FAAの免許 めんきょ 証 しょう の裏 うら に描 えが かれたライト兄弟 きょうだい
ライト兄弟 きょうだい (ライトきょうだい、英 えい : Wright Brothers)は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 出身 しゅっしん の動力 どうりょく 飛行機 ひこうき の発明 はつめい 者 しゃ [ 注 ちゅう 1] かつ世界 せかい 初 はつ の飛行機 ひこうき パイロット の兄弟 きょうだい 。自転車 じてんしゃ 屋 や [ 注 ちゅう 2] をしながら兄弟 きょうだい で研究 けんきゅう を続 つづ け、1903年 ねん に世界 せかい 初 はつ の有人 ゆうじん 動力 どうりょく 飛行 ひこう に成功 せいこう した。
ただし、世界 せかい 初 はつ という点 てん についてはグスターヴ・ホワイトヘッド による1901年 ねん 8月 がつ の初 はつ 飛行 ひこう が世界 せかい 初 はつ であるという指摘 してき がある[ 1] 。
1906年 ねん に万国 ばんこく 国際 こくさい 法 ほう 学会 がっかい は、各国 かっこく の自衛 じえい に供 きょう されぬかぎり航空 こうくう は自由 じゆう という原則 げんそく を採 と った[ 注 ちゅう 3] 。14対 たい 9という多数決 たすうけつ の結果 けっか は、航空 こうくう 技術 ぎじゅつ の熾烈 しれつ な競争 きょうそう を招 まね いた。機先 きせん をとった彼 かれ らの特許 とっきょ を、フランスではラザール・ワイラー、アンリ・ドゥッシュ=ド=ラ=ムルト らが率 ひき いるシンジケートが購入 こうにゅう した[ 2] 。
連邦 れんぽう 航空局 こうくうきょく (FAA)が発行 はっこう するパイロット のライセンスカードの裏面 りめん にはライト兄弟 きょうだい の肖像 しょうぞう が描 えが かれている。
LIFE誌 し が1999年 ねん に選 えら んだ「この1000年 ねん で最 もっと も重要 じゅうよう な功績 こうせき を残 のこ した世界 せかい の人物 じんぶつ 100人 にん 」に選 えら ばれた。
デイトン市内 しない に保存 ほぞん されているライト兄弟 きょうだい の自転車 じてんしゃ 屋 や
ウィルバー・ライト (英 えい : Wilbur Wright)
1867年 ねん 4月 がつ 16日 にち - 1912年 ねん 5月30日 にち
ライト家 か の三男 さんなん でオーヴィルの兄 あに 。インディアナ州 しゅう 東部 とうぶ の小 ちい さな村 むら ミルビル (英語 えいご 版 ばん ) 出身 しゅっしん 。
オーヴィル・ライト (英 えい : Orville Wright)
1871年 ねん 8月 がつ 19日 にち - 1948年 ねん 1月 がつ 30日 にち
ライト家 か の四 よん 男 なん でウィルバーの弟 おとうと 。オハイオ州 しゅう デイトン 出身 しゅっしん 。
2人 ふたり は牧師 ぼくし ミルトン・ライト(1828年 ねん - 1917年 ねん )の息子 むすこ として生 う まれた。一家 いっか には他 た に3人 にん の兄妹 きょうだい (長兄 ちょうけい ルクラン(1861年 ねん - 1920年 ねん )、次兄 じけい ローリン(1862年 ねん - 1939年 ねん )、妹 いもうと キャサリン(1874年 ねん - 1929年 ねん ))がいたが、母 はは スーザンは結核 けっかく により1888年 ねん に早 さ 逝した。尚 なお この他 ほか にもう2人 ふたり の兄弟 きょうだい がいたが夭折 ようせつ している(厳密 げんみつ には7兄弟 きょうだい と考 かんが えられる)。
兄弟 きょうだい は生涯 しょうがい の大 だい 部分 ぶぶん をデイトンで過 す ごした。グライダー実験 じっけん と最初 さいしょ の動力 どうりょく 飛行 ひこう をノースカロライナ州 しゅう キルデビルヒルズ で済 す ませた後 のち の飛行 ひこう 活動 かつどう は、現在 げんざい ライト・パターソン空軍 くうぐん 基地 きち の敷地 しきち 内 ない にあるハフマンプレーリー (一般 いっぱん 見学 けんがく 可能 かのう )を中心 ちゅうしん に行 おこな われた。だがウィルバーの晩年 ばんねん には再 ふたた びキルデビルヒルズで実験 じっけん を行 おこな った。
1909年 ねん に兄弟 きょうだい はライト社 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) (英 えい : Wright Company) を創業 そうぎょう するが、ウィルバーの死後 しご の1915年 ねん にオーヴィルは会社 かいしゃ を売却 ばいきゃく している。ライト社 しゃ は最初 さいしょ のグレン・L・マーティン・カンパニー およびシンプレックス・オートモービル社 しゃ と合併 がっぺい してライト=マーティン社 しゃ になり、その後 ご 、この会社 かいしゃ は航空機 こうくうき 用 よう エンジンを主力 しゅりょく とするライト・エアロノーティカル社 しゃ として再 さい 編成 へんせい された。1929年 ねん にライト・エアロノーティカル社 しゃ とカーチス・エアロプレーン・アンド・モーター・カンパニーは統合 とうごう して、巨大 きょだい な新 しん 合併 がっぺい 会社 かいしゃ であるカーチス・ライト 社 しゃ が誕生 たんじょう した[ 3] 。カーチス・ライト社 しゃ は航空機 こうくうき 用 よう 部品 ぶひん メーカーとして存続 そんぞく している。
ウィルバーは1912年 ねん 、腸 ちょう チフス のためデイトンの自宅 じたく で死去 しきょ した。オーヴィルは36年 ねん 後 ご 、心臓 しんぞう 発作 ほっさ のため同 おな じくデイトンで死去 しきょ した(奇 く しくも彼 かれ の翌日 よくじつ にはジョン・T・ダニエルズ (下記 かき )が死去 しきょ している)。2人 ふたり はデイトンのウッドランド墓地 ぼち (英語 えいご 版 ばん ) に長兄 ちょうけい ルクラン[ 注 ちゅう 4] を除 のぞ く家族 かぞく と共 とも に埋葬 まいそう されている。2人 ふたり とも女性 じょせい に興味 きょうみ がなく、生涯 しょうがい 独身 どくしん だった。同性 どうせい ・異性 いせい を問 と わず性的 せいてき な接触 せっしょく をした証拠 しょうこ は見 み つかっていないという[ 5] 。
