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アルゼンチン独立どくりつ戦争せんそう

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アルゼンチン独立どくりつ戦争せんそう
イスパノアメリカ独立どくりつ戦争せんそうなか
とき1810–1818
場所ばしょアルゼンチンチリウルグアイパラグアイボリビア
結果けっか アルゼンチンがわ勝利しょうりスペインの植民しょくみん支配しはいからの解放かいほう奴隷どれいせい部分ぶぶんてき廃止はいし
衝突しょうとつした勢力せいりょく
独立どくりつ主義しゅぎしゃ英語えいごばん
ラ・プラタ連合れんごうしゅう
チリの旗 チリ
おう党派とうは
スペインの旗 リオ・デ・ラ・プラタふくおうりょう
スペインの旗 ペルーふくおうりょう
指揮しきかん
マヌエル・ベルグラーノ
ホセ・デ・サン=マルティン
マルティン・ミゲル・デ・グェメス英語えいごばん  
フアン・ホセ・カステッリ英語えいごばん
ホセ・ヘルバシオ・アルティガス英語えいごばん
ウィリアム・ブラウン
カルロス・マリア・デ・アルベアル英語えいごばん

スペインの旗 フランシスコ・ハビエル・デ・エリオ
スペインの旗 ベルナンド・デ・ベラスコ英語えいごばん
スペインの旗 ホセ・マニュエル・デ・ゴイェネチェ英語えいごばん
スペインの旗 ペドロ・アントニオ・オラニェタ英語えいごばん
スペインの旗 サンティアゴ・デ・リニエルス  処刑

スペインの旗 ビセンテ・ニエト英語えいごばん  処刑

アルゼンチン独立どくりつ戦争せんそうは、1810ねんから1818ねんあいだに、マヌエル・ベルグラーノフアン・ホセ・カステッリ英語えいごばんホセ・デ・サン=マルティンひきいられたアルゼンチン独立どくりつ主義しゅぎしゃ英語えいごばんぐんスペイン帝国ていこくおう党派とうはぐんあいだたたかわれた。1816ねん7がつ9にちサン・ミゲル・デ・トゥクマンでの会合かいごう英語えいごばんにおいて、アルゼンチン憲法けんぽう英語えいごばん条項じょうこうとも完全かんぜん独立どくりつ宣言せんげん英語えいごばん布告ふこくされた。

背景はいけい[編集へんしゅう]

今日きょうアルゼンチン領土りょうどは、ブエノス・アイレス政府せいふ所在地しょざいち英語えいごばんとするリオ・デ・ラ・プラタふくおうりょう一部いちぶであった。今日きょうウルグアイパラグアイボリビアもこのふくおうりょう一部いちぶであったが、この独立どくりつ戦争せんそう自治じちけんもとめ、のち独立どくりつ国家こっかとなった。人口じんこう密集みっしゅうふくおうりょうひろさと低速ていそく情報じょうほう伝達でんたつによってそれぞれからへだてられていた。ふくおうりょうなかもっと繁栄はんえいしていた地域ちいきアルト・ペルー(今日きょうのボリビア)であったが、ブエノス・アイレスよりもサルタコルドバによりつよむすびつきをっていた。同様どうように、西部せいぶメンドーサも、アンデス山脈さんみゃく自然しぜん障壁しょうへきとなったものの、チリ総督そうとくりょう英語えいごばんによりつよむすびつきをっていた。対立たいりつ関係かんけいにあったブエノスアイレス・アイレスとモンテビデオ両者りょうしゃともラプラタがわ流域りゅういき英語えいごばん位置いちし、海上かいじょう通信つうしん手段しゅだん内陸ないりく住民じゅうみんよりも欧州おうしゅう思想しそう経済けいざいてき発展はってん接触せっしょくつことができた。パラグアイはのすべての地域ちいきからへだてられていた。

