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カルロス・サアベドラ・ラマス (スペイン語 ご : Carlos Saavedra Lamas 、1878年 ねん 11月1日 にち - 1959年 ねん 5月5日 にち )は、アルゼンチン の学者 がくしゃ 、外交 がいこう 官 かん で、1936年度 ねんど のノーベル平和 へいわ 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。ラテンアメリカ人 じん では初 はじ めての受賞 じゅしょう だった。妻 つま は前 ぜん アルゼンチン大統領 だいとうりょう の娘 むすめ である。
サアベドラはブエノスアイレス の貴族 きぞく の家庭 かてい に生 う まれ、ブエノスアイレス大学 だいがく から法学 ほうがく の博士 はかせ 号 ごう を受 う けた。その後 ご ラプラタ国立 こくりつ 大学 だいがく の法学 ほうがく と社会 しゃかい 学 がく の講師 こうし となり、後 のち に教授 きょうじゅ となった。
学者 がくしゃ としての彼 かれ の業績 ぎょうせき は主 おも に労働 ろうどう 法 ほう に関 かん するもので、労働 ろうどう の扱 あつか いについての国際 こくさい 的 てき な枠組 わくぐ みの必要 ひつよう 性 せい を訴 うった えた。1927年 ねん のCentro de legislacíon social y del trabajo 、1924年 ねん のTraités internationaux de type social 、1933年 ねん のCódigo nacional del trabajo などの著作 ちょさく がある。国際 こくさい 労働 ろうどう 機関 きかん の設立 せつりつ にも関 かか わり、アルゼンチン国内 こくない の労働 ろうどう 法 ほう の整備 せいび にも貢献 こうけん した。
1906年 ねん には政治 せいじ 家 か に転身 てんしん し、1908年 ねん には国会 こっかい 議員 ぎいん となって国際 こくさい 問題 もんだい の解決 かいけつ に取 と り組 く んだ。1915年 ねん には教育 きょういく 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した。
1932年 ねん から1938年 ねん にかけてはアグスティン・ペドロ・フスト 大統領 だいとうりょう の下 した で外務 がいむ 大臣 だいじん を務 つと め、パラグアイ とボリビア の間 あいだ で起 お こったチャコ戦争 せんそう の調停 ちょうてい などノーベル平和 へいわ 賞 しょう の受賞 じゅしょう 理由 りゆう となった数々 かずかず の業績 ぎょうせき を打 う ち立 た てた。中 なか でも、もし南米 なんべい の2国 こく 間 あいだ 或 ある いは他国 たこく 間 あいだ で戦争 せんそう が起 お こった場合 ばあい には、他 た の国 くに が特別 とくべつ 委員 いいん 会 かい を組織 そしき して停戦 ていせん にあたり、停戦 ていせん まで両国 りょうこく に外交 がいこう 的 てき 、経済 けいざい 的 てき 圧力 あつりょく をかけるとしたラテンアメリカ不戦 ふせん 条約 じょうやく は画期的 かっきてき なものであった。この条約 じょうやく は多 おお くの南米 なんべい の国 くに で批准 ひじゅん された。
1936年 ねん 、彼 かれ は国際 こくさい 連盟 れんめい の総会 そうかい 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ された。1941年 ねん から1943年 ねん にかけて、彼 かれ はブエノスアイレス大学 だいがく の総長 そうちょう を務 つと め、その後 ご も1946年 ねん まで教授 きょうじゅ として在籍 ざいせき した。
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