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アトロパテス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

アトロパテス古代こだいペルシア:Âtarepâta(アータレパータ)まれ:Aτたうρろーoπάτης, ラテン文字もじ転記てんき:Atropates, 在位ざいい紀元前きげんぜん4世紀せいき後半こうはん)は、アケメネスあさペルシアのメディア総督そうとくサトラップ)である。アトロパテスの支配しはいした領域りょういきかれにちなんでアトロパテネばれた。

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

アトロパテスの出自しゅつじについてはほとんなにられていない。メディア地方ちほう有力ゆうりょくしゃであったとかんがえられ、ゾロアスター教徒きょうとであった。アレクサンドロス大王だいおう遠征えんせいはじまると、かれダレイオス3せいによって召集しょうしゅうされ、ガウガメラのたたか紀元前きげんぜん331ねん)に参加さんかしたが、このたたかいはアケメネスあさ敗北はいぼくわり、アトロパテスはメディアへとかえった。当初とうしょアレクサンドロスへのさらなる抵抗ていこう企図きとしたが、もなくダレイオス3せい部下ぶかであったベッソス暗殺あんさつされてアレクサンドロスの勝利しょうり確定かくていてきなものとなるとアトロパテスは降伏ごうぶくした。

アレクサンドロスはギリシアじんペルシアじんとの対立たいりつけるために東西とうざい融合ゆうごうさくっており、またペルシアの有力ゆうりょくしゃたち反発はんぱつおさえるねらいもおそらくあり、アトロパテスはつづきメディア総督そうとくとして留任りゅうにんされた。またスサおこなわれたギリシアじんとペルシアじん集団しゅうだん結婚式けっこんしきにはアトロパテスのむすめ参加さんかしており、彼女かのじょはアレクサンドロスの部下ぶか1人ひとりペルディッカス結婚けっこんしている。大王だいおう死後しごひらかれたバビロン会議かいぎにてメディアの南北なんぼく分割ぶんかつおこなわれ、アトロパテスの支配しはい領域りょういき北部ほくぶのみとされたが、かれはこれをれた。以後いごかれ支配しはいした北部ほくぶがアトロパテネ(しばしばメディア・アトロパテネ)のばれるようになる。

これ以降いこう、アトロパテスがどのように振舞ふるまったのかはわかっておらず、かれ後継こうけいしゃたちとの血縁けつえん関係かんけい不明ふめいである。だが、たしかにいえることはアトロパテネという政治せいじてき一体いったいせいった領域りょういきはそのアルサケスあさパルティア時代じだいまで存続そんぞくしていたことである。