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エドガール・フォール

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エドガール・フォール
Edgar Faure
エドガール・フォール (1955ねん)
生年月日せいねんがっぴ 1908ねん8がつ18にち
出生しゅっしょう フランスの旗 フランス共和きょうわこくエローけんベジエ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1988-03-30) 1988ねん3月30にち(79さいぼつ
死没しぼつ フランスの旗 フランスパリ
所属しょぞく政党せいとう 急進きゅうしんとう(PR)→労働ろうどう民主みんしゅ連合れんごう(UDT)→フランス民主みんしゅ連合れんごう(UDF)→共和きょうわこく連合れんごう(RPR)

フランスの旗 フランス共和きょうわこく
だい122だい閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう
(だい138だい政府せいふ主席しゅせき)
在任ざいにん期間きかん 1952ねん1がつ20日はつか - 1952ねん3月8にち
共和きょうわこく大統領だいとうりょう ヴァンサン・オリオール

フランスの旗 フランス共和きょうわこく
だい127だい閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう
(だい143だい政府せいふ主席しゅせき)
在任ざいにん期間きかん 1955ねん2がつ23にち - 1956ねん1がつ31にち
共和きょうわこく大統領だいとうりょう ルネ・コティ
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エドガール・フォール(Edgar Faure, 1908ねん8がつ18にち - 1988ねん3月30にち)は、フランス政治せいじ随筆ずいひつ歴史れきし伝記でんき作家さっか

経歴けいれき

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1908ねん8がつ18にちラングドック・ルシヨンベジエまれる。弁護士べんごし目指めざしてパリ上京じょうきょうし、27さいでパリ弁護士べんごしかい所属しょぞく弁護士べんごしとなる。これは、当時とうじフランス全国ぜんこく最年少さいねんしょう記録きろくであった。パリで弁護士べんごし活動かつどうかたわら、政治せいじ興味きょうみち、フランスだいさん共和きょうわせいにおける主要しゅよう政党せいとうのひとつであった急進きゅうしん社会党しゃかいとう急進きゅうしんとう)に入党にゅうとうした。

だい世界せかい大戦たいせんなか、フランスがナチス・ドイツによって占領せんりょうされると、レジスタンス運動うんどう参加さんかマキ一員いちいんとなってドイツぐん抵抗ていこうした。1942ねんにはシャルル・ド・ゴール指揮しきしたアルジェリア活動かつどうし、共和きょうわこく臨時りんじ政府せいふ立法りっぽう部門ぶもん責任せきにんしゃになった。戦後せんごニュルンベルク裁判さいばんでは弁護人べんごにんつとめた。

1946ねんジュラけんから急進きゅうしんとう公認こうにん国民こくみん議会ぎかい立候補りっこうほ当選とうせんする。戦後せんご成立せいりつしたフランスだいよん共和きょうわせいだいさん共和きょうわせい同様どうよう小党しょうとう乱立らんりつのため、つね不安定ふあんてい政局せいきょくいられた。このなか急進きゅうしんとうは、連立れんりつないかく構成こうせいするじょう重要じゅうよう役割やくわりたした。フォール自身じしん多数たすう閣僚かくりょうれきかさね、1952ねんおよび1955ねんから1956ねんの2にわたり閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう首相しゅしょう)をつとめた。フォールは急進きゅうしん党内とうない派閥はばつでは右派うはぞくし、右派うは領袖りょうしゅうとして、党内とうない左派さはピエール・マンデス=フランスとはライバル関係かんけいにあった。

急進きゅうしん党内とうない右派うはということもあり、だいよん共和きょうわせい12年間ねんかんあいだにフォールの政治せいじ思想しそう急進きゅうしんとう中道ちゅうどう主義しゅぎから次第しだい転向てんこうし、右傾うけいしていった。だい共和きょうわせい成立せいりつたっては、これに反対はんたいし、1962ねん国民こくみん投票とうひょうかんしては反対はんたいしていた。しかし最終さいしゅうてきには、ド・ゴール主義しゅぎ傾斜けいしゃし、ゴーリスト政党せいとうであるしん共和きょうわ連合れんごう参加さんかした。1963ねんにはとう非公式ひこうしき代表だいひょうとして中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく訪問ほうもんしている。1966ねん農相のうしょう1968ねん国民こくみん教育きょういくしょう1972ねん社会しゃかいしょう歴任れきにんとく教育きょういく行政ぎょうせいでは、フランス国内こくない大学だいがく改革かいかくプロジェクトを提示ていじしたほかユネスコ教育きょういく開発かいはつ国際こくさい委員いいんかい委員いいんちょうとして1970ねん生涯しょうがい教育きょういくかんする報告ほうこく(フォール委員いいんかい報告ほうこく原題げんだいは「未来みらい学習がくしゅうLearning To be)を発表はっぴょうした。1974ねんフランス大統領だいとうりょう選挙せんきょ候補者こうほしゃ擁立ようりつするうごきもあったが、フォールは立候補りっこうほ固辞こじし、ド・ゴールジャック・シャバン=デルマスではなく、ヴァレリー・ジスカール・デスタン支持しじした。

チュニジアとの自治じち協定きょうてい調印ちょういんのぞむフォール(左端ひだりはし人物じんぶつ)

