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ライト兄弟きょうだい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィルバー・ライト
オーヴィル・ライト
FAAの免許めんきょしょううらえがかれたライト兄弟きょうだい

ライト兄弟きょうだい(ライトきょうだい、えい: Wright Brothers)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく出身しゅっしん動力どうりょく飛行機ひこうき発明はつめいしゃ[ちゅう 1]かつ世界せかいはつ飛行機ひこうきパイロット兄弟きょうだい自転車じてんしゃ[ちゅう 2]をしながら兄弟きょうだい研究けんきゅうつづけ、1903ねん世界せかいはつ有人ゆうじん動力どうりょく飛行ひこう成功せいこうした。

ただし、世界せかいはつというてんについてはグスターヴ・ホワイトヘッドによる1901ねん8がつはつ飛行ひこう世界せかいはつであるという指摘してきがある[1]

1906ねん万国ばんこく国際こくさいほう学会がっかいは、各国かっこく自衛じえいきょうされぬかぎり航空こうくう自由じゆうという原則げんそくった[ちゅう 3]。14たい9という多数決たすうけつ結果けっかは、航空こうくう技術ぎじゅつ熾烈しれつ競争きょうそうまねいた。機先きせんをとったかれらの特許とっきょを、フランスではラザール・ワイラー、アンリ・ドゥッシュ=ド=ラ=ムルトらがひきいるシンジケートが購入こうにゅうした[2]

連邦れんぽう航空局こうくうきょく(FAA)が発行はっこうするパイロットのライセンスカードの裏面りめんにはライト兄弟きょうだい肖像しょうぞうえがかれている。

LIFEが1999ねんえらんだ「この1000ねんもっと重要じゅうよう功績こうせきのこした世界せかい人物じんぶつ100にん」にえらばれた。

人間にんげん関係かんけい

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兄弟きょうだい

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デイトン市内しない保存ほぞんされているライト兄弟きょうだい自転車じてんしゃ

ウィルバー・ライトえい: Wilbur Wright)
1867ねん4がつ16にち - 1912ねん5月30にち

ライト三男さんなんでオーヴィルのあにインディアナしゅう東部とうぶちいさなむらミルビル英語えいごばん出身しゅっしん

オーヴィル・ライトえい: Orville Wright)
1871ねん8がつ19にち - 1948ねん1がつ30にち

ライトよんなんでウィルバーのおとうとオハイオしゅうデイトン出身しゅっしん

2人ふたり牧師ぼくしミルトン・ライト(1828ねん - 1917ねん)の息子むすことしてまれた。一家いっかにはに3にん兄妹きょうだい長兄ちょうけいルクラン(1861ねん - 1920ねん)、次兄じけいローリン(1862ねん - 1939ねん)、いもうとキャサリン(1874ねん - 1929ねん))がいたが、ははスーザンは結核けっかくにより1888ねん逝した。なおこのほかにもう2人ふたり兄弟きょうだいがいたが夭折ようせつしている(厳密げんみつには7兄弟きょうだいかんがえられる)。

兄弟きょうだい生涯しょうがいだい部分ぶぶんをデイトンでごした。グライダー実験じっけん最初さいしょ動力どうりょく飛行ひこうノースカロライナしゅうキルデビルヒルズませたのち飛行ひこう活動かつどうは、現在げんざいライト・パターソン空軍くうぐん基地きち敷地しきちないにあるハフマンプレーリー一般いっぱん見学けんがく可能かのう)を中心ちゅうしんおこなわれた。だがウィルバーの晩年ばんねんにはふたたびキルデビルヒルズで実験じっけんおこなった。

1909ねん兄弟きょうだいライトしゃ英語えいごばんえい: Wright Company) を創業そうぎょうするが、ウィルバーの死後しご1915ねんにオーヴィルは会社かいしゃ売却ばいきゃくしている。ライトしゃ最初さいしょグレン・L・マーティン・カンパニーおよびシンプレックス・オートモービルしゃ合併がっぺいしてライト=マーティンしゃになり、その、この会社かいしゃ航空機こうくうきようエンジンを主力しゅりょくとするライト・エアロノーティカルしゃとしてさい編成へんせいされた。1929ねんにライト・エアロノーティカルしゃとカーチス・エアロプレーン・アンド・モーター・カンパニーは統合とうごうして、巨大きょだいしん合併がっぺい会社かいしゃであるカーチス・ライトしゃ誕生たんじょうした[3]。カーチス・ライトしゃ航空機こうくうきよう部品ぶひんメーカーとして存続そんぞくしている。

ウィルバーは1912ねんちょうチフスのためデイトンの自宅じたく死去しきょした。オーヴィルは36ねん心臓しんぞう発作ほっさのためおなじくデイトンで死去しきょした(しくもかれ翌日よくじつにはジョン・T・ダニエルズ下記かき)が死去しきょしている)。2人ふたりはデイトンのウッドランド墓地ぼち英語えいごばん長兄ちょうけいルクラン[ちゅう 4]のぞ家族かぞくとも埋葬まいそうされている。2人ふたりとも女性じょせい興味きょうみがなく、生涯しょうがい独身どくしんだった。同性どうせい異性いせいわず性的せいてき接触せっしょくをした証拠しょうこつかっていないという[5]

