ウィリアム・ステュークリ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィリアム・ステュークリ
リチャード・コリンズによる肖像しょうぞう
生誕せいたん (1687-11-07) 1687ねん11月7にち
ホルビーチ、リンカンシャー
死没しぼつ 1765ねん3月3にち(1765-03-03)(77さい
国籍こくせき イングランドとグレートブリテン
研究けんきゅう分野ぶんや 考古学こうこがく
出身しゅっしんこう コーパス・クリニティ・カレッジ、ケンブリッジ
おも業績ぎょうせき ストーンヘンジ
プロジェクト:人物じんぶつでん
テンプレートを表示ひょうじ

ウィリアム・ステュークリ (William Stukeley FRS, FRCP, FSA, 1687ねん11月7にち - 1765ねん3月3にち) はイギリス医師いし牧師ぼくし好古こうこストーンヘンジエーヴベリーといった先史せんし時代じだい遺跡いせき考古学こうこがくてき調査ちょうさ先駆さきがけた。古代こだい遺跡いせきみずかおとず調しらべたことで「おそらく考古学こうこがく訓練くんれんをした初期しょき先駆せんくしゃとしてもっと重要じゅうようである」[1] といわれている。国教こっきょうかいでの地位ちいドルイドかんがえへの興味きょうみむすけ、フリーメイソンにもさかんに参加さんかした。チャールズ・バートラム偽書ぎしょDescription of Britainをイギリスの歴史れきし学者がくしゃあいだ拡散かくさんさせてしまったことでもられる。アイザック・ニュートン友人ゆうじん1人ひとりであり、ニュートンの初期しょき伝記でんき作家さっか1人ひとりである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

リンカンシャーしゅうのホルビーチで弁護士べんごし子供こどもとしてまれた。生地きじ現在げんざい、ステュークリ・ホールというかれ名前なまえいた小学校しょうがっこうがある。ケンブリッジのコーパス・クリニティ・カレッジで医学いがく学士がくし取得しゅとくしたのち[2]ロンドンき、せいトマス大学だいがく医学いがく勉強べんきょうをした。1710ねんにリンカンシャーのボストンで開業かいぎょうし、友人ゆうじんのモーリス・ジョンソン2せい設立せつりつしたSpalding gentlemen's Societyの会員かいいんとなった。1717ねんにロンドンにもどった。同年どうねん王立おうりつ協会きょうかいのフェローとなり、1718ねんにロンドン考古こうこ協会きょうかい設立せつりつ参加さんかし、9年間ねんかんにわたり幹事かんじつとめた。1719ねん医学いがく博士はかせ取得しゅとくし、1720ねん英国えいこく医師いしかいのフェローとなり同年どうねん古典こてん文学ぶんがくへの最初さいしょ貢献こうけん出版しゅっぱんした。

ステュークリは上流じょうりゅう階級かいきゅう人物じんぶつがグランドマスター(グランドロッジのちょう)ににんじられて、上流じょうりゅう階級かいきゅうにフリーメーソンが人気にんきとなったときに、最初さいしょ入会にゅうかいした知識ちしきじん一人ひとりであった。1721ねん6がつ6にち日記にっき書評しょひょうには「わたし有名ゆうめいなダイビングエンジンをつくったロウ・キャプテンのコリンズと、タビストック・ストリートのサルテーション・タブでフリーメーソンになった」[3] とある。おなじところでかれなが歴史れきしなかでロンドンでそうなった最初さいしょひとであるとっている。儀式ぎしき実行じっこうするのに十分じゅうぶんなメンバーをつけることは非常ひじょう困難こんなんであり、その直後ちょくごに「フリーメーソンはし、そのメンバーのおろかさにいきした」。かれ日記にっき書評しょひょうあたらしくなったグランドロッジの題材だいざいかんする最初さいしょ情報じょうほうげんの1つである。

1722ねん8がつのストーンヘンジの内観ないかん
[4]

ステュークリの主要しゅよう業績ぎょうせきであるストーンヘンジとエーヴベリーの精巧せいこう記述きじゅつは1740ねんと1743ねんにある。これらは多元的たげんてき普遍ふへん最初さいしょのものであるとかんがえられている。また、古代こだい家父長制かふちょうせい宗教しゅうきょう人類じんるいのそもそもの宗教しゅうきょうであると提唱ていしょうした。これはその偶像ぐうぞう崇拝すうはいかんがえがると衰退すいたいした。ドルイドと初期しょきのクリスチャンはこの宗教しゅうきょうれいだとしんじていた[5]かれは「アーチ・ドルイド」としてられるようになった、ドルイドの遺骨いこつかんがえられていたものを豊富ほうふいた。ステュークリのストーンヘンジにかんする業績ぎょうせきはこれの年代ねんだい特定とくていしようとする最初さいしょのもののうちの1つである[6]有名ゆうめい天文学てんもんがくしゃエドモンド・ハレー協力きょうりょくし、ハレーはストーンヘンジをてた人々ひとびと地磁気ちじきについてっており、これをのきた磁極じきょく方向ほうこうわせているということを提唱ていしょうした。北極ほっきょく磁場じば変動へんどうかんする不完全ふかんぜんではあるデータを使用しようし、規則きそくてきなパターンで振動しんどうしたということを推定すいていした。今日きょうでは、きた磁極じきょく不規則ふきそくにさまよっていることがられている。ステュークリは、ストーンヘンジが紀元前きげんぜん460ねん完成かんせいしたと推定すいていし、現在げんざいかんがえられている年代ねんだいより、すうせんねんあたらしい推定すいていをした。