キャサリン・ライト (晩年 ばんねん の1926年 ねん 11月20日 にち に結婚 けっこん してキャサリン・ライト・ハスカルとなる)は、ライト兄弟 きょうだい の唯一 ゆいいつ の妹 いもうと にして、彼 かれ らのアシスタント的 てき な存在 そんざい だった。1889年 ねん に母親 ははおや が早 さ 逝したとき、彼女 かのじょ は家族 かぞく では唯一 ゆいいつ の女性 じょせい として世帯 せたい の責任 せきにん を引 ひ き継 つ いだ。オーバリン大学 だいがく (英 えい : Oberlin College)を卒業 そつぎょう 後 ご 、スティール高校 こうこう (英 えい : Steele High School)で教師 きょうし として働 はたら く。家事 かじ の手伝 てつだ いをするために、彼女 かのじょ は何 なん 十 じゅう 年 ねん も家族 かぞく と一緒 いっしょ にいたメイド、キャリー・カイラーを雇 やと った。ウィルバーとオーヴィルはキティーホークで家 いえ を離 はな れ、その後 ご ヨーロッパとワシントンDCで時間 じかん を過 す ごすと、キャサリンは家 いえ を離 はな れ、家族 かぞく と故郷 こきょう のニュースと並行 へいこう して彼 かれ らに常 つね に書簡 しょかん を書 か いた。彼女 かのじょ は定期 ていき 的 てき に書簡 しょかん を送 おく っていないときに彼 かれ らを叱 しか って、ヨーロッパにいるときに「気晴 きば らし」を警告 けいこく した。ウィルバーはキャサリンにオービルと一緒 いっしょ にフランスに行 い くように頼 たの み、1909年 ねん にポー、ピレネー=アトランティックで加 くわ わる。彼女 かのじょ はすぐに社会 しゃかい 的 てき な場面 ばめん を支配 しはい し、悪名 あくめい 高 たか い恥 は ずかしがる兄弟 きょうだい よりもはるかに魅力 みりょく 的 てき になっている。ウィルバー死亡 しぼう 後 ご の1912年 ねん 、ライトカンパニーの役員 やくいん になるが、同社 どうしゃ は1915年 ねん にオーヴィルによって売却 ばいきゃく された。
1926年 ねん 11月20日 にち にヘンリー・ジョセフ・ハスケル(英 えい : Henry Joseph Haskell)と結婚 けっこん するが、オーヴィルは式典 しきてん に出席 しゅっせき することを拒否 きょひ 。彼女 かのじょ の結婚 けっこん 2年 ねん 後 ご 、キャサリンは肺炎 はいえん に罹 かか った。 オーヴィルが知 し ったとき、彼 かれ はまだ彼女 かのじょ に連絡 れんらく することを拒 こば んだ。 彼 かれ らの兄 あに ローリンは彼 かれ に彼女 かのじょ を訪問 ほうもん するように説得 せっとく し、彼女 かのじょ が死 し んだときに彼 かれ はベッドサイドにいた。キャサリンは1929年 ねん 3月3日 にち に54歳 さい で死亡 しぼう した。
時 とき は19世紀 せいき 末 すえ 、すでに陸 りく には蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ や車 くるま が走 はし り、海 うみ や川 かわ では蒸気 じょうき 船 せん が航行 こうこう し、そして最初 さいしょ の有人 ゆうじん 飛行 ひこう をしたモンゴルフィエ兄弟 きょうだい に始 はじ まる熱 ねつ 気球 ききゅう から派生 はせい した飛行船 ひこうせん が存在 そんざい した。しかし、「空気 くうき より重 おも い飛行機 ひこうき 」の動力 どうりょく 飛行 ひこう は全 まった く発展 はってん 途上 とじょう にあった。
唯一 ゆいいつ の手掛 てが かりとしてジョージ・ケイリー のグライダー を基 もと にオットー・リリエンタール によって研究 けんきゅう が進 すす められていた。しかし当時 とうじ はまだハイラム・マキシム 等 ひとし 、多 おお くの研究 けんきゅう 家 か は正 ただ しい飛行 ひこう のための理論 りろん を確立 かくりつ するに至 いた らず依然 いぜん として暗中模索 あんちゅうもさく が続 つづ いていた時代 じだい だった。
1896年 ねん のリリエンタールの事故死 じこし 後 ご 、これを皮切 かわき りにライト兄弟 きょうだい は飛行機 ひこうき を完成 かんせい させることを考 かんが え、これが史上 しじょう 初 はつ の動力 どうりょく 飛行 ひこう 成功 せいこう へ向 む けてのきっかけとなり、時代 じだい を新 あら たに拓 ひら く成功 せいこう への一 いち 歩 ほ となった。
兄弟 きょうだい は1903年 ねん 12月17日 にち にノースカロライナ州 しゅう キティホーク 近郊 きんこう にあるキルデビルヒルズ にて12馬力 ばりき のエンジンを搭載 とうさい したライトフライヤー号 ごう によって有人 ゆうじん 動力 どうりょく 飛行 ひこう に成功 せいこう [ 6] 。兄弟 きょうだい が初 はつ 飛行 ひこう に成功 せいこう した時 とき の写真 しゃしん は、2人 ふたり に撮影 さつえい を頼 たの まれた観客 かんきゃく の一人 ひとり 、地元 じもと の海難 かいなん 救助 きゅうじょ 所員 しょいん のジョン・T・ダニエルズ が撮 と ったもので、合計 ごうけい 4回 かい の飛行 ひこう が試 こころ みられた。
1回 かい 目 め : 12秒 びょう 、120ft (約 やく 36.5m )
2回 かい 目 め : 12秒 びょう 、175ft(約 やく 53.3m)
3回 かい 目 め : 15秒 びょう 、200ft(約 やく 60.9m)
4回 かい 目 め : 59秒 びょう 、852ft(約 やく 259.6m)[ 注 ちゅう 5]
見落 みお とされがちであるが、この飛行 ひこう は強風 きょうふう が吹 ふ く(理由 りゆう は後述 こうじゅつ )彼 かれ らの実験 じっけん 場 じょう で風 ふう に向 む かって飛 と んだ記録 きろく であることに(もしそれ以前 いぜん の「跳躍 ちょうやく 」とみなされている他者 たしゃ による実験 じっけん と比較 ひかく する時 とき などには)注意 ちゅうい が必要 ひつよう である。対 たい 気 き 的 てき な距離 きょり は対地 たいち 的 てき な距離 きょり よりももっと長 なが い。
オーヴィルが写真 しゃしん 技術 ぎじゅつ を持 も っていたため良 よ い記録 きろく 写真 しゃしん が多 おお く撮 と られていたが[ 8] 、1913年 ねん のグレートマイアミ川 がわ の洪水 こうずい でかなりの数 かず の乾板 かんぱん が損傷 そんしょう した。残 のこ ったものは、アメリカ議会 ぎかい 図書館 としょかん のライト兄弟 きょうだい アーカイブ[ 9] に保管 ほかん されている。