政治せいじ機構きこう上層じょうそうには、ペニンスラールともばれる本土ほんど人間にんげんがほとんどの、スペイン王室おうしつから指名しめいされたものが、アメリカ現地げんちみん問題もんだい意向いこうふか配慮はいりょせずにあてられた。これにより、ラテンアメリカでまれた白人はくじんであるクリオーリョと、本土ほんどから派遣はけんされたスペインじんペニンスラールとのあいだ対立たいりつしょうじさせた。両者りょうしゃともにスペインじんとみなされていたし、クリオーリョとペニンスラールとのあいだ法的ほうてきもうけられなかったものの、クリオーリョのほとんどが、ペニンスラールが過度かど政治せいじてき権力けんりょくっているとかんがえていた。アメリカ独立どくりつ革命かくめいフランス革命かくめい啓蒙けいもう思想しそうはクオリーリョの社会しゃかい変革へんかくへの願望がんぼうつよめた。スペインによる他国たこくとの禁輸きんゆ政策せいさくふくおうりょう経済けいざいたいする損害そんがいられた。

ブエノス・アイレスの住民じゅうみんえい西にし戦争せんそう英語えいごばんどきイギリスのラプラタ侵略しんりゃく英語えいごばんさい武装ぶそうされた。ブエノス・アイレスは1806ねん占領せんりょうされ、モンテビデオからのサンティアゴ・デ・リニエルスひきいる部隊ぶたいによって解放かいほうされたが[1]反撃はんげきおそれ、奴隷どれいふく軍務ぐんむてきするべての住民じゅうみん徴兵ちょうへいされた。1807ねん英軍えいぐん攻撃こうげきにおいて、英軍えいぐんはモンテビデオを占領せんりょうしたものの、ブエノス・アイレスでのたたかいで敗北はいぼくし、ふくおうりょうはなれた。ふくおうラファエル・デ・ソブレモンテはこの戦争せんそうちゅうにクリオーリョによって退位たいいさせられ、英軍えいぐん脅威きょういったのちもパトリキ連隊れんたい英語えいごばん地方ちほう政治せいじつよ影響えいきょうつようになった。[2]

ブラジルへの宮廷きゅうてい移転いてん英語えいごばん軍事ぐんじてき懸念けねんしょうじさせた。ポルトガルと同盟どうめいむすぶイギリスの3度目どめ侵略しんりゃく危惧きぐされたが、半島はんとう戦争せんそう開戦かいせんとともにスペインがポルトガル・イギリスとたいふつ同盟どうめいむすんだため、軍事ぐんじ衝突しょうとつ発生はっせいしなかった。スペインおうフェルディナンド7せいらえられると、あねカルロッタ・ジョアキナ摂政せっしょうとしてラテンアメリカを統治とうちしようとこころみたが、イギリス・スペインじん両者りょうしゃ支持しじることができず成功せいこうわった。モンテビデオでフランシスコ・ハビエル・デ・エリオによりフンタ設立せつりつされたことをけ、マルティン・デ・アルサガ英語えいごばんがブエノス・アイレスにおいてグーデターで同様どうよう行為こういをしようとこころみたが、現地げんちぐん介入かいにゅう阻止そしした。本国ほんごくバルタサール・イダルゴ・デ・シスネロスしんふくおう任命にんめいすると、リニエルスはぐん反対はんたいする提言ていげん退しりぞけ、無抵抗むていこう政権せいけんゆずった。[3]

五月ごがつ革命かくめい[編集へんしゅう]

