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シモン・バル・ギオラ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

シモン・バル・ギオラヘブライשמעון בר גיוראラテン語らてんごSimon Bar Giora、? - 70ねん)とは、ユダヤ戦争せんそうでのユダヤじんがわ指導しどうしゃ一人ひとりで、フラウィウス・ヨセフス穏健おんけんたいして、強硬きょうこうされた人物じんぶつである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ユダヤ戦争せんそう開始かいしから3ねん68ねん、4にんのユダヤじんがわ指導しどうしゃあらわれた。すなわち、ギスカラのヨハネen以下いかはヨハネ)、エルアザル・ベン・シモンen)、ヨセフス・ベン・マタティア(フラウィウス・ヨセフス)、そしてシモン・バル・ギオラ(以下いかはギオラ)である。

ギオラはやく4まんにんものローマぐん釘付くぎづけにした非常ひじょう有能ゆうのう司令しれいかんであったが、実際じっさいにはこのとし6月9にちローマ皇帝こうていネロ自殺じさつし、70ねんまでの2年間ねんかんで4にんのローマじん相次あいついで皇帝こうてい地位ちいあらそ内戦ないせん突入とつにゅう中央ちゅうおう政府せいふ弱体じゃくたいして、ユダヤ戦争せんそうへの対応たいおう棚上たなあげとなったこともプラスにはたらいた。

ギオラは「奴隷どれいのための自由じゆう自由じゆうのための報酬ほうしゅう」を公約こうやくして、フラウィウス・ヨセフスらと政治せいじてき路線ろせん対立たいりつした。やがて、ヨセフスはローマぐん降伏ごうぶくすることとなる。エドムじんのシモン・バル・ギオラは、「改宗かいしゅうしゃ息子むすこ」のニックネームを意味いみする。シモンにとってヨハネは最大さいだいのライバルであった。

エドムじんたちは、ヨハネのちからおそれて、エルサレム市街しがい一部いちぶかたまってんだ。ギオラは69ねん4がつにその場所ばしょはいり、ギオラはおうとして、エルサレムが陥落かんらくするまで裁決さいけつおこなった。せまいエルサレム市街地しがいちないで、熱心ねっしんとう扇動せんどうするエルアザル・ベン・シモン、シカリウスひきいるギオラ、それ以外いがい反対はんたいとうはヨハネを指導しどうしゃとして、ローマぐんあらそとき以外いがいは、ユダヤじん四分五裂しぶんごれつ内戦ないせん状態じょうたいとなった。ヨセフスは、ヨハネの部下ぶかおとこが、しばしば女装じょそうとおりをパレードし、おんな色目いろめ使つかい、スポーツとしょうして人殺ひとごろしをおこなった、と記載きさいしている。

結局けっきょく、ギオラは、エルサレム神殿しんでん包囲ほういして、ようやくヨハネをおさえた。しかしながら、このあいだに、さらにべつ派閥はばつ結成けっせいされ、エルアザルがヨハネの勢力せいりょく一部いちぶうばった。つたえられるところでは、エルサレムが内戦ないせん状態じょうたいおちいり、神殿しんでん参拝さんぱいるエルサレム市民しみん神殿しんでんない死体したいのぼらなければならなかったという。

ローマぐんそう司令しれいかんティトゥスはエルサレムにたいして兵糧ひょうろうおこなうことをけっし、さらにユダヤじんがわ降伏ごうぶく勧告かんこくしたが、ギオラやエルアザル、ヨハネら強硬きょうこう牛耳ぎゅうじるユダヤじんがわ一切いっさい勧告かんこく無視むしした。

70ねん、ローマぐん一斉いっせい攻撃こうげきによりエルサレムは陥落かんらく。ギオラはエルサレム市内しないかくれたが、やがて発見はっけんされ、ローマへ連行れんこうされてタルペーイアのいわ処刑しょけいされたとつたわっている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]