それまでの他者 たしゃ による飛行 ひこう の試 こころ みの多 おお くが跳躍 ちょうやく かその延長 えんちょう のものでしかなかったのに対 たい して、主翼 しゅよく をねじる ことによって制御 せいぎょ された飛行 ひこう を行 おこ ない、飛行機 ひこうき の実用 じつよう 化 か に道 みち を開 ひら いた。しかし、当初 とうしょ 世間 せけん はこれを理解 りかい しないどころかむしろ冷淡 れいたん であり、国内 こくない では様々 さまざま な事情 じじょう から特許 とっきょ 権 けん 関係 かんけい の問題 もんだい を突 つ きつけられたりさえしていた。
ノースカロライナ州 しゅう キルデビルヒルズ の砂丘 さきゅう における初 はつ 飛行 ひこう (1903年 ねん 12月17日 にち )。操縦 そうじゅう 者 しゃ はオーヴィル。横 よこ にいるのはウィルバーで、離陸 りりく 滑走 かっそう の間 あいだ 、地面 じめん に触 ふ れないように支 ささ えていた翼 つばさ 端 はし を離 はな している。この飛行 ひこう を見 み ていた観客 かんきゃく はわずか5人 にん であった。
ライト兄弟 きょうだい は、他 た の大勢 おおぜい が失敗 しっぱい していたのに如何 いか にして成功 せいこう できたのかという質問 しつもん に対 たい しては、確 たし かな答 こた えを持 も っていなかった。本物 ほんもの の天才 てんさい だからというのが答 こた えだろうと言 い われても、ウィルバーはそれを否定 ひてい し、次 つぎ のように言 い っている。「私 わたし には、個々 ここ ではそれほど重要 じゅうよう ではない他 ほか の要因 よういん が数 すう 千 せん にも合 あ わさって、単 たん なる知的 ちてき 能力 のうりょく や発明 はつめい の才 ざい よりも10倍 ばい 以上 いじょう も強 つよ い影響 えいきょう を与 あた えているように思 おも える。もし時間 じかん が巻 ま き戻 もど っても、自分 じぶん たちが行 おこな ってきたことを再 ふたた び自分 じぶん たちで実行 じっこう できる可能 かのう 性 せい は全 まった くないだろう。それは、偶然 ぐうぜん の出来事 できごと が奇妙 きみょう に組 く み合 あ わさったおかげであり、二度 にど と起 お こらないかもしれない」[ 10] 。
航空 こうくう 分野 ぶんや の歴史 れきし 家 か たちはそれでも成功 せいこう の理由 りゆう を探 さぐ ろうとしてきた。
チーム・ライト兄弟 きょうだい の実質 じっしつ 的 てき なリーダーであった兄 あに ウィルバーは、両親 りょうしん がイェール大学 だいがく への進学 しんがく を期待 きたい した勉学 べんがく とスポーツの両方 りょうほう で優秀 ゆうしゅう な学生 がくせい であった。しかし、アイスホッケーで大 だい 怪我 けが を負 お ってからうつ病 びょう を発症 はっしょう し、自宅 じたく で引 ひ きこもり生活 せいかつ を送 おく っていた。大学 だいがく への進学 しんがく も断念 だんねん した。弟 おとうと オーヴィルの印刷 いんさつ 業 ぎょう を手伝 てつだ い、流 なが れに任 まか せた人生 じんせい を送 おく っていたが、ウィルバーは人生 じんせい の大 おお きなチャンスがまだ未来 みらい にあるかもしれないと常 つね に考 かんが えていた。したがって、ウィルバーの深層 しんそう の思 おも いでは、自分 じぶん が一般 いっぱん 大衆 たいしゅう から抜 ぬ きん出 で るための手段 しゅだん として実用 じつよう 的 てき 飛行機 ひこうき の追求 ついきゅう へ乗 の り出 だ していた。既 すで に社会 しゃかい 的 てき な成功 せいこう を収 おさ めて、興味 きょうみ と投資 とうし を理由 りゆう に飛行機 ひこうき の開発 かいはつ に乗 の り出 だ してきたライバルたちにはない、容易 ようい に退却 たいきゃく できないという感情 かんじょう を、ウィルバーは抱 だ いていた[ 11] 。
技術 ぎじゅつ 者 しゃ として見 み ると、兄 あに ウィルバーと弟 おとうと オーヴィルは、まったく異 こと なるタイプの技術 ぎじゅつ 者 しゃ であった。兄 あに ウィルバーは飛行機 ひこうき 全体 ぜんたい を見 み て、バランス、力学 りきがく 的 てき 動作 どうさ 、安定 あんてい 性 せい を思 おも い描 えが き、飛行機 ひこうき をシステムとして考 かんが えることに長 た けた技術 ぎじゅつ 者 しゃ だった。他方 たほう 、弟 おとうと オーヴィルはドライバーやペンチを握 にぎ ることを渇望 かつぼう し、機械 きかい 要素 ようそ を細々 こまごま とした細部 さいぶ の観点 かんてん から考 かんが えることに長 た けた技術 ぎじゅつ 者 しゃ だった。ライト兄弟 きょうだい も自分 じぶん たちの相違 そうい 点 てん を理解 りかい していたし、それが、兄弟 きょうだい が成功 せいこう した秘訣 ひけつ の一 ひと つであった。二人 ふたり のどちらもが、他方 たほう の長所 ちょうしょ を頼 たよ りとして自分 じぶん の短所 たんしょ を補 おぎな う、そうした心構 こころがま えができていた[ 12] 。
ライト兄弟 きょうだい は互 たが いに議論 ぎろん することに大 おお きな喜 よろこ びを感 かん じていた。ウィルバーは次 つぎ のように述 の べている。「オーヴィルと喧嘩 けんか をするは実 じつ にいい。本当 ほんとう にオーヴィルは喧嘩 けんか 好 す きな男 おとこ だ」[ 13] 。オーヴィルも次 つぎ のように言 い っている。「議論 ぎろん が長 なが くなると、馬鹿 ばか げたことにいつの間 ま にか互 たが いの主張 しゅちょう が逆 ぎゃく になっていて、しかも議論 ぎろん が始 はじ まった時 とき から意見 いけん の一致 いっち が何 なに もない」。それを見 み ていたライト自転車 じてんしゃ 店 てん の機械 きかい 工 こう (チャーリー・テイラー)は次 つぎ のように言 い っている。「両者 りょうしゃ とも感情 かんじょう 的 てき だった。お互 たが いに大声 おおごえ を出 だ してひどいことを言 い っていた。本当 ほんとう に怒 おこ っていたとは思 おも わないが、熱 あつ くなっていたのは確 たし かだ」。ライト兄弟 きょうだい は激 はげ しくいいながら、真実 しんじつ の核心 かくしん 部 ぶ が浮 う かび上 あ がってくるまで、一種 いっしゅ の口頭 こうとう 速記 そっき のように素 もと 速 はや くアイデアをぶつけ合 あ っていた[ 14] 。