五月ごがつ革命かくめい によりふくおう退位たいいした。わりに、最高さいこう議会ぎかい英語えいごばんばれるフンタが政権せいけんになった。

1810ねんまでには本土ほんどではスペインぐん敗北はいぼくつづけていた。フランスぐんはイベリア半島はんとうのほとんどを占領せんりょうし、セビーリャにまでいたり、最高さいこう中央ちゅうおう評議ひょうぎかい廃止はいしされた。何人なんにんかの会員かいいんいまだフランス支配しはいにないカディズへとのがれ、より絶対ぜったい王政おうせい支持しじする摂政せっしょう評議ひょうぎかい設立せつりつした。このらせがブエノス・アイレスにとどき、五月ごがつ革命かくめい勃発ぼっぱつした。市民しみんなかには、廃止はいしされたフンタに任命にんめいされたシスネロスの統治とうちする権限けんげんうたがい、公開こうかい町会ちょうかい英語えいごばん開催かいさいもとめるこえぐん支持しじによりシスネロスに開催かいさいみとめさせた。この町会ちょうかいにより、ふくおうシスネロスを解任かいにんし、フンタをあてることが決定けっていされたが、町会ちょうかいはシスネロスをフンタの大統領だいとうりょう任命にんめいし、権力けんりょく保持ほじさせようとした。このような行為こういつづいたため、じかにフンタは廃止はいしされ、最高さいこう議会ぎかい英語えいごばん後任こうにんになった。[4]

ブエノス・アイレスはふくおう領内りょうないほか都市としにこのフンタを承認しょうにんし、使節しせつおくることを要求ようきゅうしたが、使節しせつが、フンタに参加さんかするためにおくられるのか、議会ぎかい設立せつりつするためにおくられるのかどうかが不透明ふとうめいだったため、政治せいじてき衝突しょうとつこした。はじめこの要求ようきゅうはコルドバ、モンテビデオ、パラグアイ、アルト・ペルーといったすべての主要しゅよう都市としから拒否きょひされた。コルドバではサンティアゴ・デ・リニエルスがブエノス・アイレスを攻略こうりゃくするためにぐん組織そしきしており、モンテビデオはより強大きょうだい海上かいじょう戦力せんりょく保持ほじしていた。アルト・ペルーではビセンテ・ニエルトがペルーふくおうホセ・フェルナンド・デ・アバスカル・イ・スーサ英語えいごばんにアルト・ペルーの併合へいごう要請ようせいしていた。ビセンテは五月ごがつ革命かくめいはブエノス・アイレスないしずまるだろうとかんがえていた。

摂政せっしょう会議かいぎはブエノス・アイレスを反乱はんらん都市とし宣言せんげんし、モンテビデオをふくおうりょう首都しゅととした。ふくおうにはフランシスコ・ハビエル・デ・エリオ任命にんめいされた。これらのことにかかわらず、五月ごがつ革命かくめい当初とうしょ分離ぶんり主義しゅぎてきではなかった。独立どくりつ主義しゅぎしゃたちはべい大陸たいりくのフンタを支持しじし、おう党派とうは摂政せっしょう会議かいぎ支持しじしていたが、両者りょうしゃともフェルディナンド7せい代理だいりとして、おう不在ふざいには主権しゅけん人民じんみんするとかんがえていた。かれらが同意どういしないところはそれが適応てきおうされる領土りょうど範囲はんいであった。おう党派とうは本土ほんどのみに適応てきおうされるとし、スペイン帝国ていこく統治とうちする権限けんげんあたえられると主張しゅちょうし、一方いっぽうがつ革命かくめい首謀しゅぼうしゃ帝国ていこく全土ぜんど都市とし適応てきおうされると主張しゅちょうした。またホセ・ゲルバシオ・アルティガス英語えいごばんは、主権しゅけん譲渡じょうとぜん地域ちいき適応てきおうされ、また連邦れんぽうせいによりぜん地域ちいき統治とうちされるべきであると主張しゅちょうした。三者さんしゃたがいを敵視てきししていたが、アルゼンチンに中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい連邦れんぽうせいのどちらを採用さいようするかについてのあらそいは、独立どくりつ戦争せんそうアルゼンチン内戦ないせん英語えいごばんとなりつづいた。[5]

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

最高さいこう議会ぎかい英語えいごばんふくおうりょう首都しゅととしての影響えいきょうりょくしん体制たいせいへの支持しじるために、ぜんふくおう領内りょうない攻撃こうげきかえし、リオ・デ・ラ・プラタもろしゅう連合れんごう影響えいきょうけん決定けっていづけた。連合れんごうはパラグアイと早期そうき不可侵ふかしん条約じょうやくむすび、ほとんどのたたかいはアルト・ペルーとバンダ・オリエンタルおこなわれた。こののち年間ねんかん連合れんごうはモンテビデオを占領せんりょうしたが、アルト・ペルーでは膠着こうちゃく状態じょうたいつづいたため、西にしのチリへと戦線せんせんひろげた。[6]

