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カルロス・メサ・ヒスベルト

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カルロス・メサ・ヒスベルト
Carlos Mesa Gisbert


任期にんき 2003ねん10月17にち2005ねん6月6にち

ボリビアの旗 ボリビア共和きょうわこく
ふく大統領だいとうりょう
任期にんき 2002ねん8がつ6にち2003ねん10月17にち
元首げんしゅ ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ大統領だいとうりょう

出生しゅっしょう (1953-08-12) 1953ねん8がつ12にち(70さい
ボリビアの旗 ボリビアラパス
政党せいとう 無所属むしょぞく
配偶はいぐうしゃ エルビラ・サリナス

カルロス・メサ・ヒスベルトカルロス・ディエゴ・メサ・ヒスベルト : Carlos Diego Mesa Gisbert : 1953ねん8がつ12にち - )は、ボリビアだい78だい大統領だいとうりょう政治せいじアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくワシントンDC拠点きょてんシンクタンクIADのメンバーとなっている。

経歴けいれき

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2003ねん10月17にち中道右派ちゅうどううは政党せいとう民族みんぞく革命かくめい運動うんどうとう支援しえんけて大統領だいとうりょう着任ちゃくにん。それ以前いぜんぜん大統領だいとうりょうであるゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダしたふく大統領だいとうりょうつとめていたが、「ボリビアガス紛争ふんそう」とばれるはげしい紛争ふんそうによりサンチェス・デ・ロサダが辞任じにんおよ亡命ぼうめいしたことにより着任ちゃくにんした。どう紛争ふんそう再燃さいねんにより2005ねん6月6にち辞任じにんふく大統領だいとうりょうしょく2002ねん8がつ6にちからつとめ、国会こっかい議長ぎちょうつとめていた。

政治せいじ世界せかいはいまえは、歴史れきし学者がくしゃであり、ラジオテレビ新聞しんぶんジャーナリストとして活躍かつやくしていた。ボリビア歴史れきし学会がっかい会員かいいんでもある。

政治せいじ分野ぶんや経験けいけんすくなさにもかかわらず、サンチェス・デ・ロサダ政権せいけんでメサは急激きゅうげき頭角とうかくあらわした。2003ねん9がつには国連こくれん総会そうかいまねかれ、そこでつぎ演説えんぜつおこなっている。

貧民ひんみんによる正当せいとうあつりょくによって、ボリビアの民主みんしゅ主義しゅぎあやういものとなりつつある。わたしたちは経済けいざい成長せいちょうができないし、健康けんこうてき生活せいかつおくことができるのは少数しょうすうで、だい多数たすうひとたちはしずかに辛抱強しんぼうづよくしていなければいけない。わたしたちまずしいくには、しかるべき条件じょうけん我々われわれ生産せいさんぶつ先進せんしんこく市場いちばみとめられること要求ようきゅうするのである。

ガス問題もんだい深刻しんこくするにつれ、抗議こうぎ行動こうどうたいする政府せいふ横暴おうぼう鎮圧ちんあつのやりかたやく50めい死者ししゃたといわれる)にメサは疑問ぎもんかんじるようになっていった。サンチェス・デ・ロサダが辞任じにんする数日すうじつまえには、メサはサンチェスの援護えんごをあきらめ、「わたしはもうわたしたちがすすんできたみちささつづけることはできない」とべるにいたった。これは、メサがサンチェスの後任こうにん大統領だいとうりょうになるみちひらくというねらいがあったためであろう。かくしてメサはくに最高さいこう権力けんりょくへの切符きっぷにした。

2004ねん1がつ13にち、メサはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうジョージ・ブッシュメキシコ会談かいだんしている。

ボリビアのつぎ大統領だいとうりょう選挙せんきょ2007ねん予定よていされていたが、メサはかれ着任ちゃくにん暫定ざんていてきなものであり、サンチェス・デ・ロサダ政権せいけん任期にんきいっぱいまでつとめるつもりはいことを早々そうそう表明ひょうめいした。しかし、結果けっかとしてはかれ任期にんきまっとうする決意けついかためた。

