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ウィリアム・コベット
ウィリアム・コベット (William Cobbett、1763年 ねん 3月9日 にち - 1835年 ねん 6月18日 にち )は、イギリス のジャーナリスト 、愛国 あいこく 者 しゃ 。
Rural rides in the southern, western and eastern counties of England , 1930
サリー州 しゅう のファーナムに生 う まれる。父 ちち は農家 のうか の出身 しゅっしん だが独学 どくがく で財 ざい をなし、旅宿 りょしゅく も経営 けいえい する自作農 じさくのう であった。父 ちち のジョージからは向学心 こうがくしん と政治 せいじ への情熱 じょうねつ を受 う け継 つ ぎ、幼 おさな い時 とき から畑 はたけ での作業 さぎょう に習熟 しゅうじゅく し、晩年 ばんねん まで農園 のうえん への執着 しゅうちゃく は消 き えなかった。11歳 さい の時 とき 、家出 いえで をした先 さき のロンドン でスウィフト の『桶 おけ 物語 ものがたり 』を購入 こうにゅう し、夢中 むちゅう で読 よ みふけったことがある。一時 いちじ ファーナムにもどるが、19歳 さい の時 とき にふたたび故郷 こきょう を出 で てポーツマス へ向 む かい海軍 かいぐん へ入 にゅう ろうとして果 は たさず、翌年 よくねん にロンドンに出 で て弁護士 べんごし の書記 しょき として働 はたら く。1784年 ねん にチャタム に行 い き第 だい 54歩兵 ほへい 連隊 れんたい に入隊 にゅうたい 。連隊 れんたい では模範 もはん 的 てき な兵卒 へいそつ として英 えい 領 りょう カナダで勤務 きんむ し、特務 とくむ 曹長 そうちょう まで昇進 しょうしん する。1791年 ねん に除隊 じょたい を許 ゆる され、翌年 よくねん に結婚 けっこん した。
コベットは除隊 じょたい 後 ご に所属 しょぞく 連隊 れんたい の将校 しょうこう 数 すう 名 めい に対 たい し、官金 かんきん 費消 ひしょう の告訴 こくそ を起 お こす。「兵士 へいし の友 とも The Soldier's Friend 」というパンフレットを書 か き、軍部 ぐんぶ や首相 しゅしょう のウィリアム・ピット を攻撃 こうげき し、国王 こくおう への直訴 じきそ まで試 こころ みた。政府 せいふ はコベットの処置 しょち に困 こま り、王朝 おうちょう 転覆 てんぷく の野心 やしん ありという疑 うたが いをかけ偽証 ぎしょう 者 しゃ をロンドンへ召喚 しょうかん する手 て はずを整 ととの えるが、コベットは事前 じぜん に察知 さっち してフランスに亡命 ぼうめい した。8月にテュイルリー宮殿 きゅうでん がパリ民衆 みんしゅう に襲 おそ われたというニュースを聞 き き、英 えい 仏 ふつ 間 あいだ の戦争 せんそう が起 お こると予想 よそう し、アメリカのフィラデルフィア へ移住 いじゅう 。フランス系 けい の移民 いみん に英語 えいご を教 おし えて生計 せいけい を立 た て、この時 とき フランス語 ふらんすご で書 か いた英文 えいぶん 法 ほう 書 しょ は100年 ねん 後 ご もフランスで愛用 あいよう されたという。1794年 ねん にイギリスの科学 かがく 者 しゃ のジョゼフ・プリーストリー がペンシルヴェニア州 しゅう に移住 いじゅう し、イギリスを誹謗 ひぼう したのに憤 いきどお り「一 いち 殉国 じゅんこく 者 しゃ の移住 いじゅう を論 ろん ず Observations on the Emigration of Dr. Joseph Priestley 」というパンフレットでプリーストリーの急進 きゅうしん 思想 しそう を攻撃 こうげき した。ついでフランス革命 かくめい の影響 えいきょう で革命 かくめい への同調 どうちょう が行 い き渡 わた った風潮 ふうちょう に抗 こう して、『ピーター・ポーキュパイン Peter Porcupine』紙 し を発刊 はっかん し、フランス政府 せいふ とアメリカ民主党 みんしゅとう を批判 ひはん する。民主党 みんしゅとう の領袖 りょうしゅう ベンジャミン・ラッシュ を痛撃 つうげき して文書 ぶんしょ 誹 そし 毀罪に問 と われ5000ドルの罰金 ばっきん を科 か せられたのに憤慨 ふんがい し、ニューヨーク に移 うつ り『ラッシュライトRushlight』という隔週 かくしゅう 誌 し を出 だ して毎号 まいごう をラッシュへの攻撃 こうげき で埋 う めた。この時期 じき にコベットはアメリカやイギリス・フランスで有名 ゆうめい になり、アメリカに滞在 たいざい していたタレイラン が交際 こうさい を求 もと めてきたことがある[2] 。