ライト兄弟 きょうだい は、飛行機 ひこうき 開発 かいはつ に乗 の り出 だ した最初 さいしょ 期 き に、すなわち最初 さいしょ の1899年 ねん 凧 だこ の段階 だんかい で、既 すで に正解 せいかい を得 え ていた。自転車 じてんしゃ を趣味 しゅみ としていた経験 けいけん からバンク旋回 せんかい の必要 ひつよう 性 せい に気 き づいて、ロール運動 うんどう の手段 しゅだん としてたわみ翼 つばさ を考案 こうあん した。その結果 けっか 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き の主力 しゅりょく 構成 こうせい であった、矩形 くけい 翼 つばさ の複葉 ふくよう 機 き 構成 こうせい を採用 さいよう しており、しかもたわみ翼 つばさ をたわませる仕組 しく みにとって矩形 くけい 翼 つばさ の複葉 ふくよう 機 き 構成 こうせい がほぼ必須 ひっす であったため、他 た の翼 つばさ 形状 けいじょう (コウモリのような翼 つばさ )や他 た の翼 つばさ 構成 こうせい (昆虫 こんちゅう のような翼 つばさ )を試 ため すなどして技術 ぎじゅつ 的 てき に迷走 めいそう する余地 よち がなかった[ 15] 。
それまで多 おお くの研究 けんきゅう 者 しゃ の飛行 ひこう への挑戦 ちょうせん がことごとく失敗 しっぱい を重 かさ ねて来 き たのに対 たい し[ 注 ちゅう 6] 、ライト兄弟 きょうだい は当時 とうじ としては極 きわ めて高度 こうど な科学 かがく 的 てき 視点 してん から飛行 ひこう のメカニズムを解明 かいめい し、また同時 どうじ に技術 ぎじゅつ 的 てき 工学 こうがく 的 てき に着実 ちゃくじつ な手法 しゅほう を取 と った。風洞 ふうどう 実験 じっけん によって得 え たデータを元 もと に何 なん 機 き かのグライダー 試作 しさく 機 き を作成 さくせい し一歩一歩 いっぽいっぽ 堅実 けんじつ に飛行機 ひこうき の改良 かいりょう を行 おこな った。研究 けんきゅう の初期 しょき には、当時 とうじ の飛行機 ひこうき 開発 かいはつ の最先端 さいせんたん を行 おこな っていたサミュエル・ラングレー 教授 きょうじゅ が所属 しょぞく するスミソニアン協会 きょうかい から研究 けんきゅう 資料 しりょう の提供 ていきょう を受 う けていた[ 16] 。
グライダー による実験 じっけん の回数 かいすう もリリエンタール らに比 くら べてはるかに上回 うわまわ り、多 おお くの実験 じっけん データを収集 しゅうしゅう するとともに飛行 ひこう 技術 ぎじゅつ を身 み につけることができた。グライダーを基礎 きそ にまず操縦 そうじゅう を研究 けんきゅう して、自 みずか らそのパイロットになってから動力 どうりょく を追加 ついか するのが彼 かれ らの戦略 せんりゃく であり、他者 たしゃ のプロジェクトは動力 どうりょく 機体 きたい の製作 せいさく しか眼中 がんちゅう になかったと本人 ほんにん たちが述 の べている[ 17] 。
兄弟 きょうだい の成功 せいこう に先立 さきだ つ1903年 ねん 10月7日 にち と12月8日 にち の2度 ど 、兄弟 きょうだい も教 おし えを請 こ うたサミュエル・ラングレー教授 きょうじゅ の飛行機 ひこうき エアロドローム は飛行 ひこう テストを実施 じっし したが、どちらも機体 きたい は飛 と び立 た つことなく川 かわ へ転落 てんらく した。スミソニアン協会 きょうかい 会長 かいちょう の地位 ちい にあり、アメリカ政府 せいふ 援助 えんじょ のもと主導 しゅどう した実験 じっけん の失敗 しっぱい はラングレー晩節 ばんせつ の評価 ひょうか を地 ち に堕 お とした。ラングレー教授 きょうじゅ のプロジェクトは、まず無人 むじん 動力 どうりょく 飛行機 ひこうき で実験 じっけん を行 おこな い、次 つぎ に有人 ゆうじん 動力 どうりょく 飛行機 ひこうき を飛行 ひこう させるというものであり、パイロットにとっては「ぶっつけ本番 ほんばん 」を強 し いられるものであった。
飛行 ひこう 記録 きろく からするとオーヴィルの方 ほう が操縦 そうじゅう に長 た けていたようである[ 注 ちゅう 7] 。兄弟 きょうだい は実験 じっけん 回数 かいすう を増 ふ やすために「安定 あんてい した強風 きょうふう が吹 ふ いている場所 ばしょ 」を気象台 きしょうだい に問 と い合 あ わせ、故郷 こきょう から遠 とお く離 はな れたキティホークをその場所 ばしょ に選 えら んでいた。安定 あんてい した強風 きょうふう が必要 ひつよう だったのは、グライダーを凧 たこ のように繋留 けいりゅう 索 さく で空中 くうちゅう に固定 こてい して、安全 あんぜん かつ安定 あんてい に実験 じっけん をするためである(リリエンタールは風 ふう がどの方向 ほうこう から吹 ふ いてもいいように人工 じんこう の丘 おか を作 つく った。また墜落 ついらく で命 いのち を落 お とした)。
また、兄弟 きょうだい は自転車 じてんしゃ 店 てん を経営 けいえい することで研究 けんきゅう に必要 ひつよう な資金 しきん を自弁 じべん できた上 じょう [ 注 ちゅう 8] 、自転車 じてんしゃ の技術 ぎじゅつ を活用 かつよう することも可能 かのう であった。例 たと えば2基 き のプロペラはチェーン駆動 くどう であり、回転 かいてん の向 む きを左右 さゆう で逆 ぎゃく にしてトルクを打 う ち消 け すためにチェーンを片方 かたがた 交差 こうさ するなどしている。
一方 いっぽう で彼 かれ らの機体 きたい は機体 きたい の前方 ぜんぽう に水平 すいへい 安定 あんてい 板 ばん 兼 けん 昇降 しょうこう 舵 かじ があるなど、安定 あんてい 性 せい の面 めん に問題 もんだい もあり、実際 じっさい 後年 こうねん の再現 さいげん プロジェクトはその点 てん で苦労 くろう している。しかしながら、安定 あんてい 性 せい と操縦 そうじゅう 応答 おうとう は両立 りょうりつ しないため、ライト兄弟 きょうだい は操縦 そうじゅう 応答 おうとう を最 さい 優先 ゆうせん した飛行機 ひこうき で飛行 ひこう してこそ、本物 ほんもの の飛行 ひこう であるという強 つよ い信念 しんねん を持 も っていた。そして単 たん なる精神 せいしん 論 ろん だけでなく、兄弟 きょうだい は滑空 かっくう 飛行 ひこう を繰 く り返 かえ し操縦 そうじゅう に熟練 じゅくれん したことによって、成功 せいこう を得 え た。
