アメリカ独立どくりつ戦争せんそうにおける女性じょせいたち

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アメリカ独立どくりつ戦争せんそうにおける女性じょせいたち(アメリカどくりつせんそうにおけるじょせいたち、えい:Women in the American Revolution)では、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうなかとその前後ぜんごで、様々さまざま立場たちばかれた女性じょせいたちがどのように行動こうどうし、またその立場たちばがどうわっていったかについてべる。

独立どくりつ戦争せんそうころ政治せいじ戦争せんそう参加さんかするのは男性だんせいかぎられていた。しかし、女性じょせいがいなければ政治せいじ戦争せんそううごかなかったことも事実じじつである。積極せっきょくてき戦争せんそう遂行すいこう協力きょうりょくした女性じょせいなかには歴史れきしめたものもいる。8年間ねんかんにもおよ戦争せんそうとその前後ぜんご激動げきどう時代じだいくためにはおおくの試練しれんえ、また生活せいかつ様式ようしきえていくことを女性じょせいたち強要きょうようした。新生しんせいしたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくなかで、女性じょせい姿すがたがすこしずつ社会しゃかいひょうあらわはじめた時代じだいともかんがえられる。

アングロサクソンけいのアメリカじん愛国あいこくしゃ女性じょせい[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそうは、たたかうのは自分じぶんたちだとかんがえていたおとこたちによって遂行すいこうされたものと認識にんしきされている。しかし、この戦争せんそうひろつたえられた主義しゅぎ信条しんじょうがなければつづけられなかったのと同様どうように、アメリカ植民しょくみん地中ちちゅう男性だんせい女性じょせい両方りょうほう住人じゅうにんによって物質ぶっしつてきささえられなければ遂行すいこうできなかった。おおやけ政治せいじ場面ばめんには女性じょせい登場とうじょうしないが、女性じょせい戦争せんそう直面ちょくめんし、戦争せんそう政治せいじ公衆こうしゅう家庭かていない生活せいかつのあらゆるめん浸透しんとうしてくるにれて、通常つうじょう家庭かていいが政治せいじてき重要じゅうよう意味合いみあいをつようになった。

女性じょせい自発じはつてき愛国あいこくしゃであったかどうかという質問しつもん戦争せんそうげかけるが、政治せいじてき同一どういつせい維持いじしつつ、植民しょくみん女性じょせいたち態度たいどあらわしてみせた。伝統でんとうてき女性じょせい職業しょくぎょうによる支援しえんがこのことをよくあらわした。戦場せんじょうこったことはすで家庭かていでも、国内こくない経済けいざいでも、またおっと父親ちちおや実業じつぎょう世界せかいれられていたことだった。女性じょせいたちイギリス製品せいひんのボイコットに参加さんかし、兵士へいしのための物資ぶっし生産せいさんし、イギリスぐん情報じょうほう収集しゅうしゅう活動かつどうをやり、軍隊ぐんたい行動こうどうともにして兵士へいしたちのために洗濯せんたく料理りょうりおこない、極秘ごくひ伝令でんれいとなり、ときには男性だんせいふんして戦場せんじょうたたかった。

国内こくない支援しえん[編集へんしゅう]

独立どくりつ戦争せんそう当時とうじ女性じょせい家庭かていない諸事しょじりする責任せきにんがあった。このことに関連かんれんして女性じょせいはホームスパン運動うんどうはたらいた(ホームスパンは手織ておりのぬの)。輸入ゆにゅうされたイギリスせい衣服いふくたり購入こうにゅうするわりに、愛国あいこくしゃ女性じょせいたちなが伝統でんとうのある機織はたおりや紡績ぼうせきをやって自分じぶんたち衣類いるい家族かぞく衣類いるいつくえた。独立どくりつ戦争せんそうまえすう年間ねんかんにおける事態じたい推移すいいにより、この行動こうどう政治せいじてき意味合いみあいをあたえられた。いとつむられた「アメリカせいの」衣類いるい反抗はんこうなかいち機構きこうとなり、消費しょうひについてもおなじような行動こうどうとなった。1769ねん、クリストファー・ギャスデンは植民しょくみん女性じょせいたち直接ちょくせつびかけた「この危機ききおよんで我々われわれ政治せいじうごいていくかは、緊縮きんしゅく財政ざいせいかかっており、それをなすためには女性じょせいたちおもとなって礼節れいせつとともにりしていくかにかっている。(サウスカロライナの農園のうえんぬし機械きかいこう不動産ふどうさん自由じゆう保有ほゆうけんしゃに。イギリス製品せいひん輸入ゆにゅうざせ。1769ねん6月22にち)。イギリスせい織物おりもののボイコットにくわえてホームスパン運動うんどう大陸たいりくぐん必要ひつようとする衣類いるい毛布もうふ生産せいさんすることで貢献こうけんした。男性だんせい製造せいぞう業者ぎょうしゃはそのような製品せいひん交換こうかん徴兵ちょうへいまぬかれていたが、おなじことをやる女性じょせいにはそのような代償だいしょうかった。紡績ぼうせき機織はたおり、縫製ほうせい植民しょくみん女性じょせいたち一部いちぶ仕事しごとになった。愛国あいこくしゃとしてその技能ぎのう使つか独立どくりつ戦争せんそう荷担かたんしたことになった。

国内こくない経済けいざい沈滞ちんたいするなかで、主婦しゅふはその購買こうばいりょく使つかって愛国あいこくしゃがわ製造せいぞうしゃ支援しえんした。女性じょせいはイギリス製品せいひん家庭かていよう購入こうにゅうすることを拒絶きょぜつした。たとえば紅茶こうちゃのボイコットは自分じぶんやその家庭かてい愛国あいこくしゃ立場たちばっていることを表明ひょうめいする比較的ひかくてきやさしい方法ほうほうであった。1773ねんボストン茶会ちゃかい事件じけんはボイコットのあらわれとしてもっとひろ認識にんしきされているが、この爆発ばくはつてき行動こうどうなんねんまえ愛国あいこくしゃ女性じょせいたち政治せいじてき声明せいめいとしてまさにそのイギリス製品せいひん消費しょうひこばんでいたことは重要じゅうようである。同様どうようなボイコットは様々さまざまなイギリス製品せいひんひろがり、女性じょせいたち購入こうにゅうするわりにアメリカ製品せいひんつくみちえらんだ。この「消費しょうひボイコット」が国家こっかてき政策せいさくによっていた(つくったのは男性だんせい)としても、女性じょせいはその支配しはいする家庭かていなか実行じっこううつしたのである。