1800年 ねん に帰国 きこく して1803年 ねん に週刊 しゅうかん 新聞 しんぶん 『Political Register』を発刊 はっかん し、その年 とし に2つの訴訟 そしょう 事件 じけん を起 お こしたが読者 どくしゃ は増 ふ え続 つづ け、1816年 ねん には発行 はっこう 部数 ぶすう 4万 まん に達 たっ するようになる。この新聞 しんぶん はコベットが死 し ぬまで発刊 はっかん され、簡潔 かんけつ な名文 めいぶん で知 し られ、世論 せろん を喚起 かんき することではスコット 主筆 しゅひつ 時代 じだい の『マンチェスター・ガーディアン 』紙 し に並 なら ぶと言 い われた。1809年 ねん に上官 じょうかん 反抗 はんこう 事件 じけん を筆誅 ひっちゅう して動乱 どうらん 教唆 きょうさ 罪 ざい に問 と われ、1812年 ねん まで入獄 にゅうごく 。1817年 ねん には農村 のうそん 反乱 はんらん の中心 ちゅうしん と目 め され、人身 じんしん 保護 ほご 令 れい を停止 ていし されて逮捕 たいほ される直前 ちょくぜん にアメリカ に逃 のが れ、ロング・アイランド に住 す む。そこでも『Political Register』を発行 はっこう し定期 ていき 便 びん でイギリスに送 おく り、農園 のうえん を経営 けいえい し著述 ちょじゅつ に励 はげ みながら過 す ごし、1819年 ねん に帰国 きこく する。1832年 ねん に生 う まれ故郷 こきょう に近 ちか いサリー州 しゅう ノルマンディー(en )のアッシュに安住 あんじゅう の地 ち を定 さだ め、その年 とし の12月にオールダム 選出 せんしゅつ の下院 かいん 議員 ぎいん となる。風邪 かぜ をこじらせてアッシュで没 ぼっ する。
G. K.チェスタートン は、コベットの立場 たちば を「イギリス風 ふう で愛国 あいこく 的 てき なデモクラシーの匂 にお いをたたえた重 じゅう 農 のう 共和 きょうわ 主義 しゅぎ 」と表現 ひょうげん した。トーリー でもなくホイッグ とも違 ちが う主張 しゅちょう を展開 てんかい し、上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう に対 たい しては急進 きゅうしん 的 てき に過 す ぎ、農民 のうみん 生活 せいかつ を論 ろん ずる時 とき には保守 ほしゅ 的 まと となった。彼 かれ の理想 りそう は社会 しゃかい 的 てき 弱者 じゃくしゃ が共同 きょうどう 体 たい に庇護 ひご されていた「楽 たの しく古 ふる きイギリス」であり、普通 ふつう 選挙 せんきょ の獲得 かくとく や勤労 きんろう 者 しゃ の生活 せいかつ 改善 かいぜん への主張 しゅちょう はそこに由来 ゆらい する。農業 のうぎょう の技術 ぎじゅつ 改善 かいぜん にも積極 せっきょく 的 てき でトウモロコシ やルタバガ の栽培 さいばい を奨励 しょうれい した。
イングランド国教 こっきょう 会 かい の信徒 しんと だったが、「イギリスの制度 せいど の良 よ い点 てん はすべてカトリックに負 お う」と考 かんが え、カトリック教徒 きょうと 解放 かいほう 案 あん を熱心 ねっしん に支持 しじ した。アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の際 さい 『コモン・センス 』を書 か いた理 り 神 しん 論者 ろんしゃ トマス・ペイン とは宗教 しゅうきょう 観 かん が相容 あいい れなかったが、その政治 せいじ 論 ろん には感服 かんぷく していたのでロング・アイランドの共同 きょうどう 墓地 ぼち から遺骨 いこつ を掘 ほ り返 かえ し、故国 ここく に改葬 かいそう しようとしたこともある。結局 けっきょく はイギリスでも埋葬 まいそう が許 ゆる されず、コベットの生 い きている間 あいだ はその家 いえ に置 お かれたまま、彼 かれ の死 し とともに行方 ゆくえ 知 し らずとなったという[4] 。