初戦しょせん[編集へんしゅう]

ブエノスアイレスの革命かくめい政府せいふはまずぜんふくおうサンティアゴ・デ・リニエルスはん革命かくめい運動うんどう組織そしきするコルドバ五月ごがつ革命かくめい賛同さんどうしないパラグアイしゅう攻撃こうげきおこなった。

リニエルスは、コルドバでつのった兵士へいし戦闘せんとうまえ逃亡とうぼうしたため、アルト・ペルーに亡命ぼうめいし、五月ごがつ革命かくめい鎮圧ちんあつのためのペルーふくおうりょうぐんくわわろうとこころみたが、1810ねん8がつ6にちはん革命かくめい運動うんどうほか首謀しゅぼうしゃとも革命かくめい政府せいふのフランシスコ・オルティズ・デ・オカンポ大佐たいさらえられた。しかし、大佐たいさ指令しれいどおりにリニエルスらを処刑しょけいせず、捕虜ほりょとしてブエノス・アイレスにおくったため、オカンポ大佐たいさ降格こうかくされ、フアン・ホセ・カステリイ英語えいごばんぐん指揮しきかん任命にんめいされた。8月26にちに、かれはコルドバの捕虜ほりょ処刑しょけいし、きた方面ほうめんぐん英語えいごばんひきいてアルト・ペルーを攻撃こうげきした。

北西ほくせい地域ちいきにおいて、ブエノス・アイレスへの代議員だいぎいん選挙せんきょおこながつ革命かくめいへの支持しじ確保かくほしたのち、カステリイはアントニオ・ゴンザレス・デ・バルカルセ英語えいごばん大佐たいさをアルト・ペルーに派遣はけんしたが、かれぐんコタガイタのたたか英語えいごばん敗北はいぼくした。カステリイは援軍えんぐん派遣はけんし、スイパチャのたたか英語えいごばん革命かくめい政府せいふにとってはつ勝利しょうりり、アルト・ペルーを支配しはいいた。おう党派とうは指揮しきかんビセンテ・ニエルト英語えいごばん、フランスシスコ・デ・パウラ・サンス、ホセ・デ・コルドバ・イ・ロハス英語えいごばんはこのとき捕虜ほりょとなり、処刑しょけいされた。

カステリイはブエノス・アイレス政府せいふデサグアデーロがわ英語えいごばん渡河とかし、ペルーふくおうりょう侵攻しんこうすることを提案ていあんしたが、政府せいふ却下きゃっかした。カステリイとゴイェネチェの部隊ぶたい国境こっきょう付近ふきん駐屯ちゅうとんしていたが、ゴイェネチェの部隊ぶたい前進ぜんしんし、ウアキのたたか英語えいごばん敗北はいぼくし、部隊ぶたい潰走かいそうした。しかし、アルト・ペルーの独立どくりつ主義しゅぎしゃゲリラリパブリケタス英語えいごばんおう党派とうはめ、みなみへの前進ぜんしんふせいだ。

ブエノス・アイレス政府せいふマヌエル・ベルグラーノひきいる民兵みんぺいパラナがわ沿いにパラグアイしゅう派遣はけんした。はじカンピチュエロのたたか英語えいごばんでは勝利しょうりしたものの、パラグアリのたたか英語えいごばんタクアリのたたか英語えいごばん完敗かんぱいきっした。この戦役せんえき軍事ぐんじてき観点かんてんからは失敗しっぱいわったが、すうげつ、パラグアイはアルゼンチンにならい、独立どくりつ国家こっかとなり本国ほんごくとの関係かんけいことわった。

  • だいいちバンダ・オリエンタル戦役せんえき(1811)

さい攻撃こうげき[編集へんしゅう]