女性じょせいたち経済けいざい活動かつどうにも積極せっきょくてきかかわった。1778ねん一団いちだん女性じょせいが、コーヒーを貯蔵ちょぞうしているという商人しょうにんうわさせっしてその倉庫そうこんだ。女性じょせいたち倉庫そうこ開放かいほうし、コーヒーをして「没収ぼっしゅう」した。

独立どくりつ戦争せんそうちゅう、アメリカ製品せいひんうことは愛国あいこくしゃであるという姿勢しせいせることであった。くわえて倹約けんやく独立どくりつ戦争せんそうまえ賞賛しょうさんされる女性じょせい美徳びとく)は政治せいじ声明せいめいとなり、家事かじりで戦時せんじ体制たいせい貢献こうけんするようもとめられた。しかし、戦時せんじ体制たいせい維持いじするための女性じょせいたちたいする要求ようきゅう家庭かていない経済けいざいによる貢献こうけんえるものになった。女性じょせいたちはその家屋かおくそのものを公衆こうしゅうえきのためにすことをもとめられ、共和きょうわせいかたちるにつれて大陸たいりくぐん兵士へいし役人やくにん宿舎しゅくしゃにも提供ていきょうされた。

女性じょせいたちフィラデルフィア婦人ふじん協会きょうかいのような組織そしきつうじても愛国あいこくしゃがわ貢献こうけんした。この組織そしき戦時せんじ体制たいせい貢献こうけんする女性じょせい能力のうりょく組織そしきとして活用かつようしたものである。フィラデルフィアの女性じょせいたち資金しきんあつめて戦費せんぴたすけとした。これはマーサ・ワシントンって、そのおっとジョージ・ワシントン将軍しょうぐんわたされた。植民しょくみんでもこのれいならい、エスター・デバート・リード(ペンシルベニア知事ちじつま)やサラ・フランクリン・バッチ(ベンジャミン・フランクリンむすめ)が起案きあんしゃとなった。1780ねん戦争せんそうなかばのころ植民しょくみんからがった女性じょせい組織そしきによってあつめられた資金しきんは34まんドル以上いじょうにもなった。

愛国あいこくしゃ女性じょせい前線ぜんせん[編集へんしゅう]

おおくの愛国あいこくしゃ女性じょせい自分じぶんいえ植民しょくみんぐんささえる活動かつどうおこなったが、戦争せんそう最前線さいぜんせんにいてきびしい現実げんじつ直面ちょくめんした女性じょせいもいた。戦闘せんとう家産かさんちかづくにつれて、それをまもろうと奮闘ふんとうする女性じょせいたち暴力ぼうりょく脅威きょうい直面ちょくめんすることになった。てき軍隊ぐんたいによる陵辱りょうじょくつね可能かのうせいがあり、一人ひとりいえまも女性じょせいには恐怖きょうふ根源こんげんであった。イギリスぐん略奪りゃくだつしゃからまもるために武器ぶき度胸どきょうそなえなければならない女性じょせいもいた。

まわりに男性だんせいがいないいえまることをこば女性じょせいがいれば、おっと留守るすちゅう経済けいざいてきにやっていけない女性じょせいもいた。このような女性じょせいたち大陸たいりくぐんいていき、将兵しょうへいたち洗濯せんたくおんな料理人りょうりにん看護かんご裁縫さいほうせい相手あいて清掃せいそうじんなどをこなし、ときには兵士へいしあるいはスパイとなった。軍隊ぐんたいについていく女性じょせいたちは、指揮しきかんたちによって「必要ひつよう厄介やっかいしゃ」とか「お荷物にもつ」とばれた。それでもこれらの女性じょせいたちぐん宿営しゅくえい運営うんえい円滑えんかつにする役割やくわりたした。売春ばいしゅんもいたが、性病せいびょう蔓延まんえんおそれたぐん指導しどうしゃにとっては迷惑めいわく存在そんざいであった。

上級じょうきゅう士官しかんつまたとえばマーサ・ワシントン)がしばしば宿営しゅくえいおとずれた。宿営しゅくえいにいる貧乏びんぼう女性じょせいたちとはことなり、これら富裕ふゆうそう女性じょせい宿営しゅくえいおとずれることの価値かち実用じつようというよりも象徴しょうちょうてきなことであった。彼女かのじょたちがいるだけで、すべてのものが戦争せんそうになんらかの犠牲ぎせいささげているという宣言せんげんになった。

大陸たいりくぐんについていく女性じょせいたちかず資料しりょうによってことなり、2まんにんというものもあり、すくなく見積みつもっても宿営しゅくえい全体ぜんたいの3%はいたということである。女性じょせいたち様々さまざま理由りゆう軍隊ぐんたいくわわった。えや陵辱りょうじょくおそれ、さびしさ、切迫せっぱくした貧乏びんぼう最後さいごたのみのつなおっといてきた、などであった。宿営しゅくえい女性じょせいたち兵士へいしおな指揮しきかんしたがったが、あれこれとうことはゆるされなかった。はげしい戦闘せんとうおこなわれた地域ちいきてき占領せんりょうされた地域ちいきでは、安全あんぜん地域ちいきよりも女性じょせいかずおおかった。これは戦闘せんとうおこなわれた地域ちいきでは大陸たいりくぐん保護ほごもとめる女性じょせいおおかったことによる。

戦争せんそうたたかった女性じょせいたちは、その女性じょせい動機どうき行動こうどうによって賞賛しょうさん侮蔑ぶべつあいだうご二律背反にりつはいはん感情かんじょうむかえられた。おとこしたがって献身けんしんてきくした女性じょせい賞賛しょうさんされ、徴兵ちょうへい報奨ほうしょうきんしさにはいってきたような女性じょせいおとこたち侮蔑ぶべつをかった(前者ぜんしゃれいはアンナ・マリア・レーン、マーガレット・コルビンなど、後者こうしゃれいはアン・ベイリー(偽名ぎめいサミュエル・ゲイ)である。ベイリーは除隊じょたいされ、罰金ばっきんされ、2週間しゅうかん刑務所けいむしょれられた。またアン・スミスは報奨ほうしょうきんのために軍隊ぐんたいにゅうろうとしたことで非難ひなんされた)。

デボラ・サンプソン、ハンナ・スネル、サリー・セントクレアは巧妙こうみょうにその性別せいべつかくした(セントクレアの場合ばあいぬまで)。サンプソンはつかったが名誉めいよ除隊じょたいげ、古参こさんへい年金ねんきんすうねんもらえた。