いもうと

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キャサリン・ライト晩年ばんねん1926ねん11月20にち結婚けっこんしてキャサリン・ライト・ハスカルとなる)は、ライト兄弟きょうだい唯一ゆいいついもうとにして、かれらのアシスタントてき存在そんざいだった。1889ねん母親ははおや逝したとき、彼女かのじょ家族かぞくでは唯一ゆいいつ女性じょせいとして世帯せたい責任せきにんいだ。オーバリン大学だいがくえい: Oberlin College)を卒業そつぎょう、スティール高校こうこうえい: Steele High School)で教師きょうしとしてはたらく。家事かじ手伝てつだいをするために、彼女かのじょなんじゅうねん家族かぞく一緒いっしょにいたメイド、キャリー・カイラーをやとった。ウィルバーとオーヴィルはキティーホークでいえはなれ、そのヨーロッパとワシントンDCで時間じかんごすと、キャサリンはいえはなれ、家族かぞく故郷こきょうのニュースと並行へいこうしてかれらにつね書簡しょかんいた。彼女かのじょ定期ていきてき書簡しょかんおくっていないときにかれらをしかって、ヨーロッパにいるときに「気晴きばらし」を警告けいこくした。ウィルバーはキャサリンにオービルと一緒いっしょにフランスにくようにたのみ、1909ねんにポー、ピレネー=アトランティックでくわわる。彼女かのじょはすぐに社会しゃかいてき場面ばめん支配しはいし、悪名あくめいたかずかしがる兄弟きょうだいよりもはるかに魅力みりょくてきになっている。ウィルバー死亡しぼう1912ねん、ライトカンパニーの役員やくいんになるが、同社どうしゃ1915ねんにオーヴィルによって売却ばいきゃくされた。

1926ねん11月20にちにヘンリー・ジョセフ・ハスケル(えい: Henry Joseph Haskell)と結婚けっこんするが、オーヴィルは式典しきてん出席しゅっせきすることを拒否きょひ彼女かのじょ結婚けっこん2ねん、キャサリンは肺炎はいえんかかった。 オーヴィルがったとき、かれはまだ彼女かのじょ連絡れんらくすることをこばんだ。 かれらのあにローリンはかれ彼女かのじょ訪問ほうもんするように説得せっとくし、彼女かのじょんだときにかれはベッドサイドにいた。キャサリンは1929ねん3月3にちに54さい死亡しぼうした。

時代じだい背景はいけい

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とき19世紀せいきすえ、すでにりくには蒸気じょうき機関きかんしゃくるまはしり、うみかわでは蒸気じょうきせん航行こうこうし、そして最初さいしょ有人ゆうじん飛行ひこうをしたモンゴルフィエ兄弟きょうだいはじまるねつ気球ききゅうから派生はせいした飛行船ひこうせん存在そんざいした。しかし、「空気くうきよりおも飛行機ひこうき」の動力どうりょく飛行ひこうまった発展はってん途上とじょうにあった。

唯一ゆいいつ手掛てがかりとしてジョージ・ケイリーグライダーもとオットー・リリエンタールによって研究けんきゅうすすめられていた。しかし当時とうじはまだハイラム・マキシムひとしおおくの研究けんきゅうただしい飛行ひこうのための理論りろん確立かくりつするにいたらず依然いぜんとして暗中模索あんちゅうもさくつづいていた時代じだいだった。

1896ねんのリリエンタールの事故死じこし、これを皮切かわきりにライト兄弟きょうだい飛行機ひこうき完成かんせいさせることをかんがえ、これが史上しじょうはつ動力どうりょく飛行ひこう成功せいこうけてのきっかけとなり、時代じだいあらたにひら成功せいこうへのいちとなった。

実績じっせき

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有人ゆうじん動力どうりょく飛行ひこう成功せいこう

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兄弟きょうだい1903ねん12月17にちノースカロライナしゅうキティホーク近郊きんこうにあるキルデビルヒルズにて12馬力ばりきのエンジンを搭載とうさいしたライトフライヤーごうによって有人ゆうじん動力どうりょく飛行ひこう成功せいこう[6]兄弟きょうだいはつ飛行ひこう成功せいこうしたとき写真しゃしんは、2人ふたり撮影さつえいたのまれた観客かんきゃく一人ひとり地元じもと海難かいなん救助きゅうじょ所員しょいんジョン・T・ダニエルズったもので、合計ごうけい4かい飛行ひこうこころみられた。

  • 1かい: 12びょう、120ftやく36.5m
  • 2かい: 12びょう、175ft(やく53.3m)
  • 3かい: 15びょう、200ft(やく60.9m)
  • 4かい: 59びょう、852ft(やく259.6m)[ちゅう 5]

見落みおとされがちであるが、この飛行ひこう強風きょうふうく(理由りゆう後述こうじゅつかれらの実験じっけんじょうふうかってんだ記録きろくであることに(もしそれ以前いぜんの「跳躍ちょうやく」とみなされている他者たしゃによる実験じっけん比較ひかくするときなどには)注意ちゅうい必要ひつようである。たいてき距離きょり対地たいちてき距離きょりよりももっとながい。

オーヴィルが写真しゃしん技術ぎじゅつっていたため記録きろく写真しゃしんおおられていたが[8]1913ねんのグレートマイアミがわ洪水こうずいでかなりのかず乾板かんぱん損傷そんしょうした。のこったものは、アメリカ議会ぎかい図書館としょかんのライト兄弟きょうだいアーカイブ[9]保管ほかんされている。