ライト兄弟 きょうだい の初 はつ 飛行 ひこう 100周年 しゅうねん にむけて、ライトフライヤー号 ごう を復元 ふくげん する研究 けんきゅう がいくつか行 おこな われたが、コンピュータシミュレーションでは姿勢 しせい が安定 あんてい せずに普通 ふつう に飛 と べず[ 注 ちゅう 9] 、完成 かんせい した復元 ふくげん 機 き に至 いた っては離陸 りりく すらできなかった[ 18] [ 注 ちゅう 10] 。ライト兄弟 きょうだい が成功 せいこう したのは当日 とうじつ の強風 きょうふう [ 注 ちゅう 11] と、それをものともしない兄弟 きょうだい の操縦 そうじゅう 技術 ぎじゅつ のおかげだという見解 けんかい もある。
ライト兄弟 きょうだい は実験 じっけん に成功 せいこう したが、世間 せけん はこれを信用 しんよう をしないばかりかこぞって反発 はんぱつ した。サイエンティフィック・アメリカン 、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 陸軍 りくぐん 、ジョンズ・ホプキンズ大学 だいがく の数学 すうがく と天文学 てんもんがく の教授 きょうじゅ サイモン・ニューカム など各 かく 大学 だいがく の教授 きょうじゅ 、その他 た アメリカの科学 かがく 者 しゃ は新聞 しんぶん 等 とう でライト兄弟 きょうだい の試 こころ みに「機械 きかい が飛 と ぶことは科学 かがく 的 てき に不可能 ふかのう 」という旨 むね の記事 きじ やコメントを発表 はっぴょう していた。
実際 じっさい のところ、ライト兄弟 きょうだい の信条 しんじょう がこのような状況 じょうきょう を招 まね いていた。ライト兄弟 きょうだい は世間 せけん の流儀 りゅうぎ や仲間 なかま たちの動機 どうき を信用 しんよう していなかった。飛行機 ひこうき の公開 こうかい 飛行 ひこう を行 おこな えば、その機会 きかい に乗 じょう じてライバルは自分 じぶん たちの技術 ぎじゅつ を盗 ぬす むと考 かんが えていた。飛行機 ひこうき の販売 はんばい 契約 けいやく が完了 かんりょう するまでは、たとえ購入 こうにゅう の可能 かのう 性 せい のある人 ひと でも飛行 ひこう を目 ま の当 あ たりにすることも、飛行機 ひこうき を見 み ることさえも、許 ゆる されなかった。さらに、取引 とりひき が済 す むまで、いかなる種類 しゅるい の写真 しゃしん 、図面 ずめん 、技術 ぎじゅつ 的 てき 解説 かいせつ も利害 りがい 関係 かんけい 者 しゃ に提供 ていきょう されなかった。ライト兄弟 きょうだい は、自分 じぶん たちの正直 しょうじき な言葉 ことば を信 しん じないのは自分 じぶん たちに対 たい する侮辱 ぶじょく だと考 かんが えた。つまり、言葉 ことば だけで理解 りかい してもらえることを期待 きたい していた[ 19] 。
逆 ぎゃく に後年 こうねん ヘリコプター の実用 じつよう 性 せい が議論 ぎろん されるようになった時期 じき 、オーヴィルは1936年 ねん の書簡 しょかん 中 ちゅう で「ヘリコプターには根本 こんぽん 的 てき な問題 もんだい がある」、「ヘリコプターの開発 かいはつ には資金 しきん がかかりすぎる上 うえ に商用 しょうよう 性 せい もおぼつかないので誰 だれ もとりかかられないだろう」と書 か いている。
「空気 くうき よりも重 おも い機械 きかい を用 もち いた飛行 ひこう の実用 じつよう 技術 ぎじゅつ の開発 かいはつ 者 しゃ 」と裁判所 さいばんしょ にも認 みと められたライト兄弟 きょうだい を待 ま ち構 かま えていたものは、必 かなら ずしも栄光 えいこう ではなかった。
ライト兄弟 きょうだい の成功 せいこう と飛行 ひこう 技術 ぎじゅつ に関 かん する特許 とっきょ 取得 しゅとく は、飛行機 ひこうき が兵器 へいき として注目 ちゅうもく されていたこともあり、争 あらそ いや妬 ねた みの対象 たいしょう にもなった。特 とく に兄弟 きょうだい にあからさまな敵意 てきい を向 む ける2人 ふたり の人物 じんぶつ がいた。その1人 ひとり はチャールズ・ウォルコット である。有人 ゆうじん 動力 どうりょく 飛行 ひこう に失敗 しっぱい したラングレーの後 のち を継 つ いでスミソニアン協会 きょうかい 会長 かいちょう の地位 ちい に就 つ いた彼 かれ は、民間 みんかん 人 じん であるライト兄弟 きょうだい の偉業 いぎょう を決 けっ して認 みと めず、スミソニアン博物館 はくぶつかん 航空 こうくう 史 し に「ライトフライヤー号 ごう 」を一切 いっさい 展示 てんじ しなかった。もう1人 ひとり はグレン・カーチス である。腕 うで の良 よ い飛行 ひこう 家 か だった彼 かれ は、航空 こうくう 会社 かいしゃ を設立 せつりつ し、何 なに かとライト兄弟 きょうだい と特許 とっきょ に関 かん して係争 けいそう した。しかし、冒頭 ぼうとう の裁判所 さいばんしょ の判断 はんだん もあり、ことごとく敗訴 はいそ していた。
カーチスはライト兄弟 きょうだい のパイオニアたる地位 ちい を否定 ひてい すれば特許 とっきょ について有利 ゆうり な立場 たちば になれると考 かんが えていた。カーチスはウォルコットと手 て を結 むす び資金 しきん 援助 えんじょ を得 え て、1914年 ねん 5月と6月 がつ にラングレーのエアロドローム再 さい 飛行 ひこう 実験 じっけん を行 おこ ない成功 せいこう した。ところが、実 じつ はエアロドロームにはカーチスの手 て により35箇所 かしょ もの改造 かいぞう が加 くわ えられており、もはや全 まった くの別物 べつもの になっていた。実験 じっけん 結果 けっか を受 う け、ウォルコットはスミソニアン協会 きょうかい 年次 ねんじ 報告 ほうこく に「初 はじ めて飛 と べる飛行機 ひこうき を作 つく ったのはラングレー」との声明 せいめい を発表 はっぴょう 、丁寧 ていねい に1903年 ねん 当時 とうじ の形状 けいじょう に戻 もど したエアロドロームを、人間 にんげん を乗 の せて飛行 ひこう 可能 かのう な世界 せかい 初 はつ の飛行機 ひこうき と表示 ひょうじ してワシントン国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん に展示 てんじ した。すでに兄 あに を亡 な くしていた弟 おとうと オーヴィルは抗議 こうぎ したが協会 きょうかい は一切 いっさい 無視 むし 、それどころか年次 ねんじ 報告 ほうこく に執拗 しつよう なまでに声明 せいめい 文 ぶん を繰 く り返 かえ し掲載 けいさい した。そのため、一般 いっぱん にも世界 せかい 初 はつ 飛行 ひこう に成功 せいこう したのはラングレーだと思 おも い込 こ む者 もの が増 ふ えた。