軍隊ぐんたい機密きみつ情報じょうほうふく伝言でんごん手紙てがみをペチコートのしたかくしててき占領せんりょうをすりとどけた女性じょせいもいた。デボラ・チャンピオン、ハリエット・プルーデンス・パターソン・ホールおよびリディア・ダラーがこれにあたる。

政治せいじてき活動かつどう[編集へんしゅう]

アビゲイル・アダムズ

建国けんこくちちたちによって信奉しんぽうされた自由じゆう平等びょうどうそして独立どくりつという理念りねんは、女性じょせいたち生活せいかつとく改善かいぜんするものではなかった。女性じょせいたち家庭かていとそのまわりの領域りょういきぞくするものとされ、政治せいじ経済けいざい領域りょういきでは歓迎かんげいされなかった。ホィッグの政治せいじ理論りろんかんがえでは、男性だんせい独立どくりつ土地とち所有しょゆうもとづく)が投票とうひょうけんとなったが、女性じょせい場合ばあいおっと息子むすこあるいは父親ちちおや依存いぞんしていたために政治せいじ経済けいざい領域りょういきではひとちしてうことはできなかった。理想りそうてきなホィッグの女性じょせい自分じぶん領域りょういきから愛国あいこくしゃたちたすけ、家庭かていない雑用ざつようをこなし、独立どくりつのためにたたか男性だんせい価値かちかんしたがって次世代じせだい教育きょういくする準備じゅんびをした。

だい部分ぶぶん女性じょせい政治せいじてきなものを手紙てがみ日記にっき範囲はんいめたがアビゲイル・アダムズ(ジョン・アダムズつま)やマーシー・オーティス・ウォーレンのような女性じょせい公衆こうしゅう面前めんぜん政治せいじ世界せかいはいっていった。

しかし独立どくりつ戦争せんそうは、様々さまざま女性じょせい活動かつどう社会しゃかい変革へんかく家庭かていない美徳びとくつうじた共和きょうわこく改良かいりょうかってうごした。これらの組織そしき当初とうしょまれなものであったが、愛国あいこくしゃ女性じょせいたち共和きょうわせいはは役目やくめたすようになった(子供こどもたち共和きょうわせい価値かち理想りそうんで市民しみんとなる準備じゅんびをさせた)。子供こどもたち成長せいちょうするにつれて、アメリカの母親ははおやたち独立どくりつした共和きょうわせいあたらしい理想りそう子供こどもたちおしむことをまかされるようになり、その結果けっかあたらしいアメリカてき共和きょうわせい発展はってんつづけることになった。

アングロサクソンけいのアメリカじんおう党派とうは女性じょせい[編集へんしゅう]

イギリス王室おうしつたいする政治せいじてき忠誠ちゅうせいしん危機ききは、植民しょくみんアメリカの女性じょせい社会しゃかい構造こうぞう崩壊ほうかいさせた。男性だんせい国王こくおうたいする連帯れんたい表明ひょうめいしようとしていまいと、階級かいきゅう家庭かてい友情ゆうじょうきずなかれ、以前いぜんむすびつきから女性じょせい孤立こりつさせた。女性じょせいおっとたいする忠誠ちゅうせいしんはかっては私的してきなことであったが、イギリスにたいする忠誠ちゅうせい表明ひょうめいしたおっとたいする場合ばあいとく政治せいじてき行動こうどうわった。これらおう党派とうは女性じょせいたち独立どくりつ戦争せんそうあいだ大変たいへん逆境ぎゃっきょう直面ちょくめんした。女性じょせいたちおっと反逆はんぎゃくしゃという理由りゆう自警じけいだん暴徒ぼうとによって有罪ゆうざいとされ犠牲ぎせいにされた。富裕ふゆうおう党派とうはつまとくに、反逆はんぎゃくしゃかんがえられるおとこ財産ざいさん没収ぼっしゅうしたい革命かくめい政府せいふ格好かっこうのターゲットになった。自分じぶん自身じしん財産ざいさんっている女性じょせい場合ばあいは、没収ぼっしゅう行動こうどう通常つうじょう持参じさんきん部分ぶぶん除外じょがいしていたので、愛国あいこくしゃ圧力あつりょくにもえられた。しかし社会しゃかいてき立場たちばがどうあれ、おう党派とうは女性じょせい政治せいじてき少数しょうすう一部いちぶであり、それゆえに近所きんじょ友人ゆうじん支援しえんくなっていった。

おおくのおう党派とうは女性じょせいたちてきなか生活せいかつするよりもその社会しゃかいはなれるみちえらんだ。一人ひとり女性じょせい突然とつぜん退くとしても、この選択せんたく家財かざい一切いっさいたずにくことを意味いみした。おう党派とうはおおくはカナダ移動いどうした。そこでは沢山たくさんおう党派とうは仲間なかまがいた。古参こさんへい家族かぞく寡婦かふ子供こどもたちノバスコシア殺到さっとうした。おう党派とうはなかには土地とち愛国あいこくしゃ政府せいふ安全あんぜん通行つうこうねがて、家財かざいってイギリスの領土りょうど移動いどうするものもいた。このような場合ばあいでも愛国あいこくしゃ役人やくにん女性じょせいってくものを制限せいげんし、移動いどうのために支払しはら費用ひよう請求せいきゅうした。最悪さいあく事態じたいでは、12さいえる息子むすこ場合ばあい愛国あいこくしゃ軍隊ぐんたいへの従軍じゅうぐんもとめられのこしてくしかなかった。

おう党派とうは女性じょせいにとって抵抗ていこうべつ選択肢せんたくしとなった。1779ねん、3にん女性じょせい、マーガレット・イングリス、スザンナ・ロビンソン、メアリー・モリスはオールバニ市長しちょう子供こども誘拐ゆうかい計画けいかくてた。あたらしい政府せいふたいする忠誠ちゅうせいちかうことを拒否きょひするように友人ゆうじんそそのかものもいた。イギリスおう積極せっきょくてき支持しじする女性じょせいたちおおくはおう党派とうは軍隊ぐんたい支援しえんするために従軍じゅうぐんし、あるいはイギリスぐんのために情報じょうほうあつめた。おっと逮捕たいほからまぬかれるようにかく女性じょせいがいたし、重要じゅうよう書類しょるいかね当局とうきょくられないようかく女性じょせいもいた。これらの行動こうどう女性じょせいたち政治せいじてき活動かつどう自主じしゅせいかんする問題もんだいげかけた。つまりその行動こうどうつまとしての忠誠ちゅうせいなのか、あるいは政治せいじてき独立どくりつした選択せんたくなのかということであった。