パラグアイ、アルト・ペルー戦役せんえきでの敗北はいぼくにより、1811ねん9がつ革命かくめい政府せいふだいいちさんとうせい英語えいごばん政権せいけんうばわれた。この政府せいふはナポレオン戦争せんそうたたか本土ほんどから到着とうちゃくしてあいだもないホセ・デ・サン・マルティン中佐ちゅうさにあてきた方面ほうめんぐん英語えいごばん再編さいへんし、アルト・ペルーへのあらたなる攻撃こうげき決定けっていした。サン・マルティンは統率とうそつれる正規せいきぐん騎兵隊きへいたい創設そうせつするよう命令めいれいされ、その騎兵隊きへいたい騎乗きじょう擲弾へい連隊れんたい英語えいごばんばれた。

政府せいふはマヌエル・ベルグラーノをきた方面ほうめんぐん指揮しきかんにあてた。ピオ・デ・トリスタン英語えいごばんひきいるおう党派とうはぐん度重たびかさなる侵攻しんこうにたいし、ベルグラーノは焦土しょうど作戦さくせん使用しようすることをめ、フフイサルタ市民しみん退去たいきょと、物資ぶっし捕虜ほりょわたさないために都市とし破壊はかいめいじ、この行動こうどうフフイ追放ついほう英語えいごばんとしてられるようになった。

ベルグラーノは政府せいふ指示しじはんトゥクマンおう党派とうはぐん戦闘せんとう勝利しょうりした。さらにサルタのたたか英語えいごばん決定的けっていてき勝利しょうりおさめ、おう党派とうはぐんだい部分ぶぶん武器ぶき放棄ほうきさせた。このときサラマンカ大学だいがくでの同期どうきだったトリスタンの部隊ぶたい解放かいほうされた。しかし、ヴィリカプヒオのたたか英語えいごばんアヨウマのたたか英語えいごばん敗北はいぼくし、フフイへの撤退てったいいられた。

1812ねんはじめ、ブエノス・アイレスとモンテビデオあいだ不可侵ふかしん条約じょうやく失効しっこうしたため、マニュエル・デ・サラテア英語えいごばん指揮しきかんとしてバンダ・オリエンタルへの攻撃こうげき開始かいしされたが、指揮しきかんもなくホセ・ロンデアウ英語えいごばんわり、だいモンテビデオ包囲ほうい英語えいごばん開始かいしした。おう党派とうはぐんガスパル・デ・ヴィゴデット英語えいごばん包囲ほういこうとこころみたものの、セリートのたたか英語えいごばん敗北はいぼくした。

そこで、おう党派とうは海軍かいぐん陸上りくじょう封鎖ふうさ回避かいひしようと、ウルグアイがわ西岸せいがん地域ちいきへの襲撃しゅうげきおこなった。1813ねん1がつ31にち、モンテビデオのおう党派とうは部隊ぶたいがサンタ・フェしゅうサン・ロレンソ上陸じょうりくした。しかし、同年どうねん2がつ3にちにこの部隊ぶたいはサン・マルティンひきいるグラナデーロス部隊ぶたいにより壊滅かいめつさせられた。このサン・ロレンソのたたかのちおう党派とうはによるパラナ川西かわにしがんへの襲撃しゅうげきはなくなり、サン・マルティンは政府せいふによりぐん司令しれいかん地位ちいあたえられた。

グラナデーロス部隊ぶたい11月8にち革命かくめい英語えいごばんにおいても重要じゅうよう役割やくわりたした。この革命かくめいにより、だいいちさんとう制治せいじ打倒だとうされ、だいさんとう政治せいじ英語えいごばんはじまった。しん政府せいふはより独立どくりつ主義しゅぎてきであり、独立どくりつ宣言せんげんのために13ねん会合かいごう英語えいごばん招集しょうしゅうした。しかし、会合かいごうではまずさんとうせい廃止はいしラプラタ連合れんごうしゅう最高さいこう長官ちょうかん英語えいごばん地位ちい創設そうせつし、ヘルバシオ・アントニオ・デ・ポサーダス英語えいごばんをその地位ちい選出せんしゅつした。