このような不毛 ふもう な争 あらそ いの最中 さいちゅう に、飛行 ひこう 技術 ぎじゅつ は急速 きゅうそく に進歩 しんぽ していき、ライト兄弟 きょうだい の持 も つ特許 とっきょ や飛行 ひこう 技術 ぎじゅつ は陳腐 ちんぷ 化 か していった。一 いち 例 れい として、ロール制御 せいぎょ の手段 しゅだん としてのたわみ翼 つばさ は、補助 ほじょ 翼 つばさ というより完成 かんせい 度 ど の高 たか いものに進歩 しんぽ していた。1908年 ねん にはフランスのシャンパーニュ地方 ちほう ランス (マルヌ県 けん ) で、世界 せかい 最初 さいしょ の飛行 ひこう 大会 たいかい (シャンパーニュ大 だい 航空 こうくう 週間 しゅうかん )が開催 かいさい された。この大会 たいかい ではアンリ・ファルマン が飛行 ひこう 時間 じかん 、ユベール・ラタム が高度 こうど 、ルイ・ブレリオ が速度 そくど の各 かく 部門 ぶもん の優勝 ゆうしょう 者 しゃ となった(今日 きょう の飛行機 ひこうき の形態 けいたい が完成 かんせい したのは、彼 かれ らの機体 きたい であった)。グレン・カーチスはこの大会 たいかい に出場 しゅつじょう し、優勝 ゆうしょう こそ逃 のが すもめざましい成績 せいせき を示 しめ した。
ライト兄弟 きょうだい はこの飛行 ひこう 大会 たいかい に参加 さんか しなかった。飛行機 ひこうき の発明 はつめい 者 しゃ であるライト兄弟 きょうだい は、自分 じぶん たちの特許 とっきょ 権 けん の侵害 しんがい 者 しゃ たちと競 きそ い合 あ うことを拒否 きょひ していたからだった。しかし、勝利 しょうり を確信 かくしん できなくなっていた兄弟 きょうだい は、公開 こうかい 競技 きょうぎ でライバルたちと向 む き合 あ うことで、自分 じぶん たちの名声 めいせい を危険 きけん にさらすのは愚 おろ かだと考 かんが えた可能 かのう 性 せい がある[ 20] 。
ライト兄弟 きょうだい の機体 きたい には、遅 おく れて登場 とうじょう した他 ほか の飛行機 ひこうき と比 くら べて大 おお きな欠点 けってん があった。操縦 そうじゅう 応答 おうとう 性 せい を優先 ゆうせん し安定 あんてい 性 せい が極 きわ めて低 ひく いこと。離陸 りりく の際 さい にレールを敷 し く必要 ひつよう があること。プロペラがチェーン駆動 くどう であるため、エンジン出力 しゅつりょく 向上 こうじょう に限界 げんかい があったこと。1910年 ねん にライト兄弟 きょうだい はライトB型 がた を完成 かんせい させる。これは水平 すいへい 尾翼 びよく を機体 きたい 後部 こうぶ に移 うつ して安定 あんてい 性 せい を高 たか め、車輪 しゃりん を装備 そうび しレールを敷 し く必要 ひつよう を無 な くしたものであったが、チェーン駆動 くどう だけは相変 あいか わらずであった。1911年 ねん 9月17日 にち 、カルブレイス・ペリー・ロジャーズ という飛行 ひこう 家 か が、このライトB型 がた を小型 こがた 化 か したEX型 がた を駆 か って、初 はつ のアメリカ大陸 あめりかたいりく 横断 おうだん 飛行 ひこう に挑 いど んだ。しかし何 なん 度 ど も墜落 ついらく を繰 く り返 かえ し、目的 もくてき 地 ち にたどり着 つ いたのは11月5日 にち 。部品 ぶひん 交換 こうかん と修理 しゅうり を繰 く り返 かえ した結果 けっか 、出発 しゅっぱつ 時 じ と同 おな じ部品 ぶひん は尾翼 びよく と主翼 しゅよく を支 ささ える支柱 しちゅう のみで、出発 しゅっぱつ 時 じ と同 おな じ機体 きたい とはとても言 い えない内容 ないよう であった。そんな中 なか 、失意 しつい と法廷 ほうてい 闘争 とうそう の疲労 ひろう もあり、ウィルバーは1912年 ねん 、腸 ちょう チフスで死去 しきょ した。ウィルバーの死 し の4年 ねん 後 ご 、オーヴィルは飛行機 ひこうき 製造 せいぞう から身 み を引 ひ く。
しかし、ライト兄弟 きょうだい が世界 せかい 最初 さいしょ の有人 ゆうじん 動力 どうりょく 飛行 ひこう を行 おこな ったことを、高 たか く評価 ひょうか する者 もの も存在 そんざい した。日 ひ の目 め を見 み ることなくマサチュ まさちゅ ーセッツ工科大学 せっつこうかだいがく の倉庫 そうこ に保管 ほかん されていたライトフライヤー号 ごう に思 おも わぬ申 もう し出 で が届 とど いた。ロンドン の科学 かがく 博物館 はくぶつかん が展示 てんじ したいとオーヴィルに希望 きぼう を寄 よ せてきた。スミソニアン協会 きょうかい 名誉 めいよ 総裁 そうさい へ送 おく った、エアロドローム再 さい 飛行 ひこう 実験 じっけん に対 たい する調査 ちょうさ 要請 ようせい の書簡 しょかん が無視 むし されたのを最後 さいご と見定 みさだ め、オーヴィルはロンドンからの申 もう し入 い れを受諾 じゅだく 。1928年 ねん ライトフライヤー号 ごう はイギリス に渡 わた った。
イギリス旅行 りょこう に来 き たアメリカ人 じん は「何故 なぜ ライトフライヤー号 ごう がこんな場 じょう にあるのか?」と驚 おどろ いた。それはやがて世論 せろん となり、スミソニアン協会 きょうかい もいつまでも無視 むし する訳 わけ にはいかなくなってきた。ウォルコットの死後 しご 、1928年 ねん に会長 かいちょう 職 しょく を継 つ いでいたチャールズ・アボット はオーヴィルと面談 めんだん し、ライトフライヤー号 ごう をアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に戻 もど すよう要請 ようせい した。それに対 たい するオーヴィルの条件 じょうけん は、ただ「歴史 れきし を正 ただ しく修正 しゅうせい する」ことのみであった。
