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ゴダイヴァ夫人ふじん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・コリアさく「ゴダイヴァ夫人ふじん」。1898ねんごろ作品さくひん

ゴダイヴァ夫人ふじん(ゴダイヴァふじん、Lady Godiva、990ねんごろ - 1067ねん9がつ10日とおか?)は、11世紀せいきイングランド女性じょせいマーシアはくレオフリック英語えいごばん夫人ふじんで、自身じしんのち領主りょうしゅとなった。おっとレオフリックの圧政あっせいいさめるためコヴェントリーまちはだかうまって行進こうしんしたという有名ゆうめい伝説でんせつのこっているが、中世ちゅうせい専門せんもんとする歴史れきし見解けんかいは、これは「史実しじつではない」ことで一致いっちしている。

どう時代じだいごろかれたとされるにせイングルフ英語えいごばん年代ねんだいによれば、ゴダイヴァは「うつくしいかぎりの、せいこころもちの女性じょせい」であったといわれる[1]

ベルギーのチョコレートメーカー「ゴディバ」のブランドめいおよびそのロゴはゴダイヴァ夫人ふじん伝説でんせつ由来ゆらいするが日本語にほんご表記ひょうき発音はつおんはベルギーでの発音はつおんにしたがい「ゴディバ」とすることがおお[2]

伝説でんせつ[編集へんしゅう]

えいべいひろしんじられている漠然ばくぜんとした伝説でんせつは、領民りょうみんたいしてなさぶか夫人ふじんが、理不尽りふじんおっと難癖なんくせをつけられて、素裸すっぱだか長髪ちょうはつをなびかせうまり、町内ちょうない横断おうだんする羽目はめになった。町人ちょうにん夫人ふじん恩義おんぎかんじて、をそむけ野次馬やじうまするのをひかえたものの、ただ一人ひとり、トムというおとこぬすた。以来いらいピーピング・トムといえばのぞをする人間にんげん代名詞だいめいしとなったというものであるが、このうちどの部分ぶぶんがどのように成立せいりつしたかを以下いか説明せつめいする。

この伝説でんせつについては、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー英語えいごばん(1236ねんぼつ)の年代ねんだい、『歴史れきしはな英語えいごばん』がもっとも簡素かんそかつ最古さいことされる典拠てんきょであるが[3]、それはつぎのような記述きじゅつである:[4]

伯爵はくしゃく夫人ふじんゴダイヴァは聖母せいぼたいそうな敬愛けいあいしゃで、コヴェントリーのまち重税じゅうぜいから解放かいほうせんとほっし、たびたびおっとたいして祈願きがんして(減税げんぜいを)せまった。…伯爵はくしゃくはいつもきつくしかりつけ、二度にどとそのはなしはせぬようたしなめたが、(それでもなおねばるので)ついに「うまにまたがり、民衆みんしゅうみながいるまえで、はだかりまわせ。まち市場いちばをよぎり、はしからはしまでわたったならば、おまえ要求ようきゅうはかなえてやろう」とった。ゴダイヴァは「ではわたしにそのがあればおゆるいただけますのですね?」ねんをおしたが、「ゆるす」という。さすればかみあいされし伯爵はくしゃく夫人ふじんは、かみきほどき、かみぼうらして、全身ぜんしんをヴェールのようにおおわせた。そしてうまにまたがりにん騎士きしきょうにつけ、市場いちばけてつっきったが、そのうつくしいおみあし以外いがいだれにもられなかった。そして道程どうてい完走かんそうすると、彼女かのじょ々として驚愕きょうがくするおっとのところにもどり、さき要求ようきゅうかなえた。レオフリクはくは、コヴェントリーのまち前述ぜんじゅつやくからめんじ、みことのりれい憲章けんしょう)によってこれを認定にんていした。