役人やくにん反逆はんぎゃくざい定義ていぎする規則きそく使つか言葉ことばえることにより、おう党派とうは女性じょせい自発じはつてき行動こうどう可能かのうせい徐々じょじょみとめていった。はじめに使つかわれていた言葉ことばは「おとこ」であったが、「ひと」にえられ、「かれ」は「かれまたは彼女かのじょ」にえられた。1779ねんのマサチューセッツの反逆はんぎゃくざいかんする規則きそくでは、反逆はんぎゃくしゃ資産しさん没収ぼっしゅうをうたっていたが、伝統でんとうてき定義ていぎしたがって、そのつま私有しゆう財産ざいさんけん保護ほごされていた。不在ふざいおとこかんする規則きそく罰則ばっそくきびしくなり、女性じょせいおっと資産しさんなか自分じぶん財産ざいさんけん保護ほごもとめるならば、自分じぶん自身じしん政治せいじてき関与かんよをしなければならないとした。これらの規則きそくでは、女性じょせいおっとしたがって場合ばあいには、その財産ざいさん没収ぼっしゅう対象たいしょうとするとしていた。このまるつまつまとのあいだ識別しきべつで、マサチューセッツの規則きそく家族かぞく分割ぶんかつつま独立どくりつした政治せいじてき決断けつだんうながした。戦争せんそうわって逃亡とうぼうおう党派とうは寡婦かふ自身じしん財産ざいさんけん主張しゅちょうしたので、結婚けっこんした女性じょせいなにたいして忠実ちゅうじつであるかという問題もんだいしょうじた。

先住民せんじゅうみん女性じょせい愛国あいこくしゃおよびおう党派とうは[編集へんしゅう]

アメリカしゅう先住民せんじゅうみんぞくにとって、独立どくりつ戦争せんそう愛国あいこく主義しゅぎでも独立どくりつでもなかった。ななねん戦争せんそう結果けっかとしておおくの土地とちフランスからイギリスにわたったが、西部せいぶ辺境へんきょう土地とち実際じっさいには先住民せんじゅうみんぞくのものであった。きたアメリカの「開拓かいたくされていない」部分ぶぶんの「所有しょゆうけん」は、闘争とうそうによって決着けっちゃくがつけられるかんがあった。イギリスの西方せいほうたいする利権りけんはヨーロッパではみとめられていたものの、先住民せんじゅうみん蚕食さんしょくする開拓かいたくしゃやイギリスぐんだい部隊ぶたい存在そんざい直面ちょくめんすることになった。アメリカ独立どくりつ戦争せんそうちかくなると、イギリスの戦略せんりゃく海岸かいがんちかニューヨークボストン支配しはいすることになったので、兵士へいしたちおおくがそこに移動いどうし、西部せいぶ辺境へんきょう白人はくじん開拓かいたくしゃ先住民せんじゅうみんとのない紛争ふんそう急増きゅうぞうしていった。これにくわえて1763ねんまでに飢饉ききん伝染でんせんびょう先住民せんじゅうみん社会しゃかいひろひろがる問題もんだいとなった。

アメリカ先住民せんじゅうみんおおくは、ヨーロッパの紛争ふんそうまれてもなんとくにもならないので中立ちゅうりつのぞんでいたが、実際じっさいにはどちらかのがわくことを強制きょうせいされた。独立どくりつ戦争せんそうちゅう愛国あいこくしゃ民兵みんぺいによって先住民せんじゅうみん集落しゅうらくおそわれることがあったが、特定とくてい種族しゅぞくがどちらのがわいているかなどにはおかまいなしのこともあった。白人はくじんにとって先住民せんじゅうみんはすべておなじようにえた。先住民せんじゅうみんだい多数たすうがイギリスがわについた。先住民せんじゅうみんにとって愛国あいこくしゃがわてばそれは西方せいほうへの進出しんしゅつ意味いみし、かれらの土地とち蚕食さんしょくされることを意味いみした。一方いっぽうそこにはんでいないイギリスであればよりましとかんがえていた。

先住民せんじゅうみん女性じょせいにとって戦争せんそうもっと基本きほんてき影響えいきょうは、いえ家庭かてい農耕のうこう生活せいかつ破壊はかいであった。一般いっぱん先住民せんじゅうみん女性じょせい農耕のうこうたいする責任せきにんがあり、戦争せんそうによる収穫しゅうかくぶつ家産かさん破壊はかいとくおおきな打撃だげきであった。女性じょせいたち同族どうぞくつながりをたも裁定さいていするものであり、家庭かていない領域りょういきではおおきな支配しはいりょくがあった。戦時せんじには白人はくじん開拓かいたくしゃやヨーローッパの交易こうえき業者ぎょうしゃ先住民せんじゅうみんとの交易こうえきむずかしくなった。とりわけことなる種族しゅぞくあいだ交易こうえき打撃だげきであった。女性じょせいたちはその社会しゃかいでの交易こうえきしゃでもあったので生活せいかつ維持いじしてうえでの困難こんなんさがしていった。

白人はくじんとの接触せっしょくは、戦争せんそうから変化へんかとアメリカの戦後せんご政策せいさく結果けっかとして伝統でんとうてき家庭かていない領域りょういきにあった女性じょせい地位ちい変化へんかさせたと主張しゅちょうする歴史れきしもいる。独立どくりつ戦争せんそうのち指導しどう要綱ようこう先住民せんじゅうみんの「文明ぶんめい」であり、ほとんどすべての先住民せんじゅうみん社会しゃかい女性じょせいによる農耕のうこうおこなっていたという事実じじつにもかかわらず、狩猟しゅりょう社会しゃかいから農耕のうこう社会しゃかいへの転換てんかん主唱しゅしょうされた。しかし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政策せいさく立案りつあんしゃ女性じょせいおも農耕のうこう従事じゅうじしゃであるならば、先住民せんじゅうみん社会しゃかいにおいて農耕のうこう主要しゅよう部分ぶぶんとはなっていないとしんじていた。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふ先住民せんじゅうみん女性じょせいたち紡績ぼうせき機織はたおりをおこなわせ、おとこたち農耕のうこうおこなわせるよう奨励しょうれいした。せい役割やくわりえることは先住民せんじゅうみん文化ぶんか悪影響あくえいきょうあたえるおおきな社会しゃかい問題もんだいとなった。

イロコイぞく女性じょせいたち[編集へんしゅう]

