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サロウ

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Salou

   市章


しゅう  カタルーニャしゅう
けん  タラゴナけん
面積めんせき 15.1 km²
標高ひょうこう 5m
人口じんこう 30,087 にん (2023ねん[1]
人口じんこう密度みつど 1,992.52 にん/km²
住民じゅうみん呼称こしょう Salouense
Salouの位置(スペイン内)
Salou
Salou
スペインないサロウの位置いち
Salouの位置(タラゴナ県内)
Salou
Salou
タラゴナ県内けんないサロウの位置いち

北緯ほくい4104ふん27びょう 東経とうけい0108ふん20びょう / 北緯ほくい41.07417 東経とうけい1.13889 / 41.07417; 1.13889座標ざひょう: 北緯ほくい4104ふん27びょう 東経とうけい0108ふん20びょう / 北緯ほくい41.07417 東経とうけい1.13889 / 41.07417; 1.13889

サロウSalou)は、スペインカタルーニャしゅうタラゴナけんムニシピオ基礎きそ自治体じちたい)。地中海ちちゅうかいめんしたコスタ・ドラダの中心ちゅうしんてき観光かんこうである。

歴史れきし

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1530年代ねんだいにつくられたトレ・ベリャ

現在げんざい仮説かせつによれば、フォキスからたギリシャじんによってサランリオ(Salanrio、すなかい意味いみする)が紀元前きげんぜん6世紀せいきにつくられた。はじめてこの都市としの「海洋かいよう仕事しごと」についてしるしたのは、4世紀せいきローマの記述きじゅつアヴィエノである。このほん紀元前きげんぜん530ねんから紀元前きげんぜん500ねんあいだかれたギリシャの文書ぶんしょもととしており、ジブラルタルからマルセイユまでのスペイン地中ちちゅう海岸かいがんについて地理ちりてき記述きじゅつをしている。ローマ時代じだい都市としめいはサラウリス(Salauris)であり、ヒスパニア・キテリオール有数ゆうすう海港かいこうひとつだった。

ムーアじんイベリア半島はんとう征服せいふくによって人々ひとびと都市としててり、ながあいだてられた。

レコンキスタはずみとなってサロウはふたた繁栄はんえいはじめた。1211ねん、タラゴナ大司教だいしきょう区内くない代官だいかんとなった。サロウの天然てんねんみなととしての例外れいがいてき役割やくわりによって、このアラゴン王国おうこく有数ゆうすう海港かいこうへと急速きゅうそく変貌へんぼうし、この状況じょうきょうは19世紀せいきまでわらなかった。カタルーニャ商船しょうせんマリョルカにいるサラセンじん海賊かいぞくによって襲撃しゅうげきされたため、バルセロナタラゴナトゥルトーザ商人しょうにんたちがおう征伐せいばつ要請ようせいした。1229ねん9がつ、アラゴンおうハイメ1せいはアラゴン・カタルーニャ連合れんごうぐんひきいてサロウを出航しゅっこうし、レコンキスタをたした。

海賊かいぞくによる略奪りゃくだつ住民じゅうみんおびやかすことから、1530ねんにタラゴナ大司教だいしきょう防衛ぼうえいようにトレ・ベリャの建設けんせつめいじた。

収穫しゅうかくじん戦争せんそうなかの1649ねんフェリペ4せい将軍しょうぐんガライは、レウスを占領せんりょうし、バルセロナの民兵みんぺいやカタルーニャがわについたフランスぐん悪用あくようされないようにサロウの監視かんしとう破壊はかいした。

1673ねん、タラゴナ大司教だいしきょう自治体じちたいとしての特権とっけんをサロウにあたえた。これにより、サロウとサロウこう独立どくりつした存在そんざいとなった。1858ねんみさき突端とったん灯台とうだい設置せっちされた。

20世紀せいき初頭しょとう、サロウこう世紀せいきなかばまで衰退すいたいし、みなとでの操業そうぎょうきんじられた。このためサロウは商業しょうぎょう・リゾートみなとへの転換てんかんはかった。[訳語やくご疑問ぎもんてん]

外部がいぶリンク

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Idescat. El municipio en cifras”. www.idescat.cat. 2024ねん3がつ14にち閲覧えつらん