ロジャーの『歴史れきしはな』よりもひろ書写しょしゃされた中世ちゅうせい時代じだいのベストセラーに、おな僧院そういん後輩こうはいマシュー・パリス英語えいごばんによるていばんともいうべき『だい年代ねんだい英語えいごばん』があるが、その記述きじゅつうえ大差たいさはなく、だれにもられなかったことを伯爵はくしゃくが「奇跡きせきだとかんった」という部分ぶぶんのみが誇張こちょうである[5]

トマス・パーシー司教しきょう英語えいごばんのフォリオ写本しゃほん(1650ねんごろ写本しゃほん所収しょしゅうのバラッドのいちへん「レオフリクス」(Leoffricus)[6][7]では、伯爵はくしゃくはすでに市民しみんたい免税めんぜい優遇ゆうぐうさくほどこしてはいたが、ただ「うまみつぐ」だけがいまだ徴収ちょうしゅうされていたので、つまのゴダイヴァ (Godiva) が、さらにその撤廃てっぱい嘆願たんがんした。ゴダイヴァは、はだか馬乗うまのりすることをめいじられた指定していして、町内ちょうないちゅう役人やくにん通知つうちすると、役人やくにんたちは彼女かのじょみ、町民ちょうみんたちにめいじて、「そのいえにこもってまどるように」といつけた[8]町民ちょうみん屋内おくないじこもれという発令はつれいがされるのは、このバラッドがはつだという[9]

また、「はだかで」という言葉ことば解釈かいしゃくにも諸説しょせつあり、「ながかみ効果こうかてきからだかくしていた」「下着したぎのようなものはけていた」「貴族きぞく象徴しょうちょうである装飾そうしょく宝石ほうせきるいはずした格好かっこうだったことを『はだかで』といいあらわした」など複数ふくすうせつがある。ただし、彼女かのじょ時代じだいの"naked"というかたりは「いかなる衣服いふくにつけず」という文字通もじどおりの意味いみであり、それ以上いじょう比喩ひゆてき使つかかたがあったわけではなく、こうづけてき解釈かいしゃくであるかんいなめない。また、領民りょうみんのためではなくみずからの懺悔ざんげのためにったというせつもある[よう出典しゅってん]

ピーピング・トム (伝説でんせつ)[編集へんしゅう]

コヴェントリーの行事ぎょうじ展示てんじされたピーピング・トムの木像もくぞう。W. Reader (1826ねん投稿とうこう記事きじ)のスケッチ

町衆まちしゅうみんながまもった礼儀れいぎにさからって、一糸いっしまとわぬゴダイヴァ夫人ふじんをただひとりのぞしたというピーピング・トム伝説でんせつは、文学ぶんがく作品さくひんからひろまった形跡けいせきはない。これは17世紀せいき以降いこう、コヴェントリー地域ちいきちまた出現しゅつげんした伝説でんせつである。

1826 ねん投稿とうこうされた W. Reader という地元じもとどおり記事きじによれば、夫人ふじんをのぞきした仕立屋したてやがいたという伝説でんせつはそのころすでに定着ていちゃくしており、まちをあげての恒例こうれいまつり (Trinity Great Fair 現今げんこんen:Godiva Festival) では、ゴダイヴァ夫人ふじんふんしたひと行列ぎょうれつ参列さんれつし (Godiva processions)、街角まちかどには「ピーピング・トム」とばれる木像もくぞうかれるしきたりであった(そのイラスト画像がぞうなどは#資料しりょう参照さんしょう)。どう記事きじ筆者ひっしゃは、この木像もくぞう甲冑かっちゅう異称いしょうなどから、それがチャールズ2せい(1685ねんぼつ時代じだいごろのものと推定すいていする。また、古物ふるもの収集しゅうしゅうウィリアム・ダグデール英語えいごばん (1686ねんぼつ)が、そのきょちょらのなかで「のぞき野郎やろう」のことにひとこともれていないことから、伝説でんせつ発祥はっしょうはその結論けつろんした[10]