それまでの他者たしゃによる飛行ひこうこころみのおおくが跳躍ちょうやくかその延長えんちょうのものでしかなかったのにたいして、主翼しゅよくをねじることによって制御せいぎょされた飛行ひこうおこない、飛行機ひこうき実用じつようみちひらいた。しかし、当初とうしょ世間せけんはこれを理解りかいしないどころかむしろ冷淡れいたんであり、国内こくないでは様々さまざま事情じじょうから特許とっきょけん関係かんけい問題もんだいきつけられたりさえしていた。

ノースカロライナしゅうキルデビルヒルズ砂丘さきゅうにおけるはつ飛行ひこう1903ねん12月17にち)。操縦そうじゅうしゃはオーヴィル。よこにいるのはウィルバーで、離陸りりく滑走かっそうあいだ地面じめんれないようにささえていたつばさはしはなしている。この飛行ひこうていた観客かんきゃくはわずか5にんであった。

成功せいこうのポイント

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ライト兄弟きょうだいは、大勢おおぜい失敗しっぱいしていたのに如何いかにして成功せいこうできたのかという質問しつもんたいしては、たしかなこたえをっていなかった。本物ほんもの天才てんさいだからというのがこたえだろうとわれても、ウィルバーはそれを否定ひていし、つぎのようにっている。「わたしには、個々ここではそれほど重要じゅうようではないほか要因よういんすうせんにもわさって、たんなる知的ちてき能力のうりょく発明はつめいざいよりも10ばい以上いじょうつよ影響えいきょうあたえているようにおもえる。もし時間じかんもどっても、自分じぶんたちがおこなってきたことをふたた自分じぶんたちで実行じっこうできる可能かのうせいまったくないだろう。それは、偶然ぐうぜん出来事できごと奇妙きみょうわさったおかげであり、二度にどこらないかもしれない」[10]

航空こうくう分野ぶんや歴史れきしたちはそれでも成功せいこう理由りゆうさぐろうとしてきた。

チーム・ライト兄弟きょうだい実質じっしつてきなリーダーであったあにウィルバーは、両親りょうしんがイェール大学だいがくへの進学しんがく期待きたいした勉学べんがくとスポーツの両方りょうほう優秀ゆうしゅう学生がくせいであった。しかし、アイスホッケーでだい怪我けがってからうつびょう発症はっしょうし、自宅じたくきこもり生活せいかつおくっていた。大学だいがくへの進学しんがく断念だんねんした。おとうとオーヴィルの印刷いんさつぎょう手伝てつだい、ながれにまかせた人生じんせいおくっていたが、ウィルバーは人生じんせいおおきなチャンスがまだ未来みらいにあるかもしれないとつねかんがえていた。したがって、ウィルバーの深層しんそうおもいでは、自分じぶん一般いっぱん大衆たいしゅうからきんるための手段しゅだんとして実用じつようてき飛行機ひこうき追求ついきゅうしていた。すで社会しゃかいてき成功せいこうおさめて、興味きょうみ投資とうし理由りゆう飛行機ひこうき開発かいはつしてきたライバルたちにはない、容易ようい退却たいきゃくできないという感情かんじょうを、ウィルバーはいていた[11]

技術ぎじゅつしゃとしてると、あにウィルバーとおとうとオーヴィルは、まったくことなるタイプの技術ぎじゅつしゃであった。あにウィルバーは飛行機ひこうき全体ぜんたいて、バランス、力学りきがくてき動作どうさ安定あんていせいおもえがき、飛行機ひこうきをシステムとしてかんがえることにけた技術ぎじゅつしゃだった。他方たほうおとうとオーヴィルはドライバーやペンチをにぎることを渇望かつぼうし、機械きかい要素ようそ細々こまごまとした細部さいぶ観点かんてんからかんがえることにけた技術ぎじゅつしゃだった。ライト兄弟きょうだい自分じぶんたちの相違そういてん理解りかいしていたし、それが、兄弟きょうだい成功せいこうした秘訣ひけつひとつであった。二人ふたりのどちらもが、他方たほう長所ちょうしょたよりとして自分じぶん短所たんしょおぎなう、そうした心構こころがまえができていた[12]

ライト兄弟きょうだいたがいに議論ぎろんすることにおおきなよろこびをかんじていた。ウィルバーはつぎのようにべている。「オーヴィルと喧嘩けんかをするはじつにいい。本当ほんとうにオーヴィルは喧嘩けんかきなおとこだ」[13]。オーヴィルもつぎのようにっている。「議論ぎろんながくなると、馬鹿ばかげたことにいつのにかたがいの主張しゅちょうぎゃくになっていて、しかも議論ぎろんはじまったときから意見いけん一致いっちなにもない」。それをていたライト自転車じてんしゃてん機械きかいこう(チャーリー・テイラー)はつぎのようにっている。「両者りょうしゃとも感情かんじょうてきだった。おたがいに大声おおごえしてひどいことをっていた。本当ほんとうおこっていたとはおもわないが、あつくなっていたのはたしかだ」。ライト兄弟きょうだいはげしくいいながら、真実しんじつ核心かくしんかびがってくるまで、一種いっしゅ口頭こうとう速記そっきのようにもとはやくアイデアをぶつけっていた[14]

ライト兄弟きょうだいは、飛行機ひこうき開発かいはつした最初さいしょに、すなわち最初さいしょの1899ねんだこ段階だんかいで、すで正解せいかいていた。自転車じてんしゃ趣味しゅみとしていた経験けいけんからバンク旋回せんかい必要ひつようせいづいて、ロール運動うんどう手段しゅだんとしてたわみつばさ考案こうあんした。その結果けっかだいいち世界せかい大戦たいせん主力しゅりょく構成こうせいであった、矩形くけいつばさ複葉ふくよう構成こうせい採用さいようしており、しかもたわみつばさをたわませる仕組しくみにとって矩形くけいつばさ複葉ふくよう構成こうせいがほぼ必須ひっすであったため、つばさ形状けいじょう(コウモリのようなつばさ)やつばさ構成こうせい昆虫こんちゅうのようなつばさ)をためすなどして技術ぎじゅつてき迷走めいそうする余地よちがなかった[15]