急進きゅうしんとう、ド・ゴール、ジスカール・デスタンのフランス民主みんしゅ連合れんごう、さらには共和きょうわこく連合れんごうへとわたあるいた政界せいかいでの閲歴えつれきから、出世しゅっせだいいち主義しゅぎしゃ風見鶏かざみどり批判ひはんされることもあったが、フォール自身じしんはユーモアにあふれた人物じんぶつで、風見鶏かざみどりという悪口わるぐちたいしても「まわるのは風見鶏かざみどりではない。かぜまわすのだ」とこたえている。

1971ねんから1977ねんまでポンタルリエ市長しちょう1973ねん下院かいん国民こくみん議会ぎかい議長ぎちょう選出せんしゅつされ、1978ねんにはフランス学士がくしいん会員かいいんとなった。

1988ねん3がつ30にち死去しきょ。パリ、パッシー墓地ぼちねむる。

日本にっぽんとの関係かんけい

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1966ねん昭和しょうわ41ねん)フォールは、エドウィン・O・ライシャワーらとともにOECD教育きょういく調査ちょうさだん参加さんかし、「日本にっぽん教育きょういく政策せいさく」にかんする報告ほうこくおこなっている。

フォールら教育きょういく調査ちょうさだんは、日本にっぽん教育きょういく高度こうど経済けいざい成長せいちょうへの巨大きょだい貢献こうけん言及げんきゅうし、初等しょとう教育きょういく評価ひょうかする一方いっぽうで、日本にっぽん教育きょういくかかえる課題かだいとして、大学だいがく頂点ちょうてんとする高等こうとう教育きょういく硬直こうちょく階層かいそう指摘してきした。さらに、教育きょういく国際こくさい必要ひつようせい強調きょうちょうしている。

著作ちょさく

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フォールは、以下いか著作ちょさく出版しゅっぱんした。

  • Le serpent et la tortue (les problèmes de la Chine populaire), Juillard, 1957
  • La disgrâce de Turgot, Gallimard, 1961 <邦訳ほうやく『チュルゴーの失脚しっきゃく 1776ねん5がつ12にちのドラマ』じょうした渡辺わたなべ恭彦やすひこやく法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、2007ねん>
  • La capitation de Dioclétien, Sirey 1961
  • Prévoir le présent, Gallimard, 1966
  • L'éducation nationale et la participation, Plon, 1968
  • Philosophie d'une réforme, Plon, 1969
  • L'âme du combat, Fayard, 1969
  • Ce que je crois, Grasset, 1971
  • Pour un nouveau contrat social, Seuil, 1973
  • Au-delà du dialogue avec Philippe Sollers, Balland, 1977
  • La banqueroute de Law, Gallimard, 1977
  • La philosophie de Karl Popper et la société politique d'ouverture, Firmin Didot, 1981
  • Pascal: le procès des provinciales, Firmin Didot, 1930
  • Le pétrole dans la paix et dans la guerre, Nouvelle revue critique 1938
  • Mémoires I, "Avoir toujours raison, c'est un grand tort", Plon, 1982
  • Mémoires II, "Si tel doit être mon destin ce soir", Plon, 1984
  • Discours prononcé pour la réception de Senghor à l'Académie française, le 29 mars 1984

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
Charles Spinasse
予算よさんしょう
1950ねん - 1951ねん
次代じだい
Pierre Courant
先代せんだい
ルネ・マイエールマイエル
司法しほうしょう
1951ねん - 1952ねん
次代じだい
Léon Martinaud-Deplat
先代せんだい
ルネ・プレヴァン
フランスの首相しゅしょう
1952ねん
次代じだい
アントワーヌ・ピネー
先代せんだい
ルネ・プレヴァン
蔵相ぞうしょう
1952ねん
次代じだい
アントワーヌ・ピネー
先代せんだい
モーリス・ブルジェ・モーヌリ
蔵相ぞうしょう
1953ねん - 1955ねん
次代じだい
ロベール・ブーロン
先代せんだい
計画けいかくしょう
1954ねん - 1955ねん
次代じだい
先代せんだい
ピエール・マンデス・フランス
外相がいしょう
1955ねん
次代じだい
アントワーヌ・ピネー
先代せんだい
ピエール・マンデス・フランス
フランスの首相しゅしょう
1955ねん - 1956ねん
次代じだい
ギー・モレ
先代せんだい
モーリス・ブルジェ・モーヌリ
内相ないしょう代行だいこう
1955ねん - 1956ねん
次代じだい
ジャン・ジルベール=ジュリィ
先代せんだい
ピエール・フリムラン
経済けいざい財政ざいせい計画けいかくしょう蔵相ぞうしょう
1958ねん
次代じだい
アントワーヌ・ピネー
先代せんだい
フランソワ=グザヴィエ・オルトリ
農相のうしょう
1966ねん - 1968ねん
次代じだい
ロベール・ブーリン
先代せんだい
エドガー・ピサニ
国民こくみん教育きょういくしょう
1968ねん - 1969ねん
次代じだい
オリヴィエ・ギシャール
先代せんだい
社会しゃかいしょう
1972ねん - 1973ねん
次代じだい
先代せんだい
アシル・プレッティ
国民こくみん議会ぎかい議長ぎちょう
1973ねん - 1978ねん
次代じだい
ジャック・シャバン=デルマス
前任ぜんにん
アンドレ・フランソワ=ポンセ
アカデミー・フランセーズ
席次せきじ18

だい15だい1978ねん - 1988ねん
後任こうにん
ミシェル・セール