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エヴァラード・ホーム

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
トマス・フィリップス英語えいごばんによるホームの肖像しょうぞう

初代しょだいじゅん男爵だんしゃくサーエヴァラード・ホームえい: Sir Everard Home, 1st Baronet FRS1756ねん5月6にち - 1832ねん8がつ31にち)は、イギリス医師いし解剖かいぼうがくものである。王立おうりつ協会きょうかいフェロー

生涯しょうがい

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軍医ぐんいであった外科医げかいロバート・ホームの息子むすことしてまれ、少年しょうねん時代じだいウェストミンスター・スクールまなんだ。1772ねん、16さいのときにケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくへの進学しんがくあきらめ、義兄ぎけいジョン・ハンター弟子でしとしてハンター同居どうきょした。1773ねんにハンターの一番いちばん弟子でしであったエドワード・ジェンナー同家どうけると、その生涯しょうがいハンターの解剖かいぼう助手じょしゅつとめるようになる。1776ねんあきにはハンターの収蔵しゅうぞうひんについて部分ぶぶんてき目録もくろく作成さくせいしている。1778ねんに22さいでハンターでの修行しゅぎょうえると外科医げかい会館かいかん認定にんていて、プリマス海軍かいぐん病院びょういん下級かきゅう外科げかとして赴任ふにんした。ジャマイカ病院びょういん常勤じょうきん外科げかとなったのち、1784ねんにイギリスに帰国きこくしハンターの助手じょしゅつとめる。1787ねん王立おうりつ協会きょうかいフェローとなる[1]。1792ねんひじりジョージ病院びょういん下級かきゅう外科げかしょくにつき、1793ねんにハンターがぬといた常勤じょうきん外科げか地位ちいた。

1807ねん王立おうりつ協会きょうかいからコプリ・メダル授与じゅよ[1]。1808ねんにはジョージ3せい外科げかとなる。1813ねんにサザンプトンぐんウェル・マナーのじゅん男爵だんしゃくじょせられた。1814ねん王立おうりつ協会きょうかいふく会長かいちょうとなり、1822ねん外科医げかい組合くみあい後身こうしんである王立おうりつ外科げか医師いしかい初代しょだい会長かいちょうとなった。1832ねん、アルコールを原因げんいんとする病気びょうき死亡しぼうした。

ハンターの死後しご、ホームは遺産いさん管理かんりをしていたウィリアム・クリフトにハンターののこした研究けんきゅう資料しりょう一切いっさい要求ようきゅうした。ホームがハンターの研究けんきゅう盗用とうようしたであろう可能かのうせいたかい。その証拠しょうこかくすために、ハンターの資料しりょうてている。1812ねんにジョセフ・アニングとメアリー・アニング兄妹きょうだい発見はっけんした化石かせきのちさかなりゅう分類ぶんるいされる)について、ホームは記述きじゅつのこした最初さいしょ人物じんぶつであった。魚類ぎょるいとの類似るいじせいはじめて指摘してきしている。カモノハシの解剖かいぼうについてももっとはや研究けんきゅうおこない、カモノハシが胎生たいせいではなくたまご胎生たいせいであることを発表はっぴょうした。人間にんげん動物どうぶつ解剖かいぼうについて多数たすう著作ちょさく発表はっぴょうし、1790ねん以降いこう、しばしば王立おうりつ協会きょうかいクルーニアン・メダル受賞じゅしょうし、記念きねん講演こうえん講師こうしつとめた。

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ a b "Home; Sir; Everard (1756 - 1832); 1st Baronet Surgeon". Record (英語えいご). The Royal Society. 2012ねん4がつ8にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ウェンディ・ムーアちょ解剖かいぼうジョン・ハンターの数奇すうき生涯しょうがい矢野やの真千子まちこやく河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2007ねんISBN 978-4309204765