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ウォバーン・アビー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1816ねん時点じてんでの間取まど 図面ずめんうえひがし
A:本邸ほんていひがしつばさおよび北西ほくせい北東ほくとう部分ぶぶん荒廃こうはいしてしまった。 B:厩舎きゅうしゃとサーヴィス・ブロック。現在げんざいはウォバーン・アンティーク・センターとして利用りようされている。 C:馬術ばじゅつ練習れんしゅうしょとテニス・コート。荒廃こうはいした。 D:みなみ位置いちする長方形ちょうほうけい建物たてもの彫刻ちょうこく作品さくひんのギャラリー。現存げんそんする。1816ねん時点じてんでは玄関げんかん邸宅ていたくひがしもうけられていた。荒廃こうはいには西にし正面しょうめんのホールが玄関げんかん改造かいぞうされた。
アベイの西にし正面しょうめん
アベイのひがしサイド
もと中庭なかにわいている。

ウォバーン・アベイWoburn Abbey)は、イングランドベッドフォードシャーしゅうウォバーン付近ふきん存在そんざいするベッドフォード公爵こうしゃく邸宅ていたくカントリー・ハウス)。

ヘンリー8せいからジョン・ラッセル(ベッドフォードこうラッセル)にあたえられた不動産ふどうさん起源きげんはっし、18世紀せいきだい4だいベッドフォードこうジョン・ラッセルによってだい規模きぼ改修かいしゅうをうけた。だい3だいバーリントン伯爵はくしゃくリチャード・ボイル弟子でしにあたるヘンリ・フリッツクロフトヘンリー・ホランド設計せっけいによって工事こうじすすめられたが、だい世界せかい大戦たいせんのち発見はっけんされた建物たてもの内部ないぶ乾燥かんそう腐敗ふはいとメンテナンス不足ふそくによって建物たてものおおきな損傷そんしょうけた。1953ねんだい12だいベッドフォードこうヘイスティングス・ラッセル英語えいごばん死去しきょした時点じてんでは、本邸ほんてい部分ぶぶん半分はんぶんほどが荒廃こうはいしてしまっていた。

12だいこう死後しごだい13だいベッドフォードこうジョン・イアン・ロバート・ラッセル英語えいごばんにより1955ねんはじめて一般いっぱん公開こうかいされた。サファリパークなどが併設へいせつされた結果けっか非常ひじょう人気にんきあつおおくの観光かんこうきゃくにぎわった。かれ2002ねん11月にアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくサンタフェ死去しきょした。貴族きぞくからは格式かくしきたか邸宅ていたくテーマパーク堕落だらくさせたとして批判ひはんされていた13だいこうはコメントをもとめられて「わたし自身じしん諸氏しょしによる軽蔑けいべつあじわった記憶きおくがないが、他人たにんから見上みあげられるぐらいならば見下みさげられたほうがましだろう」とかたっていた。

13だいこうおもモンテカルロ生活せいかつしていたため、息子むすこ一般いっぱんにはタヴィストック侯爵こうしゃくとしてられただい14だいベッドフォードこうロビン・ラッセル英語えいごばんつまヘンリエッタ・チャークスとともに屋敷やしき管理かんりおこなっていた。

爵位しゃくいいだ翌年よくねん6がつに14だいこう死去しきょ息子むすこだい15だいベッドフォードこうアンドルー・イアン・ヘンリー・ラッセル英語えいごばん現在げんざいウォバーン・アベイを所有しょゆうしている。

だい7だいベッドフォードこうフランシス・ラッセルつまアンナ・マリアは、19世紀せいきイングランドにおいて午後ごご喫茶きっさ習慣しゅうかんはじめた人物じんぶつであるとされている。

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