ステュークリがえがいたこの1722ねんのキッツ・コティー・ハウスの展望てんぼうのようなは、こん破壊はかいされてしまった遺跡いせき様々さまざま情報じょうほう提供ていきょうしてくれる。

1729ねんじょかいしき出席しゅっせきし、イングランドの教会きょうかい司祭しさいになった。かれはリンカンシャーしゅうで、スタンフォードのぜん聖人せいじん協会きょうかい教区きょうくふくむ2つのかたつづけていた。この教区きょうくで、かれまちうしなわれたエレノー・クロスを中心ちゅうしんにかなりのりょうのさらなる研究けんきゅうおこなった。1742ねんにハートフォードシャー、ロイストンのロイストンケーブをおとずれ、1ねんに"Palaeographia Britannica or discourses on Antiquities in Britain" のだい1かんOrigines Roystonianae, or an account of the Oratory of lady Roisia, Foundress of Royston discovered in Royston in August 1742 を出版しゅっぱんした。チャールズ・パーキン牧師ぼくし反応はんのうって続編ぞくへんであるだい2かんdefence of Lady de Vere, Foundress of Roiston, against the Calumny of Mr. Parkin, rector of Oxburgh wherein his pretendedでしたこたえは完全かんぜん論駁ろんばくされた。前者ぜんしゃ意見いけんはさらに確認かくにんされ説明せつめいされた。追加ついかされることがおおいが、おおくのこっとうひん古代こだいにおいて重要じゅうようである。

1746ねん、1646ねんチャールズ1せいオックスフォードからニューアークのスコットランドキャンプへのたび非常ひじょう丁寧ていねい説明せつめいした[7]

その、1747ねんロンドンのブルームスベリー教区きょうくクイーンスクウェアのひじりジョージ殉教者じゅんきょうしゃ教区きょうく牧師ぼくし任命にんめいされた (1765ねんまで) [8]。そこにいるあいだ、チャールズ・バートラムと連絡れんらくつづけ、100ねん以上いじょうにわたるローマ・ブリテンの主要しゅよう情報じょうほうげんとしての英国えいこく虚偽きょぎ説明せつめい最終さいしゅうてきにはれた。

ステュークリによるグロスター、ブラックフライアーズの1721ねん景観けいかん

アイザック・ニュートンと友人ゆうじんであり、1752ねんには回顧かいころくいている。これはニュートンの重力じゅうりょく理論りろん定式ていしきにインスピレーションをあたえたちるリンゴの物語ものがたり最初さいしょのソースの1つである[9]

脳卒中のうそっちゅうこしたのち、教区きょうく牧師ぼくし住居じゅうきょで1765ねん3がつ3にち死去しきょした 。生前せいぜんおとずれて休息きゅうそくとしてえらんだイーストハムのせいマリアマグダレン教会きょうかい墓碑ぼひなしにめられた[10]

ながあいだ、ブレーズノーズ協会きょうかいばれた文学ぶんがく歴史れきし組織そしきがスタンフォードスクールでさかえた。ここはかれちち兄弟きょうだい関係かんけいしており、ステュークリがスタンフォードのぜん聖人せいじん協会きょうかい教区きょうく牧師ぼくしのときに設立せつりつした名門めいもん協会きょうかい名前なまえちなんでいる。ロンドンのコヴェント・ガーデンにあるハイ・ホルボーンやドルリー・レーン交差点こうさてんちかくのとおりの名前なまえかれにちなんでいる。

引用いんよう[編集へんしゅう]

  1. ^ Hutton, Ronald (2009). Blood and Mistletoe: The History of the Druids in Britain. New Haven: Yale University Press. ISBN 0300144857 p. 86.
  2. ^ "Stukeley, William (STKY703W)". A Cambridge Alumni Database (英語えいご). University of Cambridge.
  3. ^ Stukeley, William (1980). The Commentarys, Diary, & Common-Place Book of William Stukeley & Selected Letters. London: Doppler Press. p. 54 
  4. ^ Stukeley, William (1740). Stonehenge, A Temple Restor'd to the British Druids. London: W. Innys and R. Manby. https://books.google.com/books?id=3psvezyqKpQC&printsec=frontcover&dq=william+stukeley 2008ねん4がつ9にち閲覧えつらん 
  5. ^ Source: Stonehenge, a Temple Restor'd, by Stukeley.
  6. ^ Hawkins, Gerald S. (1965). Stonehenge Decoded 
  7. ^ Brown 1904, p. 110.
  8. ^ Haycock 2004.
  9. ^ Newton's apple: The real story. New Scientist. (18 January 2010). https://www.newscientist.com/blogs/culturelab/2010/01/newtons-apple-the-real-story.php 2012ねん11月30にち閲覧えつらん. 
  10. ^ http://www.british-history.ac.uk/vch/essex/vol6/pp25-31

情報じょうほうげん[編集へんしゅう]

Attribution:

参照さんしょう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]