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きよめ

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きよめ伎欲まいきよしきよししんなど)は、汚穢おあい不浄ふじょうもの清掃せいそう従事じゅうじした特定とくてい身分みぶん人々ひとびと呼称こしょうとして使つかわれだしたのは、京都きょうとからで、おそくとも平安へいあん時代じだい末期まっきからである。「きよめる」ことそれ自体じたいは、元来がんらい「きよめ」の理念りねんきわめておもんじられていたのに対応たいおうして重視じゅうしされ、それにたずさわるひと卑賎ひせんこうむるものではなかった。しかし、宮廷きゅうていでの野犬やけん掃討そうとう任務にんむである「いぬり」が次第しだい下層かそう身分みぶんかんじん職務しょくむへとうつり、最終さいしゅうてきには都市とし賎民せんみん専業せんぎょうとなりきったのと同様どうように、身分みぶんてき極度きょくど卑賎ひせんこうむった人々ひとびと専業せんぎょうしていく。[1]

「きよめ」の概念がいねん[編集へんしゅう]

横井よこいきよしによれば「きよめ」という理念りねん元々もともと汚穢おあい不浄ふじょうとされる対象たいしょうけが)を排除はいじょして清浄せいじょう状態じょうたい境地きょうち回復かいふくすること言葉ことばとして奈良なら時代じだい以前いぜんからもちいられていたという。たとえば葬式そうしき会葬かいそうしゃくばられるしお土俵どひょううえ力士りきししお料理りょうりてんくちしおなど、「きよししお」「もりしお」などを「きよめ」と略称りゃくしょうする風習ふうしゅうもそれであるといい。古来こらいの「きよしはらい(きよはらえ・きよめはらう)」の行事ぎょうじ無論むろん高貴こうきいえ台所だいどころを「しんしょ(おきよどころ)」、そこにはたらいた上役うわやく女性じょせいを「きよし(おきよ)」といい、それがてんじて女中じょちゅう下女げじょを「おきよし」といいならわすようになったという。さら日本人にっぽんじんに「きよ」のかたりはいれいおおいことなども、すべてこの「きよめ」の理念りねん淵源えんげんはっするものであるという。[1]

「きよめ」身分みぶん登場とうじょう[編集へんしゅう]

1016ねんの『ひだりけい』によれば、検非違使けびいし御所ごしょちかくに死体したいがあると天皇てんのうをそのけがからまもるために、河原かわはらじん処理しょりさせていたとある。[2]

特定とくてい賎民せんみんして「きよめ」とんだ最初さいしょれい鎌倉かまくら時代じだい前期ぜんき12391240ねんころ成立せいりつかとも推定すいていされている藤原ふじわら信実しんじつへんこん物語ものがたり』におさまるいち説話せつわで、それによると、蔵人くろうど京都きょうといちじょうにあった革堂こうどう(こうどう)に参詣さんけいしたとき美女びじょい、をつけていくとそのおんなは「一条いちじょう河原かわはら」(鴨川かもがわいちじょう河原かわはら)の「きよめがいえ(きよめのいえ)」にはいったという。ここにいう「きよめ」を彼是あれこれどう時代じだい史料しりょう資料しりょうあわかんがえると「河原かわはら」にんでいた「けがれおお」と推察すいさつされ、鎌倉かまくらまつ国語こくご辞書じしょちりぶくろ』には「キヨメヲエタトうんフ」とあること一致いっちする。[1]

とく中世ちゅうせい後期こうきには「きよめ」のかたり賎民せんみん一部いちぶ呼称こしょうとして世間せけん一般いっぱん通用つうようするようになり、近世きんせい初頭しょとう近畿きんき地方ちほう一部いちぶでは太閤たいこう検地けんち段階だんかいところともに「かわたかわふとしかわ)」の呼称こしょう変化へんかした[3][1]

きよめの仕事しごとである死体したい処理しょりとかわたの役務えきむであった皮革ひかくぎょう関連付かんれんづけること容易よういである。

実例じつれい[編集へんしゅう]

現在げんざい神戸こうべなだほとんどにあたるうさぎはらぐん都賀つがそう篠原しのはらむらみなみげん都賀つが地区ちくには「きよめ」とばれる賎民せんみん一定いってい集落しゅうらく形成けいせいしていたということ落合おちあい重信しげのぶ紹介しょうかいあきらかになった。かれらの記録きろく中世ちゅうせい賎民せんみん部落ぶらくがそのまま近世きんせいかわおお部落ぶらくとなっためずらしいれいである。[4]