ゴダイヴァ夫人ふじん行進こうしん行事ぎょうじはじめて開催かいさいされたのは1677ねんであるが[11]よく1678ねんにはジェームズ・スウィナートンというおとこがゴダイヴァ夫人ふじんやくだったという[12]

文献ぶんけんにおける「のぞおとこ登場とうじょう経緯けいいについては『英国えいこく人名じんめい事典じてん (DNB 1890) 』にくわしい[13]。まず歴史れきしポール・ド・ラパン=トワラ英語えいごばん (1732ねん)がルポタージュする地元じもと事情じじょうによれば、まどめきってるな、死罪しざいしょすぞ、ときついおたっしがあったのにのぞきしたおとこがおり、そいつはいのちつぐなったというのがまちのいいつたえであり、まちではこの故事こじ記念きねんし、おとこぞういちけんいえまどからそとのぞくようにかざってあると報告ほうこくする[14]つぎにトマス・ペナント『チェスターからロンドン』( 1782 ねん)によれば、 のぞきしたのはとある仕立屋したてやだったとし、ゴダイヴァ夫人ふじん行進こうしんでは、ゴダイヴァやくが、むろん全裸ぜんらではないが、四肢ししにぴったりわせた純白じゅんぱくきぬころもをまとうとしている[15]英国えいこく人物じんぶつ事典じてんによれば、「ピーピング・トム」が名指なざしで文書ぶんしょ登場とうじょうする最古さいこれいはコヴェントリー公式こうしき年代ねんだい(1773ねん6がつ11にちづけ)で、木偶でくあたらしいかつらと塗料とりょう支給しきゅうされた記録きろくである。

このほか、のぞおとこがアクティオン(?)(Action) であったという1700ねん以前いぜん書簡しょかんがあるという[16]

トム(トーマス)というはアングロサクソンめいではないので、実在じつざいのゴダイヴァ夫人ふじん時代じだい領民りょうみんとしてはありえないことが指摘してきされている。またトーマスはこののちに天罰てんばつがくだって盲目もうもくにされた、あるいは住民じゅうみんによって視力しりょくうばわれてしまったともつたえられる[17]

ピーピング・トム (俗語ぞくご)[編集へんしゅう]

ピーピング・トム (Peeping Tom) は英語えいご俗語ぞくごで、のぞのこと。ゴダイヴァ夫人ふじん裸身らしんのぞ上記じょうきおとこ由来ゆらいする。日本語にほんご同意どうい俗語ぞくご出歯亀でばかめ」(でばがめ)に相当そうとう

史実しじつ[編集へんしゅう]

マーシアはくレオフリック( -1057ねん)のつま名前なまえつづりは一定いっていしてしない。アングロサクソンめいは Godgifu または Godgyfu であり、これはgood giftを意味いみする[18]。Godiva はラテン語らてんごふうつづりである。イーリーだい聖堂せいどう年代ねんだい Liber Eliensis (12世紀せいきまつ) によれば、ゴダイヴァという伯爵はくしゃく未亡人みぼうじんが1028-9ねんごろ死期しきさとどう寺院じいん土地とち寄贈きぞうしたとあるが、もしこれとどう一人物いちじんぶつであるとすれば、その彼女かのじょ病状びょうじょうから回復かいふくして、そののちにレオフリックと再婚さいこんしたことになる[19]

