エル・テムル

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

エル・テムルモンゴル: El temür, ? - 1333ねん)は、だいもとウルス後期こうき将軍しょうぐんキプチャク親衛しんえいぐんひきいる軍閥ぐんばつで、1328ねんてんれき内乱ないらん勝利しょうりしてカアンようし、独裁どくさい権力けんりょくをふるった。

もと』などの漢文かんぶん史料しりょうではつばめてつ(yàntiēmùér)としるされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

もとモンゴル帝国ていこくモンケによって征服せいふくされたキプチャクの部族ぶぞくちょう家柄いえがらで、祖父そふトトガクはモンケのおとうとクビライつかえてシリギのらんナヤン・カダアンのらんといったモンゴル帝国ていこくない内乱ないらん鎮圧ちんあつ活躍かつやくした。ちちチョンウルもクビライの曾孫そうそんカイシャン王族おうぞく時代じだいにカイシャンをたすけてオゴデイ・ウルスカイドゥやぶるのにおおきなこうがあったが、このとき少年しょうねんだったエル・テムルもちちしたがってカイシャンの幕下まくしたにあってカイシャンの寵愛ちょうあいけ、カイシャンが即位そくいするとせん徽院ごとひだりおやぐん指揮しき使昇進しょうしんした。そのもキプチャク軍閥ぐんばつ司令しれいかんとしてぐんちゅうおもきをなし、やすしていみかどイェスン・テムル治世ちせいには軍政ぐんせい機関きかん枢密院すうみついん要職ようしょくである僉枢密院すうみついんごとにのぼる。

てんれき内乱ないらん[編集へんしゅう]

致和元年がんねん1328ねんなつにイェスン・テムルがなつうえ急死きゅうししたとき、エル・テムルは子飼こがいのキプチャク軍団ぐんだんとともにふゆだい駐留ちゅうりゅうして留守るすまもっていた。もともとカイシャン恩顧おんこ将軍しょうぐんであって、イェスン・テムルの側近そっきんダウラト・シャーらの専制せんせいをこころよくおもっていなかったエル・テムルは、この機会きかいをとらえてカイシャンの遺児いじ即位そくいさせることをもくろみ、反乱はんらんこしてだい政府せいふ機関きかん接収せっしゅうした。エル・テムルはその軍事ぐんじりょくによってだい駐留ちゅうりゅう軍隊ぐんたい官僚かんりょう味方みかたにつけると、カイシャンの次男じなんトク・テムル抑留よくりゅうさきこうりょうからむかえいれ、遠方えんぽうにいるあにコシラ到着とうちゃくってカアンゆずわたそうと主張しゅちょうするトク・テムルを説得せっとくしてカアンに即位そくいさせた。エル・テムルは擁立ようりつこうをもって開府かいふどうさんつかさうえばしらこくろくぐん国重くにしげごと中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょう監修かんしゅう国史こくし枢密院すうみついんごとにんぜられ、さらに太平たいへいおうおうごうまでさづけられてトク・テムルの政府せいふ最高さいこう実力じつりょくしゃとなる。

ときにダウラト・シャーらはうえとどまったままイェスン・テムルの遺児いじアリギバ即位そくいさせたので、もとはふたつの首都しゅと南北なんぼくけた内戦ないせんとなった。しかしエル・テムルがだい進軍しんぐんしてきたうえがわぐん迎撃げいげきしてやぶると遼東りゃおとんにいた王族おうぞくだいがわについてうえ包囲ほういし、ついにアリギバとダウラト・シャーを降伏ごうぶくさせた。だいがわ勝利しょうりによって中国ちゅうごく各地かくちしょぐんはトク・テムルとエル・テムルにしたがったが、今度こんどアルタイ山脈さんみゃくえてチャガタイ・ウルス亡命ぼうめいしていたトク・テムルのあにコシラがモンゴル高原こうげんはいり、旧都きゅうとカラコルム高原こうげんしょ王族おうぞく有力ゆうりょくしゃ支持しじけてカアン要求ようきゅうした。