イロコイぞく女性じょせい

独立どくりつ戦争せんそうイロコイぞくにとってはとくおおきな問題もんだいとなった。イロコイ連邦れんぽうしょ種族しゅぞく当初とうしょアメリカ独立どくりつ戦争せんそうたい中立ちゅうりつであろうとつとめた。イロコイぞくおおくの先住民せんじゅうみんおなじく、紛争ふんそうにはなん利点りてんいだしていなかった。むしろさきななねん戦争せんそう参加さんかしたことによって、逆境ぎゃっきょうおちいってもいた。しかし、ウィリアム・ジョンソンきょう説得せっとくによって、いくつかの種族しゅぞくがイギリスがわ荷担かたんすることになった。

この同盟どうめい結果けっか大陸たいりくぐんジョン・サリバン将軍しょうぐん遠征えんせいたいによって、今日きょうのニューヨークしゅう北部ほくぶやく40のむらかれ完全かんぜん破壊はかいされ、おおくのイロコイぞく住人じゅうにん追放ついほうされた。この結果けっか先住民せんじゅうみん女性じょせいたちそだてていたすうひゃくエーカーの土地とち作物さくもつ果樹かじゅうしなわれ、そのつづ飢餓きがおおくのイロコイぞくころされた。

チェロキーぞく女性じょせいたち[編集へんしゅう]

ななねん戦争せんそうでは、チェロキーぞくはイギリスぐんとともにフランスとたたかい、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうでは大陸たいりくぐんたいしてたたかうことにめた。これは土地とちえた愛国あいこくしゃ開拓かいたくみん蚕食さんしょくふせぐためという理由りゆうおおきかった。独立どくりつ戦争せんそうちゅうはチェロキーぞくとくおおきな被害ひがいおおくのおとこたちころされたために、おおくの寡婦かふができてしまった。戦争せんそう終結しゅうけつチェロキーぞく女性じょせいかず男性だんせいかずの10ばいにもなったという試算しさんもある。この両性りょうせいかずちがいは戦士せんし位置付いちづけを上昇じょうしょうさせチェロキーぞく社会しゃかい両性りょうせい役割やくわりちから関係かんけいえたという歴史れきしもいる。

チェロキーぞくおおくの意味いみでアメリカ先住民せんじゅうみん経験けいけんした途方とほうもないれいであるが、もっと変化へんか積極せっきょくてきに「文明ぶんめい」をれた集団しゅうだんでもある。おおくのチェロキーぞく男女だんじょ完全かんぜん白人はくじん社会しゃかいんだ。しかし、1830ねん制定せいていされたアメリカ・インディアン移住いじゅうほうによって、「なみだみち」を辿たどって移住いじゅう強制きょうせいされ、現在げんざいオクラホマしゅうんでいる。しん政府せいふ同化どうか政策せいさくつよ抵抗ていこうしたチェロキーぞくもいた。

結局けっきょく、チェロキーぞくのように強制きょうせい移住いじゅうさせられた先住民せんじゅうみん独立どくりつ戦争せんそうちゅうにアメリカ愛国あいこくしゃがわについたといっても結果けっかわらなかった。愛国あいこくしゃがわについたものも、イギリスについたものも、また中立ちゅうりつであったもの一様いちよう強化きょうかされた居住きょじゅう制限せいげんされることになった。

カトーバぞく女性じょせいたち[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそうまえカトーバぞくとヨーロッパけい移住いじゅうしゃあいだ関係かんけい用心ようじんしながら敵対てきたいてきなものであり、どちらも開戦かいせん興味きょうみいだかなかった。土地とち所有しょゆう問題もんだいでの緊張きんちょう紛争ふんそうんだ。開拓かいたくしゃたち私有地しゆうちしん土地とちまわりにしがらみめぐらせる一方いっぽうで、カトーバぞく何者なにもの土地とち所有しょゆうけん主張しゅちょうできないものとしんじてしがらみたおしてしまった。カトーバぞくおとこたちは「ゲーム」をもとめてあたりをうろつきまわり、開拓かいたくしゃたち狩人かりゅうど侵略しんりゃくしゃなしてりの宿営しゅくえいこわした。開拓かいたくしゃたちあたらしい農耕のうこうほうももたらし、カトーバぞく生活せいかつ様式ようしきえた。どの社会しゃかい農耕のうこうふか依存いぞんしていたようにカトーバぞくもその存続そんぞくみち農耕のうこう追求ついきゅうえていった。この変化へんかおとこたちりをするかたわらで農耕のうこうはげんでいた女性じょせいたちとく影響えいきょうした。部族ぶぞくのようにカトーバぞく伝統でんとうてき生活せいかつ様式ようしき維持いじできなかった。のこるためには開拓かいたくしゃとの共存きょうぞんみちさぐらねばならなかった。カトーバぞく女性じょせいつくった生活せいかつ用品ようひん開拓かいたくしゃたち取引とりひきし、伝統でんとう工芸こうげいえき事業じぎょうわった。1772ねんころにはカトーバぞく女性じょせいたち工芸こうげいひんって開拓かいたくしゃたちいえあるいた。

カトーバぞく開拓かいたくしゃたちとの関係かんけい改善かいぜんする最良さいりょうみちはアメリカ独立どくりつ戦争せんそう参加さんかすることだった。その居住きょじゅう位置いちから選択肢せんたくしはあまりなかった。南部なんぶ先住民せんじゅうみん監督かんとくしゃジョン・スチュアートは1775ねんに「かれらはノースカロライナサウスカロライナ開拓かいたくらばってんでいる」と記録きろくした。1775ねん7がつ2人ふたりのカトーバぞくチャールストンおとずれ、おう党派とうは植民しょくみんじんあらそいについておおくをまなんでいった。植民しょくみんじん安全あんぜん委員いいんかい植民しょくみん不満ふまん説明せつめいする文書ぶんしょたずさえた代表だいひょうだん派遣はけんし、カトーバぞく南部なんぶカロライナと友好ゆうこうたもつこと、交易こうえきつづはたらいてくれたカトーバぞくには賃金ちんぎん支払しはらうことをつたえ、カトーバぞく協力きょうりょくこばめばなにこるかを警告けいこくした。それにつづく8ねん以上いじょうあいだ、カトーバぞく愛国あいこくしゃがわたたかい、愛国あいこくしゃがわたいする忠誠ちゅうせいしめしもした。イギリスぐん先住民せんじゅうみんいえからし、むら作物さくもつ破壊はかいした。

