ケミ (ロシア)

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座標ざひょう: 北緯ほくい6457ふん 東経とうけい3436ふん / 北緯ほくい64.950 東経とうけい34.600 / 64.950; 34.600

ケミのまち(1911ねんセルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影さつえい

ケミКемь, Kem, フィンランド: Vienan Kemi)はロシアカレリア共和きょうわこくにある歴史れきしふる都市とし

概要がいよう[編集へんしゅう]

しろうみ西側にしがわ港町みなとちょうケミがわ河口かこうにある。カレリアの首都しゅとペトロザヴォーツクからムルマンスクみなとかう鉄道てつどうとおる。人口じんこうは14,620にん2002ねん国勢調査こくせいちょうさ)。沖合おきあいにはソロヴェツキー諸島しょとうかび、ソロヴェツキー修道院しゅうどういんなどが世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

しろうみ沿岸えんがん一帯いったいにはポモールばれる人々ひとびとむ。ケミの1450ねん文書ぶんしょ初出しょしゅつしており、ノヴゴロド市長しちょう(ポサドニック)マルファ・ボレツカヤ(Marfa Boretskaya)が自分じぶん所領しょりょうであったケミをソロヴェツキー修道院しゅうどういん寄付きふしている。ノヴゴロド公国こうこくモスクワ大公たいこうこく併合へいごうされたのちはケミも併合へいごうされ、1657ねんには木造もくぞうとりでてられている。

ケミのだい聖堂せいどう1711ねんから1717ねんあいだ建設けんせつされたが、これも素晴すばらしい木造もくぞう建築けんちくである。内部ないぶにあるイコノスタシスは17世紀せいきにノヴゴロドからもたらされたイコンかざられている。

ソロヴェツキー修道院しゅうどういん廃止はいしされ政治せいじはん収容しゅうようしょとなった時期じき1926ねんから1939ねんあいだはケミから政治せいじはんせたふね出港しゅっこうしていた。収容しゅうようしょだい世界せかい大戦たいせん直前ちょくぜん海軍かいぐん基地きちにするために廃止はいしされ、ケミにも冷戦れいせん時代じだいにはカレリア一帯いったい管轄かんかつするだい規模きぼ空軍くうぐん基地きちがあった。

1978ねん4がつ21にち発生はっせいした大韓航空だいかんこうくう機銃きじゅうげき事件じけんでは、不時着ふじちゃく地点ちてんからヘリで輸送ゆそうされた乗客じょうきゃくらがケミ空港くうこう移送いそうされ、その市内しない公会堂こうかいどう一時いちじ収容しゅうようされた(翌日よくじつムルマンスク空港くうこう経由けいゆ帰国きこく[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ バシッ!客席きゃくせきへミグの銃弾じゅうだん 恐怖きょうふ大韓航空だいかんこうくう朝日新聞あさひしんぶん』1978ねん昭和しょうわ53ねん)4がつ24にち朝刊ちょうかん、13はん、23めん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]