金本位 きんほんい 復帰 ふっき 反対 はんたい 論 ろん ・奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 廃止 はいし 反対 はんたい ・農民 のうみん の産児 さんじ 制限 せいげん への反対 はんたい ・大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん への国庫 こっこ 支出 ししゅつ 反対 はんたい など暴論 ぼうろん に近 ちか いような発言 はつげん や提案 ていあん でさえ、コベットにとっての筋 すじ はあった。ウィリアム・ヘイズリット には、「原理 げんり を全然 ぜんぜん 欠 か いており、彼 かれ の主義 しゅぎ は反発 はんぱつ であり彼 かれ の天性 てんせい は否定 ひてい である」と酷評 こくひょう された[5] が、彼 かれ にとって旧 きゅう 敵 てき であった『ロンドン・タイムズ 』でさえ、コベットの死 し を報 ほう じて「彼 かれ のような人物 じんぶつ を生 う み出 だ せる国 くに はイギリスをおいてない」と書 か いている。生粋 きっすい のカントリーマンとしてのコベットは家庭 かてい では良 よ き夫 おっと 、良 よ き父 ちち であり、1827年 ねん に会見 かいけん したハイネ には消 き えがたい憎悪 ぞうお を抱 いだ かせ、チェスタートンやヒレア・ベロック 、アーサー・ペンティ(Arthur Penty)などには愛好 あいこう された。
コベットの議会 ぎかい での演説 えんぜつ は『Parliamentary Debates』16巻 かん (1803-11年 ねん )に収録 しゅうろく されている。
^ ダフ・クーパー『タレイラン評伝 ひょうでん ・上 うえ 』中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1979年 ねん 、P.103-105頁 ぺーじ 。
^ 寿 ことぶき 岳文 たかふみ 章 あきら 『この英国 えいこく 人 じん 』アテネ文庫 ぶんこ 、1949年 ねん 、P.44-45頁 ぺーじ 。
^ W.ヘイズリット『時代 じだい の精神 せいしん 』講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 、1996年 ねん 、P.345-346頁 ぺーじ 。
Robert Waters " Cobbett's English Grammar " (1883年 ねん )
G.D.H. Cole, " The Life of William Cobbett " (1924年 ねん )
G. K. Chesterton, " William Cobbett " (1925年 ねん ) ISBN 0-7551-0033-6
John Moore, " Country Men " (1935年 ねん )
Richard Ingrams, " The Life and Adventures of William Cobbett " (2005) ISBN 0-00-255800-9
Penny Young, "Two Cocks on the Dunghill - William Cobbett and Henry Hunt: their friendship, feuds and fights " (2009年 ねん )
G・M・トレヴェリアン『イギリス社会 しゃかい 史 し ・2』(1983年 ねん 、みすず書房 しょぼう )
J・R・グリーン『イギリス国民 こくみん 史 し 』(1968年 ねん 、鹿島 かしま 研究所 けんきゅうじょ 出版 しゅっぱん 会 かい )
W・ヘイズリット『時代 じだい の精神 せいしん 近代 きんだい イギリス超 ちょう 人物 じんぶつ 批評 ひひょう 』(1996年 ねん 、講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ )
寿 ことぶき 岳 たけし , 文章 ぶんしょう 『この英国 えいこく 人 じん 』弘文 こうぶん 堂 どう 〈アテネ文庫 ぶんこ 〉、1949年 ねん 。
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