レオフリックもゴダイヴァもとも信仰しんこう活動かつどう熱心ねっしんであった。ロジャー・オブ・ウェンドーヴァーによれば、レオフリックはくが1057ねん死去しきょしたとき、みずから建立こんりゅうしたコヴェントリーの修道院しゅうどういん埋葬まいそうされたが、この建立こんりゅうつまであるゴダイヴァ伯爵はくしゃく夫人ふじん助言じょげんによるものであったという[20]。このベネディクトかい修道院しゅうどういんひじりメアリーのしょう修道院しゅうどういん英語えいごばんは、1043ねん設立せつりつされたが[21][22]修道院しゅうどういん解散かいさんれいはいいんとなった 。くだって1050年代ねんだいには、ウスターせいメアリー修道院しゅうどういん (St Mary's Priory) への土地とち寄進きしんじょうにおいて、またリンカンシャーしゅうストウむらせいメアリー教会きょうかい英語えいごばん(Minster Church of St Mary, Stow in Lindsey)の建立こんりゅうみことのりれいにも、ゴダイヴァ(Godgife)のがレオフリックの連記れんきされている[23][24] 。さらに夫妻ふさい名前なまえはレオミンスター、チェスター、マッチウェンロック、エヴェシャムの教会堂きょうかいどう後援こうえんしゃとして記録きろくされている[25]

1057ねんにレオフリックと死別しべつしたのち未亡人みぼうじんとしてノルマン・コンクエストまでびた。ウィリアム1せいによる検地けんち台帳だいちょうドゥームズデイ・ブック」には、ノルマンじんによるイングランド征服せいふくもわずかながらのこったアングロサクソンじん領主りょうしゅ一人ひとりとして、また唯一ゆいいつ女性じょせい領主りょうしゅとしてしるされている。ただし土地とち調査ちょうさおこなわれた1086ねんにはすでにゴダイヴァは死去しきょしていたとするせつもあり[26]、1066ねんから1086ねんあいだ死去しきょしたとするせつ、1067ねん9がつ10日とおかをゴダイヴァの命日めいにちとするせつなど諸説しょせつある[27]。また、ゴダイヴァの墓所はかしょについても、おっととなり埋葬まいそうされたとするせつ、すでに現存げんそんしないエヴェシャムの教会きょうかい埋葬まいそうされたとするせつなど諸説しょせつある。

これらの史実しじつから、コヴェントリーまちはだかうまって行進こうしんしたという「有名ゆうめい伝説でんせつ事実じじつではない」というのが歴史れきし一致いっちした見解けんかいである[28][29][30]

コヴェントリーとゴダイヴァ夫人ふじん[編集へんしゅう]

ウィリアム・レイド・ディックきょうによるゴダイヴァ夫人ふじん騎馬きばぞう

コヴェントリーはゴダイヴァ夫人ふじん故事こじ有名ゆうめいであり、2018ねん制定せいていされたあたらしいはたうまったゴダイヴァ夫人ふじんのシルエットになっている[31]

中央ちゅうおう広場ひろばであるブロードゲイト(Broadgate)には、ゴダイヴァ夫人ふじん騎馬きばぞうがある(位置いち北緯ほくい5224ふん28.95びょう 西経せいけい130ふん37.39びょう / 北緯ほくい52.4080417 西経せいけい1.5103861 / 52.4080417; -1.5103861)。このぞうはウィリアム・レイド・ディック(en:William Reid Dick)きょう(1878-1961)によってられ、1949ねん10がつ22にち当時とうじアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使たいし夫人ふじんのダグラス夫人ふじんによって除幕じょまくされたものである。

ぞう寄進きしんしゃはコヴェントリーの企業きぎょうであった W H バセット=グリーン(W H Baddett-Green) (1870-1960)であり[32]ぞう台座だいざめんにそのことが明記めいきされている。かれ当時とうじの20,000ポンドをかけてぞう制作せいさくを1937ねんにウィリアムきょう依頼いらいし、ぞうは1944ねん完成かんせいしていた[33]

ぞう正式せいしき名称めいしょうはSelf Sacrifice(「自己じこ犠牲ぎせい」のであり、ぞう台座だいざ正面しょうめん刻印こくいんされている。)であるが、通常つうじょうはLady Godiva Statueとばれている。その、この騎馬きばぞう上空じょうくうにテントしき天蓋てんがいen:canopy)が設置せっちされたが、市民しみん評判ひょうばんわるいこともあり、2008ねん10がつ撤去てっきょされた[34]。さらにその騎馬きばぞうかこむフェンスも撤去てっきょされた。このぞうは、1998ねん4がつ15にちに、イングランド遺産いさんのグレードⅡ* に指定していされている[35]

