(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ウィリアム・クーパー - Wikipedia コンテンツにスキップ

ウィリアム・クーパー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウィリアム・クーパー(William Cowper, 1731ねん - 1800ねん)は、イギリスのロマン主義しゅぎ先駆せんくしゃてき詩人しじんである。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

1731ねんイングランド南部なんぶハートフォードシャーバーカムステッド牧師ぼくしとしてまれた。ども時代じだいに3にん兄弟きょうだい2人ふたり姉妹しまいうしない、6さいになるまえおとうとジョンの出産しゅっさんとも母親ははおやうしなった。

1748ねんウェストミンスター学校がっこう卒業そつぎょうし、同年どうねんミドルテンプル法曹ほうそう学院がくいん入学にゅうがくし、ロンドンの法律ほうりつ事務所じむしょ書記しょきとして2年間ねんかん年季奉公ねんきぼうこうをする。

うつびょう発症はっしょう[編集へんしゅう]

その英国えいこく国会こっかい下院かいん記録きろくがかり仕事しごと紹介しょうかいされるが、口答こうとう試験しけんおそれをなし、アヘンにより自殺じさつ未遂みすいこす。

うつびょう発症はっしょう精神せいしん病院びょういん入院にゅういんし、福音ふくいん主義しゅぎおしえにれる。しかし、病状びょうじょう回復かいふくせず、おとうといえ逗留とうりゅうしたのち、ケンブリッジャーのハンティンドンに転居てんきょした。そこで、敬虔けいけん福音ふくいん主義しゅぎキリスト教徒きりすときょうとであったアンウィン一家いっか出会であい、アンウィンのいえ同居どうきょすることになった。

ニュートンとさん歌集かしゅう出版しゅっぱん[編集へんしゅう]

まもなく、アンウィンちちモーリーが落馬らくば事故じこくなる。丁度ちょうどそのころ地方ちほう伝道でんどうていた牧師ぼくしジョン・ニュートン駅伝えきでん馬車ばしゃ故障こしょうし、偶然ぐうぜんモーリーをたずねることになった。そこで、モーリーの死亡しぼうり、のこされた家族かぞくとクーパーの援助えんじょもうた。

そこで、クーパーいたるオウルニィむことになった。クーパーとニュートンは意気投合いきとうごうして、賛美さんびつくることになった。ニュートンが280、クーパーが68の賛美さんびつくり、それが『オウルニィのさん歌集かしゅう』として出版しゅっぱんされた。

うつびょうにより婚約こんやく解消かいしょう[編集へんしゅう]

モーリーの未亡人みぼうじんメアリーは2人ふたりどもが独立どくりつすると、クーパーと婚約こんやくすることになる。しかし、この婚約こんやくでうつびょう再発さいはつし、婚約こんやく解消かいしょうした。ふたたび、クーパーは自殺じさつはかった。自責じせきねんから、教会きょうかいかず、自室じしつきこもってしまった。

1769ねんにメアリー・アンウィンがやまいたおれたときに、「かみともきて」(Oh! for a closer walk with God)をいた。

1779ねんニュートンが、クーパーをはなれロンドンに転居てんきょした。

1781ねんクーパーはオースティンという女性じょせい出会であい、創作そうさく刺激しげきけた。しかし、メアリー・アンウィンを気遣きづかって交際こうさい突然とつぜんやめてしまった。

晩年ばんねん死去しきょ[編集へんしゅう]

その、いくつかの詩集ししゅう出版しゅっぱんし、イギリスを代表だいひょうするロマン主義しゅぎ詩人しじんとしてみとめられた。また、ギリシアホメロスラテン語らてんごのミルトンの英訳えいやくするという業績ぎょうせきのこしている。

1800ねん死去しきょする。ニュートンがクーパーのさいして弔辞ちょうじのこしている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 賛美さんび略解りゃっかい日本にっぽん基督教きりすときょうだん出版しゅっぱんきょく、1954ねん
  • ジョン・ニュートンちょ中澤なかざわ幸夫ゆきおやく、『増補ぞうほばん「アメージング・グレース」物語ものがたりいろどりりゅうしゃ、2012ねん