てんれき2ねん1329ねん)4がつ、エル・テムルはみずか高原こうげんおもむいてコシラに謁し、たまほうじてカアンに推戴すいたいした。コシラは政権せいけん奪取だっしゅこうしょうしてエル・テムルにぐんけんさい高官こうかんであるふとし称号しょうごうおくり、トク・テムルを皇太子こうたいしとしたが、8がつうえ郊外こうがい兄弟きょうだい会見かいけんした直後ちょくご急死きゅうしした。コシラの側近そっきんたちに政権せいけんうばわれることをおそれたエル・テムルが毒殺どくさつしたとわれる。皇太子こうたいしトク・テムルはすぐさまカアンに復位ふくいし、コシラの側近そっきんたちはエル・テムルによって追放ついほう処分しょぶんされた。

トク・テムルの朝廷ちょうていのもと、エル・テムルはさまざまな特権とっけんあたえられ、カアンをまったくの傀儡かいらいとする権力けんりょくしゃとして君臨くんりんした。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人みぼうじんみずかめとり、トク・テムル・カアンの長男ちょうなんエル・テグス自邸じてい養育よういくし、かわりにエル・テムルのがカアンの養子ようしとして宮廷きゅうていそだてられた。また、コシラの長男ちょうなんトゴン・テムルじつはコシラのではないとしょうし、こううらら追放ついほうした。 [1]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

いたりじゅん3ねん1332ねん)、トク・テムルは29さいわかさで死亡しぼうするにあたり、あにコシラの即位そくいさせるように遺言ゆいごんした。しかしそれにもかかわらず、エル・テムルは自身じしんやしなであるエル・テグスを即位そくいさせようとこころみ、トク・テムルの未亡人みぼうじんでエル・テグスのははであるブダシリにエル・テグス擁立ようりつ提議ていぎした。しかし、ブダシリはほろびおっと遺志いし尊重そんちょうしてコシラのてることを要求ようきゅうしたので、エル・テムルはコシラの次男じなんでわずか7さいイリンジバル即位そくいさせ、みずからはその摂政せっしょうとなったが、ようみかどイリンジバルは即位そくいからわずか43にちくなった。

ここにおいてエル・テムルはふたたびエル・テグス擁立ようりつをブダシリに要請ようせいしたが、ブダシリはおさないことを理由りゆうことわったので、エル・テムルはやむなく広西ひろせながされていたイリンジバルのあにトゴン・テムルをもどすことに同意どういした。トゴン・テムルがだいいたると、エル・テムルはこれを出迎でむかえてだいまでうまべてあゆみながら今後こんごのことをはなしたが、トゴン・テムルはエル・テムルをおそれてだまんだままだった。これをたエル・テムルはトゴン・テムルがおもどおりにならないことをおそれ、即位そくいしきさきばしにしたが、その3かげついたりじゅん4ねん1333ねん)4がつ病死びょうしした[2]

エル・テムルの死後しごも、そのおとうとサトン、いでタンキシュ中書ちゅうしょひだり丞相じょうしょうとなり、またむすめダナシリはトゴン・テムル・カアンの皇后こうごうとなってエル・テムル権勢けんせいつづいた。しかし、行政ぎょうせい機関きかん中書ちゅうしょしょう長官ちょうかんである中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょうにはエル・テムルに協力きょうりょくした軍閥ぐんばつバヤン就任しゅうにんし、バヤンが政権せいけん最高さいこう実力じつりょくしゃとして振舞ふるまっていた。げんみつる3ねん1335ねん)、ひだり丞相じょうしょうタンキシはみぎ丞相じょうしょうバヤンから政権せいけんもどそうとして反乱はんらんこしたが、バヤンによって鎮圧ちんあつされた。タンキシュをはじめエル・テムルの一門いちもん皇后こうごうダナシリをふくめてすべて殺害さつがいされ、大元おおもとウルスで権勢けんせいをふるったエル・テムルのキプチャク軍閥ぐんばつはエル・テムルのからわずか2ねん滅亡めつぼうした[3][4]

キプチャククルスマン[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ こう1971,193-198ぺーじ
  2. ^ こう1971,201-203ぺーじ
  3. ^ こう1971,204-205ぺーじ
  4. ^ みや2018,392-395ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]