騎馬きばぞう台座だいざ側面そくめんにはアルフレッド・テニスンによるつぎきざまれている。

  • うま進行しんこう方向ほうこう左側ひだりがわ台座だいざ:GODIVA/SHE RODE FORTH CLOTHED ON WITH/CHASTITY THE DEEP AIR LISTEN D ROUND/HER AS SHE RODE AND ALL THE LOW WIND/HARDLY BREATHED FOR FEAR/Tennyson
  • うま進行しんこう方向ほうこう右側みぎがわ台座だいざ:GODIVA/THEN SHE RODE BACK CLOTHED ON WITH/CHASTITY SHE TOOK THE TAX AWAY AND/BUILT HERSELF AN EVERLASTING NAME/Tennyson

時代じだいべつ撮影さつえい方向ほうこうべつのゴダイヴァ夫人ふじん騎馬きばぞう写真しゃしんについては、ウィキメディアコモンズMedia in category "Lady Godiva (by William Reid Dick)" Wikimedia Commons を参照さんしょうのこと。

コヴェントリーのブロードゲイトハウス(市庁舎しちょうしゃ)のとう設置せっちされているゴダイヴァ時計とけい
ゴダイヴァ時計とけい詳細しょうさい ピーピング・トムが見下みおろしている。

ゴダイヴァ時計とけい[編集へんしゅう]

騎馬きばぞうみなみたるBroadgate House(市庁舎しちょうしゃ)のとうには、1953ねん設置せっちされたゴダイヴァ時計とけい(Godiva Clock)という仕掛しか時計とけいがある。まい正時まさとき白馬はくばまたががったゴダイヴァ夫人ふじん人形にんぎょうあらわれ、それをうえからピーピング・トムのぞくという仕掛しかけになっている[36][37]。ゴダイヴァ夫人ふじん騎馬きばぞう当初とうしょはこのゴダイヴァ時計とけいうように(みなみきに)設置せっちされていたが、1990ねんに90方角ほうがくえられ、西にしくようになった[33]

その[編集へんしゅう]