それまでおおくの研究けんきゅうしゃ飛行ひこうへの挑戦ちょうせんがことごとく失敗しっぱいかさねてたのにたい[ちゅう 6]、ライト兄弟きょうだい当時とうじとしてはきわめて高度こうど科学かがくてき視点してんから飛行ひこうのメカニズムを解明かいめいし、また同時どうじ技術ぎじゅつてき工学こうがくてき着実ちゃくじつ手法しゅほうった。風洞ふうどう実験じっけんによってたデータをもとなんかのグライダー試作しさく作成さくせい一歩一歩いっぽいっぽ堅実けんじつ飛行機ひこうき改良かいりょうおこなった。研究けんきゅう初期しょきには、当時とうじ飛行機ひこうき開発かいはつ最先端さいせんたんおこなっていたサミュエル・ラングレー教授きょうじゅ所属しょぞくするスミソニアン協会きょうかいから研究けんきゅう資料しりょう提供ていきょうけていた[16]

グライダーによる実験じっけん回数かいすうリリエンタールらにくらべてはるかに上回うわまわり、おおくの実験じっけんデータを収集しゅうしゅうするとともに飛行ひこう技術ぎじゅつにつけることができた。グライダーを基礎きそにまず操縦そうじゅう研究けんきゅうして、みずからそのパイロットになってから動力どうりょく追加ついかするのがかれらの戦略せんりゃくであり、他者たしゃのプロジェクトは動力どうりょく機体きたい製作せいさくしか眼中がんちゅうになかったと本人ほんにんたちがべている[17]

兄弟きょうだい成功せいこう先立さきだ1903ねん10月7にち12月8にちの2兄弟きょうだいおしえをうたサミュエル・ラングレー教授きょうじゅ飛行機ひこうきエアロドローム飛行ひこうテストを実施じっししたが、どちらも機体きたいつことなくかわ転落てんらくした。スミソニアン協会きょうかい会長かいちょう地位ちいにあり、アメリカ政府せいふ援助えんじょのもと主導しゅどうした実験じっけん失敗しっぱいはラングレー晩節ばんせつ評価ひょうかとした。ラングレー教授きょうじゅのプロジェクトは、まず無人むじん動力どうりょく飛行機ひこうき実験じっけんおこない、つぎ有人ゆうじん動力どうりょく飛行機ひこうき飛行ひこうさせるというものであり、パイロットにとっては「ぶっつけ本番ほんばん」をいられるものであった。

飛行ひこう記録きろくからするとオーヴィルのほう操縦そうじゅうけていたようである[ちゅう 7]兄弟きょうだい実験じっけん回数かいすうやすために「安定あんていした強風きょうふういている場所ばしょ」を気象台きしょうだいわせ、故郷こきょうからとおはなれたキティホークをその場所ばしょえらんでいた。安定あんていした強風きょうふう必要ひつようだったのは、グライダーをたこのように繋留けいりゅうさく空中くうちゅう固定こていして、安全あんぜんかつ安定あんてい実験じっけんをするためである(リリエンタールはふうがどの方向ほうこうからいてもいいように人工じんこうおかつくった。また墜落ついらくいのちとした)。

また、兄弟きょうだい自転車じてんしゃてん経営けいえいすることで研究けんきゅう必要ひつよう資金しきん自弁じべんできたじょう[ちゅう 8]自転車じてんしゃ技術ぎじゅつ活用かつようすることも可能かのうであった。たとえば2のプロペラはチェーン駆動くどうであり、回転かいてんきを左右さゆうぎゃくにしてトルクをすためにチェーンを片方かたがた交差こうさするなどしている。

一方いっぽうかれらの機体きたい機体きたい前方ぜんぽう水平すいへい安定あんていばんけん昇降しょうこうかじがあるなど、安定あんていせいめん問題もんだいもあり、実際じっさい後年こうねん再現さいげんプロジェクトはそのてん苦労くろうしている。しかしながら、安定あんていせい操縦そうじゅう応答おうとう両立りょうりつしないため、ライト兄弟きょうだい操縦そうじゅう応答おうとうさい優先ゆうせんした飛行機ひこうき飛行ひこうしてこそ、本物ほんもの飛行ひこうであるというつよ信念しんねんっていた。そしてたんなる精神せいしんろんだけでなく、兄弟きょうだい滑空かっくう飛行ひこうかえ操縦そうじゅう熟練じゅくれんしたことによって、成功せいこうた。

後年こうねん復元ふくげん検証けんしょう

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ライト兄弟きょうだいはつ飛行ひこう100周年しゅうねんにむけて、ライトフライヤーごう復元ふくげんする研究けんきゅうがいくつかおこなわれたが、コンピュータシミュレーションでは姿勢しせい安定あんていせずに普通ふつうべず[ちゅう 9]完成かんせいした復元ふくげんいたっては離陸りりくすらできなかった[18][ちゅう 10]。ライト兄弟きょうだい成功せいこうしたのは当日とうじつ強風きょうふう[ちゅう 11]と、それをものともしない兄弟きょうだい操縦そうじゅう技術ぎじゅつのおかげだという見解けんかいもある。