独立どくりつ戦争せんそうちゅうカトーバぞく戦士せんし南部なんぶおおくのたたかいで大陸たいりくぐんについてたたかった。いえのこっていたカトーバぞく愛国あいこくしゃたち食料しょくりょう供給きょうきゅうした。カトーバぞくにおいても伝統でんとうてき女性じょせい子供こどもたち農業のうぎょうたずさわる役目やくめであったので、戦時せんじ愛国あいこくしゃがわ供給きょうきゅうする責任せきにん女性じょせいたちおもせられた。カトーバぞくなかにはその隣人りんじん種族しゅぞく非公式ひこうしき外交がいこう大使たいしとなったものもいた。その一人ひとりがサリー・ニュー・リバーという女性じょせいで、同族どうぞくひとからもまた土地とち白人はくじんからも敬意けいいをもってむかえられた。訪問ほうもんしゃ予告よこくしに到着とうちゃくしたとき、リバーは準備じゅんびができているとった。リバーは家長かちょうがカトーバぞく土地とちはじめて賃貸ちんたいした白人はくじんであるスプラットとのいがながかった。彼女かのじょ死後しご50ねんっても、土地とち白人はくじんたちは「いたるサリーおばさん」とってなつかしんだ。

しかし全体ぜんたいてきて、カトーバぞく戦争せんそうにおける役割やくわりは「むしろ無視むしできる」程度ていどのものだった。戦争せんそう参加さんかしたものかずすくなく、この種族しゅぞく戦闘せんとう勝敗しょうはいけっするようなことはなかった。カトーバぞく貢献こうけん意味いみはその活動かつどうてきえる支持しじであった。愛国あいこくしゃがわとの同盟どうめい急速きゅうそく変化へんかする環境かんきょうへの適応てきおう容易よういにした。1782ねんしゅう政府せいふなつるためのトウモロコシ500ブッシェル (1760 リットル)をおくり、軍隊ぐんたい協力きょうりょくしたもの給与きゅうよ支払しはらい、供給きょうきゅうした物資ぶっしたいする補償ほしょうおこなった。しかし、カトーバぞくたいする開拓かいたくしゃたち一時いちじてき親密しんみつかん将来しょうらい保証ほしょうするものではなかった。先住民せんじゅうみんキリスト教きりすときょうたいする関心かんしんつづけ、カトーバぞくなかからえらばれたものウィリアム・アンド・メアリー大学だいがく教育きょういくかれらがむらかえって改宗かいしゅうしあるいはのものを改宗かいしゅうさせることを期待きたいしていた開拓かいたくしゃたちをいらつかせた。この努力どりょく失敗しっぱいしたが、先住民せんじゅうみん劣等れっとうせいについて一般いっぱん感情かんじょうをかきてる役割やくわりたした。

カトーバぞく開拓かいたくしゃたちあいだ関係かんけいは、カトーバぞく愛国あいこくしゃがわたたかうと決断けつだんしたにもかかわらず、ながあいだ改善かいぜんされなかった。独立どくりつ戦争せんそうのちで、以前いぜん先住民せんじゅうみんから土地とちりていたものが所有しょゆうしゃになることを要求ようきゅうした。1830年代ねんだいには、サウスカロライナ議会ぎかい土地とち売却ばいきゃくについて交渉こうしょうだん派遣はけんした。つづ圧力あつりょく合衆国がっしゅうこく政府せいふ移住いじゅう政策せいさくにより、1840ねんはる、ネーション・フォード条約じょうやく調印ちょういんということになった。この条約じょうやくでは、カトーバぞくは144,000エーカー (576 平方へいほうkm)の土地とちをサウスカロライナに譲渡じょうとすることになった。この同意どういによってカトーバぞく国家こっかえた。サウスカロライナしゅう知事ちじデイビッド・ジョンソンは1847ねんにカトーバぞくについて「国家こっかとして、かれらは事実じじつじょう解体かいたいされた」とかたった。

アフリカけいアメリカじん女性じょせい愛国あいこくしゃおよおう党派とうは[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう自由じゆう平等びょうどうという美辞麗句びじれいくかげかくれて、もなく合衆国がっしゅうこくとなるくにもっとしいたげられた集団しゅうだんどう時期じき学者がくしゃたちにもわすれられる存在そんざいだった。アフリカけいアメリカじん女性じょせいたちは、そのだい多数たすう奴隷どれいであり、戦中せんちゅう重要じゅうよう役割やくわりたしたものの、そのはじまりに期待きたいしたほどにはるものがすくなかったものたちである。

1770年代ねんだい、アフリカけいアメリカじんだい多数たすう北部ほくぶでも南部なんぶでも奴隷どれいであった。戦争せんそうへの緊張きんちょうたかまったときに、イギリスは奴隷どれい植民しょくみん弱点じゃくてんであることに気付きづいた。実際じっさいにアメリカ独立どくりつ戦争せんそう前後ぜんごの20年間ねんかんというものは、奴隷どれい社会しゃかい動揺どうようもっとおおきかった。1775ねん1がつイギリスの議会ぎかいはすべてのイギリス領土りょうどにおける一般いっぱん開放かいほう提案ていあんされ、「バージニアや南部なんぶ植民しょくみん謙虚けんきょ貴族きぞく階級かいきゅう精神せいしん」を政治せいじてき操作そうさしようとした。(イギリス議会ぎかいおよびウェストミンスター・ホールにおけるエドマンド・バーク演説えんぜつ植民しょくみん奴隷どれいたちはその要求ようきゅうたいするイギリスの開放かいほうせいみとめた。1774ねん2人ふたり奴隷どれいが、イギリスぐんそう司令しれいかんでマサチューセッツ総督そうとくトマス・ゲイジに、戦争せんそうたたかわりに自由じゆう請願せいがんした。

奴隷どれい制度せいど南部なんぶ社会しゃかい根幹こんかんであり、イギリスはその解体かいたい南部なんぶ抵抗ていこうよわめるものとかんがえた。1775ねん4がつバージニア植民しょくみん知事ちじダンモアきょうはバージニア議会ぎかい反抗はんこうたくらんでいるとうたがい、植民しょくみん火薬かやく押収おうしゅうした。このことが武器ぶきった暴動ぼうどうつながった。ダンモアきょうはバージニアの海岸かいがんから軍艦ぐんかんげるさいにダンモアの宣言せんげんはっした。この宣言せんげん戒厳かいげんれいはっし、「すべての契約けいやくもとづく召使めしつかい、黒人こくじんそのもの自分じぶん意志いし武器ぶきることができる」として解放かいほう提案ていあんしていた。1775ねんのイギリス議会ぎかい提案ていあん同様どうように、ダンモアの宣言せんげんはバージニアの奴隷どれい保有ほゆうしゃこわがらせ奴隷どれいたち勇気ゆうきづける意図いとがあった。とく黒人こくじん男性だんせい主人しゅじんて、平等びょうどう理念りねんもとづく反乱はんらんこさないように意図いとされた。