ポサーダスは就任しゅうにん、1814ねん3がつ1にちフアン・ラレーラ英語えいごばん資金しきん援助えんじょにより艦隊かんたいはじめて創設そうせつし、ウィリアム・ブラウン艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん任命にんめいした。急造きゅうぞう連合れんごうしゅう艦隊かんたいは、その困難こんなんにもかかわらず、1814ねん5がつ14にちおう党派とうは艦隊かんたい交戦こうせん英語えいごばんさんにちのうちにおう党派とうは艦隊かんたい撃破げきはした。この勝利しょうりによって、ブエノス・アイレスわんこう安全あんぜん確保かくほされ、モンテビデオは籠城ろうじょうせんくっし1814ねん6がつ20日はつか陥落かんらくした。

独立どくりつ[編集へんしゅう]

モンテビデオの陥落かんらくにより、バンダ・オリエンタルでのおう党派とうは脅威きょういはなくなり、リオ・デ・ラ・プラタふくおうりょう実際じっさい解散かいさん決定けっていづけられた。ウィリアム・ブラウンは提督ていとく昇級しょうきゅうし、モンテビオ陥落かんらく数日すうじつまえ包囲ほうい責任せきにんしゃ任命にんめいされたカルロス・マリア・デ・アルベアル英語えいごばん叔父おじのち連合れんごうしゅう最高さいこう長官ちょうかんとなった。しかし、ぐん反感はんかんい、イグナシオ・アルバレス・トマス英語えいごばん兵士へいし反乱はんらんによってその地位ちいいた。アルバレスはアルベアルをロンデアウにわりきた方面ほうめんぐん指揮しきかん任命にんめいしたが、実務じつむじょうはロンデアウが指揮しきけんにぎっていた。

ホセ・ロンデアウひきいるきた方面ほうめんぐんは、アルバレス最高さいこう長官ちょうかん正式せいしき承諾しょうだくなく1815ねんにアルト・ペルーへのあらたな攻撃こうげき開始かいしした。しかし、そのためにぐん規律きりつはとれず、マルティン・ミゲル・デ・グェメス英語えいごばんひきいるサルタしゅうぐん支援しえんうしなった。こののちのベンタ・イ・メディアとシペ・シペでの敗北はいぼくにより、連合れんごうしゅうはアルト・ペルーの北部ほくぶうしなったが、グェメスの"ゲリラス"がおう党派とうはさらなる全身ぜんしんめた。

だいさんアルト・ペルー戦役せんえきでの敗北はいぼくにより、欧州おうしゅうでは五月ごがつ革命かくめい終結しゅうけつ流言りゅうげんながれ、さらに1815ねんにフェルディナンド7せい王位おういもどったため、連合れんごうしゅう政治せいじてき地位ちい確立かくりつさせることが急務きゅうむとなった。

1816ねん7がつ9にち連邦れんぽう同盟どうめい形成けいせいするサンタ・フェエントレ・リオスコリエンテスバンダ・オリエンタルのぞいた、3にんのアルト・ペルーからの代表だいひょうしゃふくんだしゅう代表だいひょうしゃによるトゥクマン会合かいごう英語えいごばんひらかれ、連合れんごうしゅう独立どくりつと、憲法けんぽう条文じょうぶん発表はっぴょうされた。

アンデス山脈あんですさんみゃく戦役せんえき(1814-1818)[編集へんしゅう]

はたいたホセ・デ・サン・マルティン .

ホセ・デ・サン・マルティン将軍しょうぐんは1814ねんにアルト・ペルーへのあらたな攻撃こうげき計画けいかくきた方面ほうめんぐん指揮しきかんいたものの、さらなる敗北はいぼく予想よそうあいだもなく辞任じにんした。マルティンはキトとリマのおう党派とうは打倒だとうするためにはまずチリを攻撃こうげきすべきだとするトーマス・マイトランド英語えいごばん著作ちょさくけ、チリからペルーふくおうりょうめる戦略せんりゃく考案こうあんした。