  • 欧米おうべいでは、増税ぞうぜい反対はんたいなどの街頭がいとう抗議こうぎデモをおこなさいに、ゴダイヴァ夫人ふじん故事こじにならい、スキンカラーのボディスーツをまとった女性じょせい白馬はくばにまたがり、ねりあるくパフォーマンスをおこなうことがある[38][39][40]
  • SF作家さっかロバート・A・ハインラインは、「効果こうかてきなパフォーマンス」「印象いんしょうてき出来事できごと」のれいとして、ゴダイヴァ夫人ふじん故事こじ頻繁ひんぱん引用いんようしている。
  • ノースロップ・グラマンF-14トムキャット戦闘せんとう偵察ていさつバージョン(偵察ていさつポッドを搭載とうさい)は、ニックネームがピーピング・トムである。
  • クイーン楽曲がっきょくドント・ストップ・ミー・ナウ」の歌詞かしでは、競技きょうぎよう自動車じどうしゃについて、ゴダイヴァ夫人ふじんのようにけると表現ひょうげんされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Ingulph's (?) Historia Croylandensis (she was 'tunc fœminarum pulcherrima sic corde sanctissima"), Hales & Furnival へん "Leoffricus"じょ、p.473 で引用いんよう; "a most beautiful and devout lady," (Gentleman's Mag. Lib. 4, p.110)
  2. ^ 「GODIVA」の由来ゆらい ゴディバのエピソード
  3. ^ DNB 1890 (Dict. Nat. Biog.), vol.22, .36 "the simplest and oldest form.. by Roger of Wendover, whose Flores.."
  4. ^ Giles 1899 英訳えいやく, p.314-5 より重訳じゅうやく
  5. ^ Matthew Paris, Yonge1853へんやく
  6. ^ Hales & Furnivall 1868, だい3かん, p.473-
  7. ^ 匿名とくめい Collection of Old Ballads (1723-5)にも異本いほん収録しゅうろく
  8. ^ Hales & Furnivall 1868, だい3かん, p.473-, "wherefore to all the officers of all the towne she sent .. that on the day that shee shold ryde, all persons through the towne / shold keepe their houses, & shutt their dore, & clap their windowes downe," 53-60 ぎょう
  9. ^ DNB 1890, "This ballad first mention the order.."
  10. ^ W.Reader 1826 vol.96, p.22 "yet no one, including the late Sir W. Dugdale, even hint at the circumstance in question. We may safely, therefore, appropriate it to the reign of Charles II."
  11. ^ W.Reader 1826 vol.96, p.22, "In 1677 .. the Procession at the great Fair was first instituted."
  12. ^ Hartland, E. Sydney, Science of Fairy Tales, (1890), p.75 コヴェントリー年代ねんだい写本しゃほんより抜粋ばっすい:"31 May 1678, being the great Fair at Coventry.. and Ja. Swinnertons Son represented Lady Godiva"
  13. ^ DNB 1890, "That one person disobeyed the order .. first stated by Rapin (1732)... Pennant (Journey from Chester to London)(1782) calls him 'a certain taylor.' The name 'peeping Tom' occurs in the city accounts on 11 June 1773 when a new wig and fresh paint were supplied for his effigy."
  14. ^ Paul M. Rapin de Thoyras ちょ, Thomas, N. Tindal 英訳えいやく "The History of England" Vol. I, 2nd ed. 1732年版ねんばん p.135, "Notwithstanding, there was one, who could not forebear giving a look.."
  15. ^ Pennant, Thomas, "The Journey from Chester to London" 1811年版ねんばん p.190, "the curiousity of a certain taylor overcoming his fear, he took a single peep"(このはんでは、すでにこのころきぬではなく綿めんころもがつかわれている、と脚注きゃくちゅうする)
  16. ^ DNB 1890, "Poole quotes from the 'Gentleman's Magazine' a letter from Canon Seward (ca. before 1700) which makes the peeper 'a groom of the countess,' named Action (?Actæon)"
  17. ^ Leman Rede, "Peeping Tom", The New Monthly Magazine and Humorist, (1838), Part the First, p. 115: "Tradition adds, that the people resolved to close up their houses,.. but.. that one, whose name has not survived, looked forth upon her, and was strcken blind, as some affirm, by the vengeance of Heaven; or, according to others, was deprived of sight by the inhabitants." (引用いんようだが、典拠てんきょを"a modern writer" としかかさない)
  18. ^ Amazon.co.jp → 「なか検索けんさく」をクリック → Chaper1 Godgifu of Mercia pp.7-8 Yet in pre-Conquest England, the name God-gifu was a typical compound meaning "good gift," pronounced with the primary accent on the first syllable(goad-yivu).
  19. ^ DNB 1890 (Dict. Nat. Biog.)