成功せいこうへの反発はんぱつ

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ライト兄弟きょうだい実験じっけん成功せいこうしたが、世間せけんはこれを信用しんようをしないばかりかこぞって反発はんぱつした。サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく陸軍りくぐんジョンズ・ホプキンズ大学だいがく数学すうがく天文学てんもんがく教授きょうじゅサイモン・ニューカムなどかく大学だいがく教授きょうじゅ、そのアメリカの科学かがくしゃ新聞しんぶんとうでライト兄弟きょうだいこころみに「機械きかいぶことは科学かがくてき不可能ふかのう」というむね記事きじやコメントを発表はっぴょうしていた。

実際じっさいのところ、ライト兄弟きょうだい信条しんじょうがこのような状況じょうきょうまねいていた。ライト兄弟きょうだい世間せけん流儀りゅうぎ仲間なかまたちの動機どうき信用しんようしていなかった。飛行機ひこうき公開こうかい飛行ひこうおこなえば、その機会きかいじょうじてライバルは自分じぶんたちの技術ぎじゅつぬすむとかんがえていた。飛行機ひこうき販売はんばい契約けいやく完了かんりょうするまでは、たとえ購入こうにゅう可能かのうせいのあるひとでも飛行ひこうたりにすることも、飛行機ひこうきることさえも、ゆるされなかった。さらに、取引とりひきむまで、いかなる種類しゅるい写真しゃしん図面ずめん技術ぎじゅつてき解説かいせつ利害りがい関係かんけいしゃ提供ていきょうされなかった。ライト兄弟きょうだいは、自分じぶんたちの正直しょうじき言葉ことばしんじないのは自分じぶんたちにたいする侮辱ぶじょくだとかんがえた。つまり、言葉ことばだけで理解りかいしてもらえることを期待きたいしていた[19]

ぎゃく後年こうねんヘリコプター実用じつようせい議論ぎろんされるようになった時期じき、オーヴィルは1936ねん書簡しょかんちゅうで「ヘリコプターには根本こんぽんてき問題もんだいがある」、「ヘリコプターの開発かいはつには資金しきんがかかりすぎるうえ商用しょうようせいもおぼつかないのでだれもとりかかられないだろう」といている。

飛行ひこう成功せいこう苦悩くのうたたか

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空気くうきよりもおも機械きかいもちいた飛行ひこう実用じつよう技術ぎじゅつ開発かいはつしゃ」と裁判所さいばんしょにもみとめられたライト兄弟きょうだいかまえていたものは、かならずしも栄光えいこうではなかった。

ライト兄弟きょうだい成功せいこう飛行ひこう技術ぎじゅつかんする特許とっきょ取得しゅとくは、飛行機ひこうき兵器へいきとして注目ちゅうもくされていたこともあり、あらそいやねたみの対象たいしょうにもなった。とく兄弟きょうだいにあからさまな敵意てきいける2人ふたり人物じんぶつがいた。その1人ひとりチャールズ・ウォルコットである。有人ゆうじん動力どうりょく飛行ひこう失敗しっぱいしたラングレーののちいでスミソニアン協会きょうかい会長かいちょう地位ちいいたかれは、民間みんかんじんであるライト兄弟きょうだい偉業いぎょうけっしてみとめず、スミソニアン博物館はくぶつかん航空こうくうに「ライトフライヤーごう」を一切いっさい展示てんじしなかった。もう1人ひとりグレン・カーチスである。うで飛行ひこうだったかれは、航空こうくう会社かいしゃ設立せつりつし、なにかとライト兄弟きょうだい特許とっきょかんして係争けいそうした。しかし、冒頭ぼうとう裁判所さいばんしょ判断はんだんもあり、ことごとく敗訴はいそしていた。

カーチスはライト兄弟きょうだいのパイオニアたる地位ちい否定ひていすれば特許とっきょについて有利ゆうり立場たちばになれるとかんがえていた。カーチスはウォルコットとむす資金しきん援助えんじょて、1914ねん5月と6がつにラングレーのエアロドロームさい飛行ひこう実験じっけんおこない成功せいこうした。ところが、じつはエアロドロームにはカーチスのにより35箇所かしょもの改造かいぞうくわえられており、もはやまったくの別物べつものになっていた。実験じっけん結果けっかけ、ウォルコットはスミソニアン協会きょうかい年次ねんじ報告ほうこくに「はじめてべる飛行機ひこうきつくったのはラングレー」との声明せいめい発表はっぴょう丁寧ていねい1903ねん当時とうじ形状けいじょうもどしたエアロドロームを、人間にんげんせて飛行ひこう可能かのう世界せかいはつ飛行機ひこうき表示ひょうじしてワシントン国立こくりつ博物館はくぶつかん展示てんじした。すでにあにくしていたおとうとオーヴィルは抗議こうぎしたが協会きょうかい一切いっさい無視むし、それどころか年次ねんじ報告ほうこく執拗しつようなまでに声明せいめいぶんかえ掲載けいさいした。そのため、一般いっぱんにも世界せかいはつ飛行ひこう成功せいこうしたのはラングレーだとおもものえた。

