(Translated by https://www.hiragana.jp/)
クリスティ・マクニコル - Wikipedia コンテンツにスキップ

クリスティ・マクニコル

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
クリスティ・マクニコル
Kristy McNichol
Kristy McNichol
クリスティ・マクニコル - 1977ねん
生年月日せいねんがっぴ (1962-09-11) 1962ねん9月11にち(61さい
出生しゅっしょう アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうロサンゼルス
職業しょくぎょう 女優じょゆう歌手かしゅ
活動かつどう期間きかん 1970-
配偶はいぐうしゃ Martie Allen
著名ちょめい家族かぞく ジミー・マクニコルあに
おも作品さくひん
『ファミリー/ あい肖像しょうぞう
リトル・ダーリング
 
受賞じゅしょう
ゴールデンラズベリーしょう
最低さいてい助演じょえん女優じょゆうしょう
1988ねんトゥー・ムーン
そのしょう
テンプレートを表示ひょうじ

クリスティ・マクニコルKristy McNichol1962ねん9月11にち - )は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく女優じょゆう。1970年代ねんだい後半こうはんから1980年代ねんだい初頭しょとうにアメリカや日本にっぽんなどにおいてアイドルてき人気にんきはくした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

家族かぞく友人ゆうじんに『アイ・ラブ・ルーシー』のデジ・アーナズがいたことから、そのつてで1970ねんごろからあにジミー・マクニコルとも子役こやくとしてテレビコマーシャルなどに出演しゅつえんはじめた。マクニコルを一躍いちやく有名ゆうめいにしたのは1976ねんから放映ほうえいされたテレビシリーズ『ファミリー/あい肖像しょうぞう』での次女じじょバディ(Buddy)やくである。1977ねん1979ねんエミーしょう最優秀さいゆうしゅう助演じょえん女優じょゆうしょうを、1980ねんピープルズ・チョイス・アワードでは「もっと人気にんきのある若手わかて女優じょゆうしょう」を獲得かくとくした。この1980ねんまで制作せいさくされたテレビシリーズによってティーン・アイドルとなった彼女かのじょは、カーペンターズのクリスマス特番とくばん出演しゅつえんしたことがきっかけで、あにのジミーと兄妹きょうだいデュオを結成けっせいし、アルバムもリリースしている。このころから映画えいがにも進出しんしゅつ1981ねんにはアメリカでもっと高額こうがくなギャラをっている女優じょゆう一人ひとり、と報道ほうどうされた。同年どうねん映画えいがかないで』では1982ねんのゴールデングローブしょうにノミネートされ、どう年度ねんどのヤング・アーティスト・アワードでは受賞じゅしょうたしている。

18さいごろから過労かろう生活せいかつ一部いちぶであった『ファミリー/あい肖像しょうぞう』の終了しゅうりょう、『パイレーツ・ムービー』などへのきびしい評価ひょうかとう原因げんいん精神せいしんてき不安定ふあんていとなり(双極そうきょくせい障害しょうがいともいわれている)、1983ねん[1]クリスティ・マクニコルのしろいロマンス』の撮影さつえいつづけられなくなるほどくるしむようになる[2]。1980年代ねんだいなかばに一時いちじ休養きゅうよう1988ねんにカムバックする[3]。とりわけテレビのホームコメディーシリーズ『Empty Nest』での主役しゅやく一人ひとりである次女じじょやく特筆とくひつすべきもので、アメリカでは彼女かのじょ本格ほんかくてきなカムバックを歓迎かんげいする報道ほうどうおおられ、のち彼女かのじょのキャリアを回顧かいこしたさいにはティーンアイドル時代じだい以外いがいでの代表だいひょうさくげられるものだが、1992ねんうつ症状しょうじょうのため番組ばんぐみ降板こうばん(1995ねん最終さいしゅうかいには出演しゅつえんした)[4]ふたた表立おもてだった活動かつどうすくなくなり、2001ねんには正式せいしき引退いんたい宣言せんげんした。その演技えんぎ学校がっこうおしえたり、チャリティ活動かつどうへの専念せんねんほうじられている。

私生活しせいかつではアイドル全盛ぜんせいころにやはり人気にんきアイドルだったレイフ・ギャレットとの交際こうさい報道ほうどうされたこともあったが、2012ねん同性愛どうせいあいをカミングアウトしている[5]

日本にっぽんでの人気にんき[編集へんしゅう]

『ファミリー/あい肖像しょうぞう』は日本にっぽんでは1979ねんから東京とうきょう12チャンネル放送ほうそうはじまったが、彼女かのじょ本国ほんごくでのブレイクから4ねんおくれで日本にっぽんでトップアイドルにげたのはテイタム・オニールとの競演きょうえんさくリトル・ダーリング』によるものがおおきい。1980年代ねんだい初頭しょとうスクリーンロードショーといった雑誌ざっし表紙ひょうしおおかざった。「スクリーン」(2007ねん2がつごう)で過去かこ60年間ねんかん人気にんき投票とうひょう通算つうさんしてのランキングを男女だんじょ50にんずつ発表はっぴょう。マクニコルは女優じょゆうの49だった。当時とうじ人気にんきけて、1981ねんの『さよならジョージア』のサウンドトラックから彼女かのじょうたう「なみだきしめて」が日本にっぽんでのみシングルカットされている。

エピソード[編集へんしゅう]

『リトル・ダーリング』の共演きょうえんしゃテイタム・オニールとはすくなからぬえんがあり、1976ねんの『がんばれ!ベアーズ』でオニールがえんじたやくは、当初とうしょマクニコルがえんじる予定よていだったとされている[6]。マクニコルが『リトル・ダーリング』でえんじたやくはオニールがことわったものだった[7]どう時期じき日米にちべいでアイドルてき人気にんきほか子役こやく俳優はいゆうたちともかかわりはふかく、1976ねんの『タクシードライバー』でジョディ・フォスターえんじたやくはマクニコルも候補こうほがっていたがことわったという[6]一方いっぽうおなじく少女しょうじょ娼婦しょうふやくだが『プリティ・ベビー』の主役しゅやくることにはだった。しかし、すでに『ファミリー/あい肖像しょうぞう』でスターになっていたマクニコルのイメージを心配しんぱいしたどう番組ばんぐみのプロデューサー・アーロン・スペリングもう反対はんたいにより、断念だんねんしたとつたえられている[6]。その1978ねんはる公開こうかいの『プリティ・ベビー』でスターとなったブルック・シールズは、同年どうねんマクニコルがあにとレコードデビューしたさいのイベントに出席しゅっせきしている。

おも出演しゅつえん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]