ロベール・エスノー=ペルトリ

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エスノー・ペルトリから転送てんそう
Avion Esnault-Pelterie, 1906
Avion Esnault-Pelterie, 1906

ロベール・アルベール・シャルル・エスノー=ペルトリ(Robert Albert Charles Esnault-Pelterie、1881ねん11月8にち - 1957ねん12月6にち)はフランスの飛行機ひこうき設計せっけいしゃで、宇宙うちゅう飛行ひこうについても理論りろんてき研究けんきゅうおこなった人物じんぶつ日本語にほんご表記ひょうきエノー=ペルトリ、エスノー=ペルテリなどとも[1][2]

経歴けいれき業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

かれはパリで織物おりもの業者ぎょうしゃ息子むすことしてまれ、パリ大学だいがく理学部りがくぶFaculté des Sciences)で工学こうがくまなんだ。

航空こうくう分野ぶんやにおけるかれ最初さいしょ実験じっけんは、ライト兄弟きょうだい機体きたいならった複葉ふくようグライダー使用しようしていた。かれのグライダー設計せっけいたわみつばさもちいた操縦そうじゅう)はカレーちかくの海岸かいがん試験しけんされた。しかしかれ設計せっけい間違まちがった情報じょうほうもとづいており、失敗しっぱいわった。ライト兄弟きょうだい方法ほうほう見捨みすてたのちかれエルロンという着想ちゃくそう実現じつげんした。エルロンは(現代げんだいいたるまで)、飛行機ひこうきをロール(バンク)させるためのもっと標準ひょうじゅんてき構成こうせい要素ようそである。(エルロンの発明はつめいは、エスノー=ペルトリとは独立どくりつに、グレアム・ベル主導しゅどう航空こうくう実験じっけん協会きょうかい (Aerial Experiment Association, AEA) によっても達成たっせいされた。)

1906ねん、エスノー=ペルトリは牽引けんいんされた飛行ひこう実験じっけん開始かいしした。同年どうねん9がつ19にちに、かれは500メートルを飛行ひこうした。かれは、1907ねん10がつ10日とおかにはかれにとって最初さいしょ動力どうりょく、ペルトリ I(別名べつめいREP.1)で100メートルの飛行ひこうをしている。この飛行機ひこうきは7気筒きとう・30馬力ばりき空冷くうれいエンジンを使つかっていた。

単葉たんようペルトリ IIでの試行しこうは1908ねん7がつ8にち開始かいしした。この機体きたい飛行ひこう距離きょり1200メートル、高度こうど30メートルを記録きろくした。これの改良かいりょうがたを1909ねんランスばしたのち、エスノー=ペルトリは自分じぶんぶことをやめ、わりに飛行機ひこうき開発かいはつ製造せいぞうたるようになった。

エスノー=ペルトリの家族かぞくかれ飛行機ひこうき設計せっけい資金しきんるために過度かど投資とうしおこない、それはかれらを破産はさん寸前すんぜん状態じょうたいまでいやった。とはえ、エスノー=ペルトリが「操縦そうじゅう桿による飛行ひこう制御せいぎょ」("joy stick" flight control)の発明はつめいしゃであり、その特許とっきょっていたこともたしかである。だいいち大戦たいせんかれ操縦そうじゅう桿の特許とっきょかんする訴訟そしょうまれた。大戦たいせんちゅうつくられたおおくの飛行機ひこうきがこの設計せっけい使つかっており、複数ふくすう飛行機ひこうき会社かいしゃかれ特許とっきょりょう支払しはらいの義務ぎむっていたからである。った賠償金ばいしょうきん遡及そきゅうして支払しはらわれた使用しようりょうはエスノー=ペルトリを裕福ゆうふくにした。またこの大金たいきんにより、かれちちおこなった莫大ばくだい投資とうしむくいることができたのだった。

かれ宇宙うちゅう飛行ひこうにも興味きょうみち、ロケット飛行ひこうかんする方程式ほうていしき考案こうあんした最初さいしょ人物じんぶつとなった。かれ達成たっせいした業績ぎょうせきは、1930ねんに"L'Astronautique"として刊行かんこうされた。1934ねん改訂かいていばん惑星わくせいあいだ飛行ひこう詳細しょうさい原子力げんしりょく応用おうようについてもれていた。

1927ねん6がつ8にち、エスノー=ペルトリはフランス宇宙うちゅう航行こうこう協会きょうかい(the French Astronautics Society)で、ロケット推進すいしん使つかった大気圏たいきけんがい探検たんけんかんするシンポジウム"L'exploration par fusées de la très haute atmosphère et la possibilité des voyages interplanétaires"を開催かいさいした。ジャン=ジャック・バールはこの講演こうえん出席しゅっせきし、エスノー=ペルトリとロケットにかんする話題わだい文通ぶんつうするようになった。

1928ねん11月、かれはニューヨークきの遠洋えんよう定期ていきせんイル・ド・フランスごうじょうで、カルメン・デ・キロス(Carmen de Quiros)という女性じょせい結婚けっこんした。

1929ねん、エスノー=ペルトリは軍事ぐんじてき爆撃ばくげきかんして弾道だんどうミサイルという着想ちゃくそう提案ていあんした。1930ねんまでには、かれとジャン=ジャック・バールはこの構想こうそう研究けんきゅうはじめるようフランス軍務ぐんむしょう説得せっとくした。1931ねん二人ふたり多種たしゅ多様たようかた液体えきたい燃料ねんりょうタイプをふくむ)のロケット推進すいしんシステムで実験じっけん開始かいしした。おなねんかれはガソリンと液体えきたい酸素さんそうごくロケット・エンジンのデモンストレーションをおこなっている。テトラニトロメタン使つかうロケットの実験じっけんさいには、エスノー=ペルトリは、爆発ばくはつ右手みぎてゆびさんほんうしなった。不幸ふこうなことにかれらの研究けんきゅうはフランスではかえりみられることはなかった。

かれ趣味しゅみ乗馬じょうば、ゴルフ、キャンプ、自動車じどうしゃ運転うんてんすることなどであった。発明はつめいとしての生涯しょうがいとおして、かれ冶金やきんがくから自動車じどうしゃのサスペンションにいたるまでの広範こうはん分野ぶんややく120の特許とっきょ取得しゅとくした。かれは「操縦そうじゅう桿による飛行機ひこうき操縦そうじゅう」、そして新型しんがた燃料ねんりょうポンプ(fuel pump)の発明はつめいしゃである。かれはまたジンバルノズル(gimballed nozzle)によるロケットの制御せいぎょというアイディアのみのおやでもある。

伝記でんきてき資料しりょう[編集へんしゅう]

  • L'Astronautique, Paris, A. Lahure, 1930.
  • L'Astronautique-Complément, Paris, Société des Ingénieurs Civils de France, 1935.

叙勲じょくん記念きねん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ チャールズ・シンガー技術ぎじゅつ歴史れきし 9』筑摩書房ちくましょぼう、1975ねん
  2. ^ C・H・ギブズ=スミス『ライト兄弟きょうだい初期しょき飛行ひこう東京とうきょう図書としょ、1979ねん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]