このような不毛ふもうあらそいの最中さいちゅうに、飛行ひこう技術ぎじゅつ急速きゅうそく進歩しんぽしていき、ライト兄弟きょうだい特許とっきょ飛行ひこう技術ぎじゅつ陳腐ちんぷしていった。いちれいとして、ロール制御せいぎょ手段しゅだんとしてのたわみつばさは、補助ほじょつばさというより完成かんせいたかいものに進歩しんぽしていた。1908ねんにはフランスのシャンパーニュ地方ちほうランス (マルヌけん)で、世界せかい最初さいしょ飛行ひこう大会たいかい(シャンパーニュだい航空こうくう週間しゅうかん)が開催かいさいされた。この大会たいかいではアンリ・ファルマン飛行ひこう時間じかんユベール・ラタム高度こうどルイ・ブレリオ速度そくどかく部門ぶもん優勝ゆうしょうしゃとなった(今日きょう飛行機ひこうき形態けいたい完成かんせいしたのは、かれらの機体きたいであった)。グレン・カーチスはこの大会たいかい出場しゅつじょうし、優勝ゆうしょうこそのがすもめざましい成績せいせきしめした。

ライト兄弟きょうだいはこの飛行ひこう大会たいかい参加さんかしなかった。飛行機ひこうき発明はつめいしゃであるライト兄弟きょうだいは、自分じぶんたちの特許とっきょけん侵害しんがいしゃたちときそうことを拒否きょひしていたからだった。しかし、勝利しょうり確信かくしんできなくなっていた兄弟きょうだいは、公開こうかい競技きょうぎでライバルたちとうことで、自分じぶんたちの名声めいせい危険きけんにさらすのはおろかだとかんがえた可能かのうせいがある[20]

ライト兄弟きょうだい機体きたいには、おくれて登場とうじょうしたほか飛行機ひこうきくらべておおきな欠点けってんがあった。操縦そうじゅう応答おうとうせい優先ゆうせん安定あんていせいきわめてひくいこと。離陸りりくさいにレールを必要ひつようがあること。プロペラがチェーン駆動くどうであるため、エンジン出力しゅつりょく向上こうじょう限界げんかいがあったこと。1910ねんにライト兄弟きょうだいはライトBがた完成かんせいさせる。これは水平すいへい尾翼びよく機体きたい後部こうぶうつして安定あんていせいたかめ、車輪しゃりん装備そうびしレールを必要ひつようくしたものであったが、チェーン駆動くどうだけは相変あいかわらずであった。1911ねん9月17にちカルブレイス・ペリー・ロジャーズという飛行ひこうが、このライトBがた小型こがたしたEXがたって、はつアメリカ大陸あめりかたいりく横断おうだん飛行ひこういどんだ。しかしなん墜落ついらくかえし、目的もくてきにたどりいたのは11月5にち部品ぶひん交換こうかん修理しゅうりかえした結果けっか出発しゅっぱつおな部品ぶひん尾翼びよく主翼しゅよくささえる支柱しちゅうのみで、出発しゅっぱつおな機体きたいとはとてもえない内容ないようであった。そんななか失意しつい法廷ほうてい闘争とうそう疲労ひろうもあり、ウィルバーは1912ねんちょうチフスで死去しきょした。ウィルバーのの4ねん、オーヴィルは飛行機ひこうき製造せいぞうからく。

しかし、ライト兄弟きょうだい世界せかい最初さいしょ有人ゆうじん動力どうりょく飛行ひこうおこなったことを、たか評価ひょうかするもの存在そんざいした。ることなくマサチュまさちゅセッツ工科大学せっつこうかだいがく倉庫そうこ保管ほかんされていたライトフライヤーごうおもわぬもうとどいた。ロンドン科学かがく博物館はくぶつかん展示てんじしたいとオーヴィルに希望きぼうせてきた。スミソニアン協会きょうかい名誉めいよ総裁そうさいおくった、エアロドロームさい飛行ひこう実験じっけんたいする調査ちょうさ要請ようせい書簡しょかん無視むしされたのを最後さいご見定みさだめ、オーヴィルはロンドンからのもうれを受諾じゅだく1928ねんライトフライヤーごうイギリスわたった。

イギリス旅行りょこうたアメリカじんは「何故なぜライトフライヤーごうがこんなじょうにあるのか?」とおどろいた。それはやがて世論せろんとなり、スミソニアン協会きょうかいもいつまでも無視むしするわけにはいかなくなってきた。ウォルコットの死後しご1928ねん会長かいちょうしょくいでいたチャールズ・アボットはオーヴィルと面談めんだんし、ライトフライヤーごうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくもどすよう要請ようせいした。それにたいするオーヴィルの条件じょうけんは、ただ「歴史れきしただしく修正しゅうせいする」ことのみであった。

アボットは、玉虫色たまむしいろ妥協だきょうてん見出みいだそうとしたが、オーヴィルはけっしてゆずらず、1942ねんついにスミソニアン協会きょうかい声明せいめい発表はっぴょう。ライト兄弟きょうだい偉業いぎょうみとめ、1914ねん実験じっけん否定ひていし、最後さいご部分ぶぶんでは兄弟きょうだい陳謝ちんしゃした。オーヴィルはこの声明せいめいたいして公式こうしきには反応はんのうだったが、ロンドンの科学かがく博物館はくぶつかん館長かんちょう手紙てがみおくり、戦争せんそうわって大西洋たいせいようえて安全あんぜん輸送ゆそうできるようになったら、飛行機ひこうき返還へんかんしてしいことをつたえた。さらに、動力どうりょく飛行ひこう40周年しゅうねんいわってワシントンで開催かいさいされる祝宴しゅくえんで、フランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょう列席れっせきした自分じぶん決定けってい発表はっぴょうすることを計画けいかくした。しかし、ルーズベルトが出席しゅっせきできなくなったため、オーヴィルも発表はっぴょうしなかった。科学かがく博物館はくぶつかんへの手紙てがみ公表こうひょうされなかった。さらに、オーヴィルは1948ねん1がつ30にちに76さい死去しきょした。したがって、ライトフライヤーごうがアメリカへ帰国きこくすることはないとおもわれていた。ところが、オーヴィルは自分じぶん遺言ゆいごんしょつぎのようにいていた。「1903ねん12月17にちにノースカロライナしゅうキティホークで飛行ひこうしたライト飛行機ひこうき現在げんざいはイギリスのロンドン科学かがく博物館はくぶつかん所在しょざいする)を、首都しゅとのみでの展示てんじのために、ワシントンDCの合衆国がっしゅうこく国立こくりつ博物館はくぶつかん寄贈きぞうする」[21]

