしょ)でも登場とうじょうする。
美恵子みえこ
人見知ひとみしりのつよいはにかみである植田うえだむすめきちにとって友人ゆうじんのような存在そんざいとなった。「のこ聞」でも登場とうじょうする。
小西こにしりょうさだ 
米子よなごにある日蓮宗にちれんしゅうてら住職じゅうしょく片手間かたてま油絵あぶらえをやっている。きちてらさそい、面倒めんどうた。きち死後しごかれあつめていたかね遺失いしつぶつ拾得しゅうとくしゃとしてることとなる。「のこ聞」でも登場とうじょうする。
千代ちよ
てら近所きんじょ駄菓子だがし植田うえだ美恵子みえこている。きち彼女かのじょ自身じしんいままであつめてきたきむ正確せいかくにはそれをれてある手文庫てぶんこ)をわたそうとするがってもらえない。

[2]  

モデル人物じんぶつ[編集へんしゅう]

谷口たにぐち他吉たきち里見さとみ弴全しゅう だいななかん』の「あとがき」において、「永年えいねん有島ありしま生馬いくまで、忠僕ちゅうぼくうわさされながらつとめてゐたじいやが、銀行ぎんこうあづれの、さうたいしたがくでもないかねつてたまゝ永遠えいえん消息しょうそくつてしまつた。」とあり、作者さくしゃみずから「空想くうそう」としながらも実在じつざいしたじいやがモデルになっている。 また、きち出生しゅっしょうのMは松山まつやまだとされている。 [3]

小西こにしりょうさだ かきであり米子よなご日蓮宗にちれんしゅうてらそうである小西こにしりょうさだのモデルは、米子よなご岩倉いわくらまち凉善てらそうであった遠藤えんどうりょうけいだとべている。さらに植田うえだのモデルはないとしている。 [4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 瀧田たきたひろし里見さとみ弴「かね」ろん貨幣かへい蒐集しゅうしゅう欲望よくぼう-」(『二松学舎大学にしょうがくしゃだいがく論集ろんしゅうだい50ごう2007ねん平成へいせい19〕ねん3がつ)
  2. ^ 里見さとみ里見さとみ弴全しゅう だいななかん
  3. ^ 里見さとみ里見さとみ弴全しゅう だいななかん筑摩書房ちくましょぼう、1978ねん、「あとがき」より
  4. ^ 里見さとみくちびるさむしー文学ぶんがくげいについて 里見さとみ対談たいだんしゅうかまくら春秋しゅんじゅうしゃ、1983ねん、「弴さん作品さくひんかたる」より