成立せいりつについては「むら春日しゅんじつ神社じんじゃは、篠原しのはらむら豪族ごうぞく若林わかばやし中世ちゅうせい奈良ならから分霊ぶんれいしてきたもので、都賀つが部落ぶらくみんはそのときいっしょに奈良ならかられてこられたものであるといいつたえられる[5]

史料しりょうえる最古さいこのものは、ぶんやす4ねん1447ねん)の「なつむぎ山手やまて注文ちゅうもん[6]という入会にゅうかい用益ようえきたいする負担ふたんあかした書類しょるいで、そこからきよめむら奥山おくやましゅはるおさめぶん250ぶん口山くちやま手分てわけ50ぶんくちけい300ぶんおさめており[4]むらけをらないおおきな権利けんりであった。

文明ぶんめい2ねん1470ねん)9がつの「都賀つがそう公文名くもみょうちょう」では小村こむら肩書かたがきされた9めいさくじんがみられる。[4]小村こむら」とは荘園しょうえんたい雑役ざつえきになった差別さべつ部落ぶらく名前なまえであることおおく、またそれを支配しはいするしゅさとを「中村なかむら」とことおお[5]

天正てんしょう19ねん1591ねん)の「若林わかばやしひさ大夫たいふぶん山手やまて指出さしでこと」では「ひゃくじゅうぶん おっときゅう也 きよめ」という記載きさいがあり、若林わかばやしひさ大夫たいふ都賀つがそう有力ゆうりょくそうかんでありさきべた豪族ごうぞく家系かけいである。天文てんもん年間ねんかんにきよめむら入会にゅうかいけん若林わかばやし持山もちやま入会にゅうかいわり、その負担ふたんはかつての半分はんぶんっており、きよめは若林わかばやしたいして夫役ぶやくことによって山手やまてぜに免除めんじょされていた。なおこの文章ぶんしょうではむらには「むら」をけてんでいるのにたいしきよめだけはたんに「きよめ」とある。[4]

また天正てんしょう19ねんけの「摂津せっついちこくだかあらためちょう」(元和がんわ3ねん)ではかわ田村たむらとなっている。[5]

明治維新めいじいしんころ各地かくちのかわたむら改名かいめいされるなか新生しんせいむら」とあらた[7]、その都賀つがむら」となり、明治めいじ22ねんには六甲ろっこうむら一部いちぶとなった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 横井よこいきよし. "きよめ". 部落ぶらく用語ようご辞典じてん. pp. 88–89.
  2. ^ 上杉うえすぎさとし. “部落ぶらく起源きげん天皇てんのうせい”. だい36かい部落ぶらく解放かいほう研究けんきゅう京都きょうと集会しゅうかい. 2009ねん8がつ3にち閲覧えつらん
  3. ^ 久我くが文書ぶんしょ
  4. ^ a b c d 臼井うすい寿光としみつ 1980
  5. ^ a b c 部落ぶらく起源きげん
  6. ^ きゅう天城あまぎ文書ぶんしょ」(吉井よしいりょうしょう所蔵しょぞう
  7. ^ 臼井うすい寿光としみつ 1991

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 臼井うすい 寿光としみつ へん兵庫ひょうご部落ぶらくだい1かん近世きんせい部落ぶらく成立せいりつ展開てんかい (のじぎく文庫ぶんこ)』神戸こうべ新聞しんぶん総合そうごう出版しゅっぱんセンター、1980ねんISBN 4-87521-697-1 
  • 臼井うすい 寿光としみつ へん兵庫ひょうご部落ぶらくだい3かん幕末ばくまつ維新いしん賎民せんみんせい (のじぎく文庫ぶんこ)』神戸こうべ新聞しんぶん総合そうごう出版しゅっぱんセンター、1991ねんISBN 978-4875214663 
  • 小林こばやし しげる三浦みうら 圭一けいいち脇田わきた おさむ芳賀はが のぼるもり すぎおっと へん部落ぶらく用語ようご辞典じてん柏書房かしわしょぼう、1990ねんISBN 978-4760105670 
  • 落合おちあい重信しげのぶ部落ぶらく起源きげん兵庫ひょうご部落ぶらく問題もんだい研究所けんきゅうじょ、1981ねんISBN 4-89202-006-0