  20. ^ Roger of Wendover, 前述ぜんじゅつ(西暦せいれき1057ねん記述きじゅつ), Giles 1899 英訳えいやく, p.314 "Leofric earl of Chester.. was buried in the monastery he had founded at Coventy...by the advice of his wife the noble countess Godiva."
  21. ^ Dugdale, William (1686ねんぼつ) , Monasticon Anglicanum (Bohn, 1846), Vol. III, p.177。"1043ねん"の記述きじゅつは, 付録ふろく Num. IV のアレクサンダー教皇きょうこう勅書ちょくしょにみえ、また、建立こんりゅうみことのりれい異本いほんでは 1044ねん, 1051ねん]
  22. ^ 1043ねんみことのりれい数々かずかず異本いほんAnglo-Saxons.net, S 1226提示ていじ。ただし真贋しんがんについては、うたがわしい('spurious'と表記ひょうきされる)
  23. ^ ウスターのみことのりれいには[「レオフリクとそのつま」とのみ表記ひょうきAnglo-Saxons.net, S 1232
  24. ^ ストウみことのりれいでは"Godgife" と表記ひょうきAnglo-Saxons.net, S 1478. Thorpe (現代げんだい英語えいごやくづけ) p.320
  25. ^ The Chronicle of John of Worcester ed. and trans. R.R. Darlington, P. McGurk and J. Bray(Clarendon Press: Oxford 1995), pp.582-583
  26. ^ K.S.B.Keats-Rohan, Domesday People: A prosopography of persons occurring in English documents 1066-1166, vol.1: Domesday (Boydell Press: Woodbridge, Suffolk 1999), p.218
  27. ^ "A History of Penn and its People", Wolverhampton History & Heritage Society
  28. ^ [1] Coe, Charles. "Lady Godiva: The Naked Truth." Harvard Magazine. July-Aug. 2003 (July 28, 2008) だい2段落だんらく But as it happens, most medieval scholars agree the ride never took place.
  29. ^ [2] Lady Godiva: The naked truth, BBC News, 24 August, 2001, 15:31 GMT だい13段落だんらく Regrettably, though, the story of Lady Godiva's ride is almost certainly a myth. 
  30. ^ [3] Why did Lady Godiva take a naked horse ride?  だい2ページの最終さいしゅう段落だんらく Too bad it's not true. On the next page, we'll take a closer look at the story and see why historians have discounted it. だい3ページのだい5段落だんらく Therefore, Godiva's ride never happened because there simply was no need for her to prove anything.  
  31. ^ Lady Godiva features on Coventry's first official flag 2018ねんまつ制定せいていされた。
  32. ^ ART IN COVENTRY – SCULPTURE OF THE DAY – LADY GODIVA. MUSIC AND ART IN COVENTRY, 2015-02-05
  33. ^ a b Coventry HER HeritageGateway
  34. ^ “Godiva statue canopy comes down”. BBC News Online (BBC). (2008ねん10がつ29にち). オリジナルの2008ねん11月1にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081101132321/http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/coventry_warwickshire/7697036.stm 2008ねん10がつ30にち閲覧えつらん 
  35. ^ LADY GODIVA STATUE, BROADGATE Historic England
  36. ^ The Godiva Clock Coventry Society
  37. ^ Lady Godiva clock, Coventry 18 Jan 2016 
  38. ^ [4] Businesswoman in Godiva-style protest, BBC News, Thursday 19 September, 2002
  39. ^ [5] A modern-day Lady Godiva to re-enact tax protest ride, DESERET NEWS April 14-15, 1983
  40. ^ Lady Godiva Rides Again 2010-06-18

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

いち資料しりょう[編集へんしゅう]

資料しりょう[編集へんしゅう]

  • Daniel Donoghue (2002-12). Lady Godiva: A Literary History of the Legend. Springer. ISBN 978-1405100472 
  • (anonymous), The history of lady Godiva and Peeping Tom of Coventry, with a description, Coventry, J. W. Mills, sixth ed., sans date. books.google(トムぞうちょうネクタイをしている)
  • Dugdale, William, Antiquities of Warwickshire (1656)、p.66 Internet Archive
  • Hartland, E. Sydney, "Peeping Tom and Lady Godiva," Folk-Lore, I, 2 (June, 1890) 217-226 (books.google)
  • 英国えいこく人名じんめい事典じてん
  • ピーピング・トムの木像もくぞうのスケッチ
    • (再版さいはん/カット)The Gentleman's magazine library 4 (1885) (1731-1868ねん記事きじ主題しゅだいべつ分類ぶんるい), p.111

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]