アボットは、玉虫色 たまむしいろ の妥協 だきょう 点 てん を見出 みいだ そうとしたが、オーヴィルは決 けっ して譲 ゆず らず、1942年 ねん ついにスミソニアン協会 きょうかい は声明 せいめい を発表 はっぴょう 。ライト兄弟 きょうだい の偉業 いぎょう を認 みと め、1914年 ねん の実験 じっけん を否定 ひてい し、最後 さいご の部分 ぶぶん では兄弟 きょうだい に陳謝 ちんしゃ した。オーヴィルはこの声明 せいめい に対 たい して公式 こうしき には無 む 反応 はんのう だったが、ロンドンの科学 かがく 博物館 はくぶつかん の館長 かんちょう へ手紙 てがみ を送 おく り、戦争 せんそう が終 お わって大西洋 たいせいよう を越 こ えて安全 あんぜん に輸送 ゆそう できるようになったら、飛行機 ひこうき を返還 へんかん して欲 ほ しいことを伝 つた えた。さらに、動力 どうりょく 飛行 ひこう 40周年 しゅうねん を祝 いわ ってワシントンで開催 かいさい される祝宴 しゅくえん で、フランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう の列席 れっせき の下 した で自分 じぶん の決定 けってい を発表 はっぴょう することを計画 けいかく した。しかし、ルーズベルトが出席 しゅっせき できなくなったため、オーヴィルも発表 はっぴょう しなかった。科学 かがく 博物館 はくぶつかん への手紙 てがみ も公表 こうひょう されなかった。さらに、オーヴィルは1948年 ねん 1月 がつ 30日 にち に76歳 さい で死去 しきょ した。したがって、ライトフライヤー号 ごう がアメリカへ帰国 きこく することはないと思 おも われていた。ところが、オーヴィルは自分 じぶん の遺言 ゆいごん 書 しょ に次 つぎ のように書 か いていた。「1903年 ねん 12月17日 にち にノースカロライナ州 しゅう キティホークで飛行 ひこう したライト飛行機 ひこうき (現在 げんざい はイギリスのロンドン科学 かがく 博物館 はくぶつかん に所在 しょざい する)を、首都 しゅと のみでの展示 てんじ のために、ワシントンDCの合衆国 がっしゅうこく 国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん へ寄贈 きぞう する」[ 21] 。
ライトフライヤー号 ごう がアメリカに戻 もど ってワシントン国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん (国立 こくりつ 航空 こうくう 宇宙 うちゅう 博物館 はくぶつかん )に展示 てんじ されたのは初 はつ 飛行 ひこう 成功 せいこう からちょうど45年 ねん 経 た った1948年 ねん 12月17日 にち であった。盛大 せいだい な展示 てんじ 除幕 じょまく 式 しき が行 おこな われた。展示 てんじ されたライトフライヤー号 ごう の説明 せつめい 書 が きには次 つぎ のように書 か かれている。「実物 じつぶつ のライト兄弟 きょうだい 飛行機 ひこうき 。人 ひと が操縦 そうじゅう して持続 じぞく 的 てき に自由 じゆう 飛行 ひこう を行 おこな った、世界 せかい 初 はつ の空気 くうき より重 おも い動力 どうりょく 飛行機 ひこうき である。ウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトが発明 はつめい し、製造 せいぞう して、1903年 ねん 12月17日 にち にノースカロライナ州 しゅう キティホークで飛行 ひこう した。ライト兄弟 きょうだい は独創 どくそう 的 てき な科学 かがく 研究 けんきゅう により、発明 はつめい 者 しゃ 、製造 せいぞう 者 しゃ 、飛行 ひこう 士 し として人類 じんるい が飛行 ひこう する原理 げんり を発見 はっけん した。兄弟 きょうだい はさらに飛行機 ひこうき の開発 かいはつ を行 おこな い、人々 ひとびと に飛行 ひこう 方法 ほうほう を教 おし えて、航空 こうくう の時代 じだい を切 き り開 ひら いた」[ 22] 。
晩年 ばんねん のオーヴィルには、飛行機 ひこうき を発明 はつめい したことを後悔 こうかい する旨 むね の言動 げんどう がある。1942年 ねん にオーヴィルはヘンリー・フォード に対 たい して、自分 じぶん が動力 どうりょく 飛行機 ひこうき を発明 はつめい したことを悔 く いる内容 ないよう の手紙 てがみ を送 おく り、1943年 ねん にアメリカ特許 とっきょ 局 きょく 設立 せつりつ 150周年 しゅうねん 記念 きねん 行事 ぎょうじ に参加 さんか した際 さい には、最近 さいきん 100年間 ねんかん の十 じゅう 大 だい 発明 はつめい は何 なに かと問 と われ、あえて飛行機 ひこうき をその中 なか から除外 じょがい している[ 23] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に関 かん し、飛行機 ひこうき がもたらした破壊 はかい を残念 ざんねん に思 おも うと述 の べた[ 24] 。
墜落 ついらく したオーヴィル操縦 そうじゅう のライトフライヤー
オーヴィルは、世界 せかい で初 はじ めて飛行機 ひこうき 事故 じこ を起 お こした人物 じんぶつ としても知 し られている[ 注 ちゅう 12] 。
1908年 ねん 9月17日 にち 、バージニア州 しゅう アーリントン郡 ぐん の陸軍 りくぐん 基地 きち であるフォート・マイヤー (英語 えいご 版 ばん ) でオーヴィルが操縦 そうじゅう するライトフライヤーがデモフライト中 ちゅう に墜落 ついらく 。同乗 どうじょう していたトーマス・セルフリッジ (英語 えいご 版 ばん ) 陸軍 りくぐん 中尉 ちゅうい が死亡 しぼう し、オーヴィルも重傷 じゅうしょう を負 お った。また、セルフリッジは飛行機 ひこうき 事故 じこ 初 はつ の犠牲 ぎせい 者 しゃ となった。
大空 おおぞら への挑戦 ちょうせん ライト兄弟 きょうだい (1978年 ねん )