サン・マルティンはクヨしゅう知事ちじになり、チリ戦役せんえきへの準備じゅんびはじめた。メンドーサ到着とうちゃく連合れんごうしゅう市民しみんとチリからの亡命ぼうめいしゃからるグラナデーロス部隊ぶたいをアンデス方面ほうめんぐん編入へんにゅうした。

1817ねん前半ぜんはん、サン・マルティンはアンデス越山こえやま英語えいごばん組織そしきし、同年どうねん2がつ17にちチャカブコのたたか英語えいごばん決定的けっていてき勝利しょうりおさめ、サンティアゴ・デ・チリ占領せんりょうした。サン・マルティンは、当初とうしょ目的もくてきであるリマ占領せんりょう集中しゅうちゅうするため、チリ知事ちじとなる提案ていあんこばみ、わりにベルナルド・オイギンス知事ちじにたてた。12月には、チリの独立どくりつかんする国民こくみん投票とうひょうおこなわれた。

しかし、おう党派とうはマプチェぞく同盟どうめいし、チリ南部なんぶ抵抗ていこう運動うんどうおこなった。連合れんごうしゅうぐん大佐たいさフアン・グレゴリオ・デ・ラス・エラス英語えいごばんが4がつ4にちコンセプシオン占領せんりょうしたものの、おう党派とうははタルカウアノに南下なんか抵抗ていこうつづけた。1818ねんはじめにはマリアノ・オソリオ英語えいごばんひきいるペルーふくおうりょうからの増援ぞうえん到着とうちゃくした。そこでサン・マルティンは防衛ぼうえい不可能ふかのうであるとたコンセプションからの撤退てったいめいじ、焦土しょうど作戦さくせん実行じっこうした。チャカブコのたたかいのいちねんである同年どうねん2がつに、チリは独立どくりつたした。

同年どうねん4がつ、オソリオの部隊ぶたいラプラタ連合れんごうしゅう・チリ共和きょうわこく連合れんごうぐん奇襲きしゅう英語えいごばん連合れんごうぐんおおくの犠牲ぎせいしゃし、サンティアゴに撤退てったいした。また混乱こんらんなか、チリ最高さいこう長官ちょうかんのオーヒギンスが戦死せんししたという誤解ごかいしょうじ、連合れんごうぐんにパニックをしょうじさせた。カンチャ・ラヤーダのたたかいののち、オーヒギンスはマイプ平原へいげんでの会議かいぎにおいてぐん指揮しきけんすべてサン・マルティンにわたした。そして、同年どうねんがつ、サン・マルティンはマイプのたたか英語えいごばんでオソリオにたい決定的けっていてき勝利しょうりおさめ、おう党派とうはぐんはコンセプションに撤退てったいし、そのサンティアゴへの攻撃こうげきおこなうことはなかった。

そのたいペルー攻撃こうげきはチリのによっておこなわれたため。チリ戦役せんえきがアルゼンチン独立どくりつ戦争せんそう終結しゅうけつさせたとされている。ただ、1825ねんアヤクチョのたたか英語えいごばんによりおう党派とうは壊滅かいめつするまで、北部ほくぶ国境こっきょうでの防衛ぼうえいせんつづいた。

記念きねん[編集へんしゅう]

5月25にちDía de la Revolución de Mayoがつ革命かくめい)が、重要じゅうよう出来事できごとである、はつ政府せいふ樹立じゅりついわうために制定せいていされている。このしゅうは、きたほか出来事できごとふくめ、Semana de Mayoがつしゅう)とばれている

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ Camogli, p. 23
  2. ^ Camogli, p. 24
  3. ^ Camogli, pp. 26–27
  4. ^ Camogli, pp. 27–28
  5. ^ Camogli, pp. 29–31
  6. ^ Camogli, pp. 32–33

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • Camogli, Pablo; Luciano de Privitellio (2005). Batallas por la Libertad. Buenos Aires: Aguilar. ISBN 987-04-0105-8 
  • Luna, Félix (2003) (Spanish). La independencia argentina y americana. Buenos Aires: Planeta. ISBN 950-49-1110-2 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]