ライトフライヤーごうがアメリカにもどってワシントン国立こくりつ博物館はくぶつかん国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん)に展示てんじされたのははつ飛行ひこう成功せいこうからちょうど45ねんった1948ねん12月17にちであった。盛大せいだい展示てんじ除幕じょまくしきおこなわれた。展示てんじされたライトフライヤーごう説明せつめいきにはつぎのようにかれている。「実物じつぶつのライト兄弟きょうだい飛行機ひこうきひと操縦そうじゅうして持続じぞくてき自由じゆう飛行ひこうおこなった、世界せかいはつ空気くうきよりおも動力どうりょく飛行機ひこうきである。ウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトが発明はつめいし、製造せいぞうして、1903ねん12月17にちにノースカロライナしゅうキティホークで飛行ひこうした。ライト兄弟きょうだい独創どくそうてき科学かがく研究けんきゅうにより、発明はつめいしゃ製造せいぞうしゃ飛行ひこうとして人類じんるい飛行ひこうする原理げんり発見はっけんした。兄弟きょうだいはさらに飛行機ひこうき開発かいはつおこない、人々ひとびと飛行ひこう方法ほうほうおしえて、航空こうくう時代じだいひらいた」[22]

晩年ばんねんのオーヴィルには、飛行機ひこうき発明はつめいしたことを後悔こうかいするむね言動げんどうがある。1942ねんにオーヴィルはヘンリー・フォードたいして、自分じぶん動力どうりょく飛行機ひこうき発明はつめいしたことをいる内容ないよう手紙てがみおくり、1943ねんにアメリカ特許とっきょきょく設立せつりつ150周年しゅうねん記念きねん行事ぎょうじ参加さんかしたさいには、最近さいきん100年間ねんかんじゅうだい発明はつめいなにかとわれ、あえて飛行機ひこうきをそのなかから除外じょがいしている[23]だい世界せかい大戦たいせんかんし、飛行機ひこうきがもたらした破壊はかい残念ざんねんおもうとべた[24]

事故じこ

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墜落ついらくしたオーヴィル操縦そうじゅうのライトフライヤー

オーヴィルは、世界せかいはじめて飛行機ひこうき事故じここした人物じんぶつとしてもられている[ちゅう 12]

1908ねん9月17にちバージニアしゅうアーリントンぐん陸軍りくぐん基地きちであるフォート・マイヤー英語えいごばんでオーヴィルが操縦そうじゅうするライトフライヤーがデモフライトちゅう墜落ついらく同乗どうじょうしていたトーマス・セルフリッジ英語えいごばん陸軍りくぐん中尉ちゅうい死亡しぼうし、オーヴィルも重傷じゅうしょうった。また、セルフリッジは飛行機ひこうき事故じこはつ犠牲ぎせいしゃとなった。

受賞じゅしょうれき

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関連かんれん作品さくひん

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  • 大空おおぞらへの挑戦ちょうせん ライト兄弟きょうだい(1978ねん