^ ブラジル 文部 もんぶ 文化 ぶんか 省 しょう の公式 こうしき 見解 けんかい では、ライト兄弟 きょうだい に3年 ねん 遅 おく れて初 はつ 飛行 ひこう を果 は たしたアルベルト・サントス=デュモン こそが飛行機 ひこうき の発明 はつめい 者 しゃ であり、これを公式 こうしき に宣言 せんげん したフランス航空 こうくう 協会 きょうかい の賞状 しょうじょう が存在 そんざい する。ライト兄弟 きょうだい は秘密 ひみつ 実験 じっけん だったのに対 たい してサントス・ドュモンは公開 こうかい 試験 しけん で成功 せいこう させたとしている。さらにライト兄弟 きょうだい の初 はつ 飛行 ひこう は斜面 しゃめん を駆 か け下 くだ り、カタパルトを用 もち いていたとしている。このような説 せつ がブラジル では広 ひろ く信 しん じられているが、それは史実 しじつ に反 はん する。45馬力 ばりき のエンジンを搭載 とうさい したサントス・デュモンの飛行機 ひこうき は操縦 そうじゅう 性能 せいのう などの点 てん ではるかにライト兄弟 きょうだい の初 はつ 飛行 ひこう より優 すぐ れていたが、当然 とうぜん のことながらライト兄弟 きょうだい の飛行機 ひこうき も3年間 ねんかん で大 おお きな進化 しんか をしていた。
^ 兄弟 きょうだい は自転車 じてんしゃ 屋 や の店舗 てんぽ を何 なん 度 ど も移 うつ している。1箇所 かしょ がデイトン 市内 しない に史跡 しせき として整備 せいび されている他 ほか 、デトロイト のフォード博物館 はくぶつかん 内 うち に移設 いせつ されたものがある。
^ 原則 げんそく はPaul Fauchille の考 かんが え方 かた を基礎 きそ にしている。
^ 農夫 のうふ となり、移住 いじゅう したカンザスシティ で亡 な くなって同地 どうち に埋葬 まいそう されている[ 4]
^ 飛行 ひこう の成功 せいこう を父親 ちちおや に知 し らせた電報 でんぽう には、電報 でんぽう 局 きょく のミスにより「57秒 びょう 」と記載 きさい された。
^ 長 なが らく挑戦 ちょうせん 者 しゃ の多 おお くが鳥 とり のように羽 は ばたく機構 きこう の飛行機 ひこうき (オーニソプター )を作 つく っていたのも一因 いちいん と推測 すいそく される。19世紀 せいき に入 はい って近代 きんだい 的 てき な航空機 こうくうき の研究 けんきゅう が始 はじ まったが、模型 もけい 飛行機 ひこうき を拡大 かくだい すればよいとして、操縦 そうじゅう 特性 とくせい の研究 けんきゅう を軽視 けいし する傾向 けいこう が見 み られた。
^ 1906年 ねん 頃 ごろ にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく でもグライダーがスポーツとして認知 にんち されてきたが、オーヴィルは1911年 ねん にグライダーで9分 ふん 45秒 びょう の滞空 たいくう 時間 じかん 世界 せかい 記録 きろく を作 つく っている(History of Soaring )(1911年 ねん のグライダー )。
^ 他 た の研究 けんきゅう 者 しゃ では、日本 にっぽん の二宮 にのみや 忠八 ちゅうはち のように資金 しきん が得 え られずに研究 けんきゅう が停滞 ていたい したケースがある。また、ラングレーは軍 ぐん から資金 しきん を受 う けていたことで、失敗 しっぱい の際 さい に強 つよ く非難 ひなん されることになった。
^ 飛行機 ひこうき の安定 あんてい 性 せい と運動 うんどう 性 せい は相反 あいはん する性能 せいのう である。ライト兄弟 きょうだい の製作 せいさく した機体 きたい は運動 うんどう 性 せい を最 さい 優先 ゆうせん として安定 あんてい 性 せい をかなり犠牲 ぎせい にしていた。ライト兄弟 きょうだい 以降 いこう の飛行機 ひこうき 製作 せいさく 者 しゃ たちはより安定 あんてい 性 せい に振 ふ った設計 せっけい を行 おこな っている。近年 きんねん [いつ? ] はコンピュータ制御 せいぎょ による安定 あんてい 性 せい 維持 いじ を前提 ぜんてい として、機体 きたい 自体 じたい の静的 せいてき 安定 あんてい 性 せい を低 ひく めて運動 うんどう 性 せい を向上 こうじょう する技術 ぎじゅつ (CCV技術 ぎじゅつ )が確立 かくりつ している。
^ これ以前 いぜん にも何 なん 度 ど か復元 ふくげん 機 き が製作 せいさく されているが、その中 なか にはエンジン出力 しゅつりょく をオリジナルより増 ま して飛 と ばしたものもあった。NHK が1980年 ねん に放送 ほうそう した「教育 きょういく テレビ スペシャル・人間 にんげん は何 なに をつくってきたか 交通 こうつう 博物館 はくぶつかん の世界 せかい 」では、エンジン出力 しゅつりょく までオリジナル通 どお りの復元 ふくげん 機 き をアメリカ人 じん の青年 せいねん が1978年 ねん に3年 ねん かけて製作 せいさく し、キティホークで24mの飛行 ひこう に成功 せいこう した模様 もよう が収録 しゅうろく されている。
^ 対 たい 気 き 速度 そくど が増 ま し、ひいては揚力 ようりょく が増 ま した
^ グスターヴ・ホワイトヘッド も試験 しけん 飛行 ひこう 中 ちゅう に事故 じこ を起 お こしている。
^ 航空機 こうくうき 年鑑 ねんかん 『ジェーン世界 せかい の航空機 こうくうき 年鑑 ねんかん (Jane's All the World's Aircraft)』
^ Tom D. Crouch 2023 , pp. 352–353
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^ Tom D. Crouch 2023 , pp. 532–533
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^ 人間 にんげん は何 なに を作 つく ってきたか4 交通 こうつう 博物館 はくぶつかん の世界 せかい (NHK出版 しゅっぱん )
^ McCullough, 2015, "The Wright Brothers", Epliogue pp. 260–261
^ 空 そら を飛 と びたい!日本 にっぽん の航空 こうくう 史 し に名 な を残 のこ した偉人 いじん たち
ピーター・スノウ、アン・マクミラン『[ヴィジュアル版 ばん ]歴史 れきし を動 うご かした重要 じゅうよう 文書 ぶんしょ :ハムラビ法典 ほうてん から宇宙 うちゅう の地図 ちず まで』原 はら 書房 しょぼう 、2022年 ねん 。ISBN 4562059753 。
Tom D. Crouch 著 ちょ 、織田 おだ 剛 つよし 訳 やく 『ライト父子 ふし 伝 でん : 初 はつ の航空 こうくう 技師 ぎし ライト兄弟 きょうだい の人生 じんせい 』合同 ごうどう 会社 かいしゃ 織田 おだ 春風 はるか 堂 どう 、2023年 ねん 。ISBN 978-4991333903 。