メサはガス問題もんだいかんする国民こくみん投票とうひょうおこなうこと約束やくそくしたが、投票とうひょう項目こうもく難解なんかい言葉ことば使つかって国民こくみんまよわせる結果けっかとなってしまった。

2004ねん3がつに、メサはボリビア政府せいふ国内こくない各所かくしょ在外ざいがいボリビア大使館たいしかん集会しゅうかいひらき、1884ねん太平洋戦争たいへいようせんそううしなったうみける領土りょうど返還へんかんするようにチリはたらきかけると表明ひょうめいした。チリはこれを拒否きょひしているが、メサはこれを政策せいさく中心ちゅうしんえている。

国内こくない暴動ぼうどうけ、メサは議会ぎかいたい自身じしん辞任じにんもうれた(2005ねん3月7にち)が、議会ぎかい翌日よくじつ満場一致まんじょういっちでこれを否決ひけつした。

2005ねん6月6にち再度さいど辞任じにんもう今度こんど受理じゅりされたため大統領だいとうりょうしょくした。辞任じにんいた経過けいかについてはだい2ボリビアガス紛争ふんそう参照さんしょう

2019ねんおこなわれた大統領だいとうりょう選挙せんきょ出馬しゅつばするが、一時いちじ中断ちゅうだんされた開票かいひょう作業さぎょう再開さいかい現職げんしょくエボ・モラレス得票とくひょうびるなど、開票かいひょう作業さぎょう不審ふしんてんみとめられる[1]などした結果けっか得票とくひょうりつ36.51%で敗退はいたいした[2]。カルロス・メサ支持しじしゃ開票かいひょう結果けっか不服ふふくとして投票とうひょうしょ放火ほうかするなどして暴徒ぼうとした。モラレスの亡命ぼうめい執行しっこうされた2020ねん10がつ18にち大統領だいとうりょう選挙せんきょ英語えいごばん出馬しゅつばしたが出口でぐち調査ちょうさ時点じてん野党やとうルイス・アルセもと経済けいざい財務ざいむ大臣だいじん優勢ゆうせいとなり、最終さいしゅう結果けっかていない時点じてん勝利しょうり宣言せんげん。カルロス・メサは敗北はいぼくみとめた[3]

著作ちょさくなど

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  • Cine boliviano, del realizador al crítico(ボリビア映画えいが制作せいさくしゃから批判ひはんしゃへ)(共著きょうちょ1979ねん
  • El cine boliviano según Luis Espinal(ルイス・エスピナルによるボリビア映画えいが)(1982ねん
  • Presidentes de Bolivia: entre urnas y fusiles(ボリビアの大統領だいとうりょう投票とうひょうばこじゅうのはざま)(1983ねん
  • Manual de historia de Bolivia(ボリビアの歴史れきし解説かいせつ)(共著きょうちょ、1983ねん
  • La aventura del cine boliviano 1952-1985(ボリビア映画えいが挑戦ちょうせん 1952-1985)(1985ねん
  • Un debate entre gitanos(ジプシーたちの論争ろんそう)(1991ねん
  • De Cerca, una década de conversaciones en democracia付近ふきんから - 民主みんしゅ主義しゅぎ対話たいわの10ねん)(1993ねん
  • La epopeya del fútbol boliviano(ボリビアサッカーの叙事詩じょじし)(1994ねん
  • Territorios de libertad自由じゆう領域りょういき)(1995ねん
  • La espada en la palabra言葉ことばけん)(2000ねん

出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ
ボリビアの旗 ボリビア共和きょうわこく大統領だいとうりょう
だい78だい:2003 - 2005
次代じだい
エドゥアルド・ロドリゲス
先代せんだい
ホルヘ・キローガ (en
ボリビアの旗 ボリビア共和きょうわこくふく大統領だいとうりょう
2002 - 2003
次代じだい
アルバロ・ガルシア・リネーラ (en