ダンモアの宣言せんげん反応はんのうした奴隷どれいの3ぶんの1は女性じょせいであった。植民しょくみん時代じだい逃亡とうぼうしゃやく8ぶんの1は女性じょせいだった。逃亡とうぼうこころみた女性じょせい比率ひりつちいさかったのは、彼女かのじょたちが奴隷どれい家族かぞくをつなぎめる役目やくめたしていたからであった。だい部分ぶぶん女性じょせい家族かぞくとく子供こどものこしてげることはなく、もしだい集団しゅうだんはしればつかまる可能かのうせい急激きゅうげきすものだったので、たん逃亡とうぼうしない選択せんたくをしていただけだった。もし奴隷どれい女性じょせい所有しょゆうしゃのもとをはなれるとすれば、られてしまった家族かぞく再会さいかいするためであることがおおかった。

ダンモアきょう宿営しゅくえい殺到さっとうしたおとこたちなかには実際じっさい戦闘せんとう参加さんかするものもいた。ダンモアはもと奴隷どれいなかからやく500めいの「エチオピア連隊れんたい」をつくり、かれらのまえ主人しゅじんとのたたかいにくわわらせた。しばしばかれらの妻達つまたち従軍じゅうぐんさせ、宿営しゅくえい料理人りょうりにん洗濯せんたくおんな看護かんごをやらせた。ダンモアのしゅ宿営しゅくえいにいた独身どくしん女性じょせいおなじような仕事しごといた。

1776ねん6がつヘンリー・クリントン将軍しょうぐんが、主人しゅじんのもとからのがれイギリスぐん宿営しゅくえいんだ奴隷どれいは「この戦線せんせん内側うちがわでの安全あんぜん適当てきとうかんがえる職業しょくぎょう保証ほしょうする」約束やくそく宣言せんげんした。イギリスの奴隷どれいかんする宣言せんげん同様どうように、クリントンの宣言せんげん自己じこ中心ちゅうしんてき二律背反にりつはいはんてきであり、戦後せんご自由じゆうるために大陸たいりくぐんくわわったアフリカけいアメリカじん存在そんざいによって警告けいこくはっせられた。しかし南部なんぶ奴隷どれい所有しょゆうしゃたちは、クリントンのフィリスバーグ宣言せんげんかれらの財産ざいさん人生じんせいたいする攻撃こうげきであり、政府せいふ状態じょうたいむものとなした。この宣言せんげんはんイギリス感情かんじょう喚起かんきし、南部なんぶ愛国あいこくしゃはげますこえつよくすることになった。

フィリスバーグ宣言せんげんにクリントン将軍しょうぐんのもとにくわわった奴隷どれいたちおおくは家族かぞくごとはなれたものであった。クリントンはこれらの黒人こくじん登録とうろくして、平和へいわ秩序ちつじょおびやかすともられるあるじのないおおくのおとこたち管理かんりしようとした。この登録とうろく作業さぎょうなかでクリントンは、おう党派とうはのシンパからした奴隷どれいをすべてもとかえらせた。

まることをゆるされた奴隷どれいなかで、労働ろうどう仕分しわけは性別せいべつけられた。男性だんせい通常つうじょう砲兵ほうへい部隊ぶたい工兵こうへい部隊ぶたいで、大工だいく車輪しゃりん修理工しゅうりこう鍛冶たんやこり、道具どうぐ修理しゅうりじん馬車ばしゃ台座だいざ作成さくせい修理しゅうりおこなものなどとしてやとわれた。おとこおんなもマスケットじゅうくすりつつみつくったり、えた兵士へいしのために食肉しょくにく処理しょりしたり保存ほぞんしたりした。南部なんぶ黒人こくじん女性じょせい子供こどもたちあたりの地形ちけいっていたので、間違まちがえやすく湿地しっちおお地域ちいきでは道案内みちあんないつとめた。

イギリスぐんはこれらの奴隷どれいたち戦利せんりひんていた。士官しかんたち奴隷どれい自分じぶんのものにし、おおくのもと奴隷どれい個人こじんてき召使めしつかいとしてつかえた。イギリス政府せいふはこれにたいする異議いぎとなえ、かれらは王室おうしつ財産ざいさんであり、公的こうてき作業さぎょう計画けいかくでの労働ろうどう、あるいは一般いっぱんてきかたち農耕のうこう従事じゅうじさせるべきであるとした。だい部隊ぶたいのイギリスぐんつね食料しょくりょう補給ほきゅう必要ひつようとし、ふねはこぶのはたかくついたので、農耕のうこう労働ろうどう是非ぜひとも必要ひつようなものであった。これらの奴隷どれいたち奉仕ほうし見返みかえりとして解放かいほう約束やくそくされた。

南部なんぶにおけるおおくの奴隷どれい所有しょゆうしゃ逃亡とうぼう戦争せんそうによる奴隷どれい殺害さつがいふせぐために、その奴隷どれいたちかくまうようになった。かれらは実戦じっせんとはとおはなれた地域ちいき通常つうじょうはフロリダや西部せいぶ境域きょういき所有しょゆうおくられた。

イギリスぐん同様どうように、アメリカ政府せいふ黒人こくじんたち軍隊ぐんたい潜在せんざいてき戦力せんりょく認識にんしきしていた。しかし、ジョージ・ワシントン将軍しょうぐん当初とうしょ人種じんしゅ問題もんだいもとづく反論はんろんのために、また管理かんりできなくなるくらいおおくの黒人こくじん徴兵ちょうへいされることをおそれて、解放かいほうえに奴隷どれいたち戦争せんそうてることを逡巡しゅんじゅんしていた。それゆえに、戦争せんそう開始かいしとともに自由じゆう黒人こくじん人口じんこうでみればほんのすうパーセントが従軍じゅうぐんすることをゆるされた。しかし、1777ねんから1778ねんにかけてのバレーフォージふゆ、ワシントンは戦力せんりょく不足ふそくかんじて、あらゆる黒人こくじん男性だんせい入隊にゅうたいみとめた。さらに黒人こくじん奴隷どれいはその主人しゅじんのもとで、あるいは監督かんとく従軍じゅうぐんできるものとした。イギリスぐんにいたドイツじん傭兵ようへい士官しかんは1777ねんに「黒人こくじん沢山たくさんいない連隊れんたいはみあたらない」としている。大陸たいりくぐんには、ダンモアのエチオピア連隊れんたいおなじく、すべて黒人こくじんからなる大隊だいたいが2あった。