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ブラジル文部もんぶ文化ぶんかしょう公式こうしき見解けんかいでは、ライト兄弟きょうだいに3ねんおくれてはつ飛行ひこうたしたアルベルト・サントス=デュモンこそが飛行機ひこうき発明はつめいしゃであり、これを公式こうしき宣言せんげんしたフランス航空こうくう協会きょうかい賞状しょうじょう存在そんざいする。ライト兄弟きょうだい秘密ひみつ実験じっけんだったのにたいしてサントス・ドュモンは公開こうかい試験しけん成功せいこうさせたとしている。さらにライト兄弟きょうだいはつ飛行ひこう斜面しゃめんくだり、カタパルトをもちいていたとしている。このようなせつブラジルではひろしんじられているが、それは史実しじつはんする。45馬力ばりきのエンジンを搭載とうさいしたサントス・デュモンの飛行機ひこうき操縦そうじゅう性能せいのうなどのてんではるかにライト兄弟きょうだいはつ飛行ひこうよりすぐれていたが、当然とうぜんのことながらライト兄弟きょうだい飛行機ひこうきも3年間ねんかんおおきな進化しんかをしていた。
  2. ^ 兄弟きょうだい自転車じてんしゃ店舗てんぽなんうつしている。1箇所かしょデイトン市内しない史跡しせきとして整備せいびされているほかデトロイトフォード博物館はくぶつかんうち移設いせつされたものがある。
  3. ^ 原則げんそくPaul Fauchilleかんがかた基礎きそにしている。
  4. ^ 農夫のうふとなり、移住いじゅうしたカンザスシティくなって同地どうち埋葬まいそうされている[4]
  5. ^ 飛行ひこう成功せいこう父親ちちおやらせた電報でんぽうには、電報でんぽうきょくのミスにより「57びょう」と記載きさいされた[7]
  6. ^ ながらく挑戦ちょうせんしゃおおくがとりのようにばたく機構きこう飛行機ひこうきオーニソプター)をつくっていたのも一因いちいん推測すいそくされる。19世紀せいきはいって近代きんだいてき航空機こうくうき研究けんきゅうはじまったが、模型もけい飛行機ひこうき拡大かくだいすればよいとして、操縦そうじゅう特性とくせい研究けんきゅう軽視けいしする傾向けいこうられた。
  7. ^ 1906ねんごろにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでもグライダーがスポーツとして認知にんちされてきたが、オーヴィルは1911ねんにグライダーで9ふん45びょう滞空たいくう時間じかん世界せかい記録きろくつくっている(History of Soaring)(1911ねんのグライダー)。
  8. ^ 研究けんきゅうしゃでは、日本にっぽん二宮にのみや忠八ちゅうはちのように資金しきんられずに研究けんきゅう停滞ていたいしたケースがある。また、ラングレーはぐんから資金しきんけていたことで、失敗しっぱいさいつよ非難ひなんされることになった。
  9. ^ 飛行機ひこうき安定あんていせい運動うんどうせい相反あいはんする性能せいのうである。ライト兄弟きょうだい製作せいさくした機体きたい運動うんどうせいさい優先ゆうせんとして安定あんていせいをかなり犠牲ぎせいにしていた。ライト兄弟きょうだい以降いこう飛行機ひこうき製作せいさくしゃたちはより安定あんていせいった設計せっけいおこなっている。近年きんねん[いつ?]はコンピュータ制御せいぎょによる安定あんていせい維持いじ前提ぜんていとして、機体きたい自体じたい静的せいてき安定あんていせいひくめて運動うんどうせい向上こうじょうする技術ぎじゅつCCV技術ぎじゅつ)が確立かくりつしている。
  10. ^ これ以前いぜんにもなん復元ふくげん製作せいさくされているが、そのなかにはエンジン出力しゅつりょくをオリジナルよりしてばしたものもあった。NHK1980ねん放送ほうそうした「教育きょういくテレビスペシャル・人間にんげんなにをつくってきたか 交通こうつう博物館はくぶつかん世界せかい」では、エンジン出力しゅつりょくまでオリジナルどおりの復元ふくげんをアメリカじん青年せいねんが1978ねんに3ねんかけて製作せいさくし、キティホークで24mの飛行ひこう成功せいこうした模様もよう収録しゅうろくされている。
  11. ^ たい速度そくどし、ひいては揚力ようりょくした
  12. ^ グスターヴ・ホワイトヘッド試験しけん飛行ひこうちゅう事故じここしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 航空機こうくうき年鑑ねんかん『ジェーン世界せかい航空機こうくうき年鑑ねんかん (Jane's All the World's Aircraft)』
  2. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 352–353
  3. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 475–476
  4. ^ [1]
  5. ^ 女性じょせいにはもくれず 飛行機ひこうきづくりにれたライト兄弟きょうだい”. DIAMOND online 2017ねん9がつ7にち. 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  6. ^ Telegram from Orville Wright in Kitty Hawk, North Carolina, to His Father Announcing Four Successful Flights, 1903 December 17”. World Digital Library (1903ねん12月17にち). 2013ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  7. ^ スノウ & マクミラン 2022, p. 147.
  8. ^ [2][3]
  9. ^ [4]
  10. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 14–15
  11. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 128–130
  12. ^ Tom D. Crouch 2023, p. 528
  13. ^ Tom D. Crouch 2023, p. 100
  14. ^ Tom D. Crouch 2023, p. 243
  15. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 161–166
  16. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 157–158
  17. ^ History of Soaring
  18. ^ “ライト兄弟きょうだい復元ふくげん失速しっそくはつ飛行ひこう100周年しゅうねん”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ): p. 2. (2003-12-18(夕刊ゆうかん)) 
  19. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 305–307
  20. ^ Tom D. Crouch 2023, p. 408
  21. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 532–533
  22. ^ Tom D. Crouch 2023, pp. 541–542
  23. ^ 人間にんげんなにつくってきたか4 交通こうつう博物館はくぶつかん世界せかい(NHK出版しゅっぱん
  24. ^ McCullough, 2015, "The Wright Brothers", Epliogue pp. 260–261
  25. ^ そらびたい!日本にっぽん航空こうくうのこした偉人いじんたち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • #飛行ひこう成功せいこう苦悩くのうたたか出典しゅってん
    • 市場いちば泰男やすお「ライト兄弟きょうだいよりさきんだ飛行機ひこうき」『おもちがいの科学かがく朝日あさひ文庫ぶんこ、2002ねん、115-130ぺーじISBN 4-02-261368-8 
  • ピーター・スノウ、アン・マクミラン『[ヴィジュアルばん]歴史れきしうごかした重要じゅうよう文書ぶんしょ:ハムラビ法典ほうてんから宇宙うちゅう地図ちずまで』はら書房しょぼう、2022ねんISBN 4562059753 
  • Tom D. Crouch ちょ織田おだつよし やく『ライト父子ふしでん: はつ航空こうくう技師ぎしライト兄弟きょうだい人生じんせい合同ごうどう会社かいしゃ 織田おだ春風はるかどう、2023ねんISBN 978-4991333903 

外部がいぶリンク

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