南部なんぶ愛国あいこくしゃにとって、黒人こくじん奴隷どれい女性じょせい必要ひつようなものであった。彼女かのじょたちは、チャールストンサバンナなどあちこちのまち都市とし包囲ほういせん防壁ぼうへきつくったり修理しゅうりしたりする大量たいりょう労働ろうどうりょくであった。

戦争せんそうわった直後ちょくご期間きかんはアフリカけいアメリカじんにとっておおくの期待きたい優柔不断ゆうじゅうふだんつづいた時期じきであった。しん国家こっかはその理想りそうのっとって奴隷どれい制度せいど廃止はいしするものと予測よそくするものおおかった。しかし、奴隷どれい制度せいど事実じじつ上新かみしん憲法けんぽうにもれられた。奴隷どれい制度せいど通常つうじょうられずとく利益りえきにもつながらなかった北部ほくぶしょしゅうですら、段階だんかいてき奴隷どれい制度せいど廃止はいしおおくの年月としつき法廷ほうてい闘争とうそうようすることになった。

法廷ほうてい闘争とうそう有名ゆうめいれい西部せいぶマサチューセッツでそだった奴隷どれいのマム・ベット事件じけんである。1781ねんにマム・ベットは所有しょゆうしゃのもとをはな弁護士べんごしセオドル・セジウィックの支援しえんにより、裁判所さいばんしょ請願せいがんした。その内容ないよう奴隷どれい制度せいどが「人間にんげんまれながらに自由じゆう平等びょうどうである」とうたったあたらしいマサチューセッツ憲法けんぽう前文ぜんぶん相容あいいれないものであるということであった。しゅう裁判所さいばんしょは2ねん判決はんけつくだし、奴隷どれい制度せいどはマサチューセッツしゅうでは違法いほうであると宣言せんげんした。マム・ベットはもはや奴隷どれいではなくなったので、エリザベス・フリーマンを名乗なのった。同様どうよう1782ねん、ベリンダという奴隷どれい女性じょせいが、その解放かいほうのためではなく、奴隷どれいとしてつかえた50年間ねんかんたいする補償ほしょうもとめてマサチューセッツ議会ぎかい請願せいがんおこなった。しかし、すべてのしゅうがマサチューセッツの先例せんれい素早すばや反応はんのうしたわけではなく、1810ねんでも北部ほくぶもろしゅうにまだ27,000めい奴隷どれい存在そんざいした。

終戦しゅうせん17世紀せいき大陸たいりく移民いみんほどおおくはないにしても、おおくの黒人こくじん北部ほくぶ都市とし移動いどうした。この移動いどうだい部分ぶぶん女性じょせいであった。独立どくりつ戦争せんそうまえ北部ほくぶ都市とし人口じんこう男性だんせい圧倒的あっとうてき多数たすうであった。1806ねんまでにニューヨーク女性じょせい人口じんこう男性だんせい人口じんこうたいして4たい3にまでなった。この均衡きんこう拡大かくだい海洋かいよう産業さんぎょう独立どくりつ戦争せんそう最大さいだい黒人こくじん男性だんせい雇用こようしゃとなったことで、おおくのわか黒人こくじん男性だんせい一時いちじすう年間ねんかんうみったことによっていた。北部ほくぶ農村のうそん地帯ちたいにいるアフリカけいアメリカじんはまだ男性だんせいほうおおかった。

北部ほくぶ都市としんだ黒人こくじんおおくはサービス産業さんぎょうやとわれた。料理りょうり配達はいたつ馬小屋うまごや掃除そうじ散髪さんぱつ御者ぎょしゃなどであった。この都市とし黒人こくじん社会しゃかいでは家庭かてい生活せいかつ崩壊ほうかいした。おおくの家族かぞく独立どくりつ戦争せんそうあいだに、その混乱こんらんなかであるいは奴隷どれいもどって、家族かぞく一員いちいんうしなっていた。おおくの雇用こようしゃ黒人こくじん家族かぞく丸抱まるがかえすることはこばみ、家庭かていない男性だんせいあるいは女性じょせい労働ろうどうしゃのみをやとうことをこのんだ。一緒いっしょむことをえらんだ家庭かてい下宿げしゅくじんをとって収入しゅうにゅうおぎなうか、黒人こくじん家族かぞく同居どうきょして、独立どくりつ戦争せんそう伝統でんとうとらわれない黒人こくじん家庭かてい生活せいかつ様式ようしきつくっていった。

南部なんぶでは奴隷どれい制度せいどがよりるぎないものになり、西部せいぶにもひろがるにつれて、崩壊ほうかいする家庭かていえた。たとえばチェサピーク地域ちいきでは、農耕のうこう経済けいざい態様たいよう戦後せんごわった。現金げんきん作物さくもつとしての煙草たばこ労働ろうどう集約しゅうやくてきであったので、これをきらって作物さくもつ転換てんかんする農場のうじょうぬしおおかった。奴隷どれいによる農業のうぎょう拡張かくちょうしていた低地ていち南部なんぶ西部せいぶおおくの奴隷どれいられてった。られない奴隷どれいであっても技能ぎのうったおとこたち賃貸ちんたいされて家族かぞくからははなされた。

戦後せんごおおくのおう党派とうは合衆国がっしゅうこくはなれ、ノバスコシアやイギリスりょうバミューダ諸島しょとう移住いじゅうした。かれらは奴隷どれい帯同たいどうしたが、奴隷どれいにされたアフリカけいアメリカじん解放かいほう経験けいけんすることもなく、偏見へんけんるでもなく、また自由じゆう黒人こくじんおおくの試練しれんあじわうことになった。

独立どくりつ戦争せんそう美辞麗句びじれいくおおくの変化へんか約束やくそくしたが、アフリカけいアメリカじんとくにその女性じょせいにとっては約束やくそくはほとんどたされなかった。おおくの女性じょせい位置付いちづけは、いいようにはわらなかった。南部なんぶでは家庭かてい生活せいかつ不安定ふあんていなものになり、北部ほくぶでは奴隷どれい制度せいど徐々じょじょ廃止はいしされたが、経済けいざいてき機会きかい家族かぞく安定あんてい都市としでゆっくりとうしなわれていった。黒人こくじん女性じょせい愛国あいこくしゃがわにもおう党派とうはがわにもおおきく貢献こうけんしたが、そのすす方向ほうこう予想よそうがいのものになっていった。