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シャビエル・アルサリュス

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シャビエル・アルサリュス
Xabier Arzalluz
生年月日せいねんがっぴ (1932-08-24) 1932ねん8がつ24にち
出生しゅっしょう スペインの旗 スペインギプスコアけんアスコイティア
ぼつ年月日ねんがっぴ (2019-02-28) 2019ねん2がつ28にち(86さいぼつ
死没しぼつ スペインの旗 スペインバスクしゅうビスカヤけんビルバオ
出身しゅっしんこう サラゴサ大学だいがく
ぜんしょく 司祭しさい
所属しょぞく政党せいとう バスク民族みんぞく主義しゅぎとう(PNV)
宗教しゅうきょう ローマ・カトリック

在任ざいにん期間きかん 1980ねん1がつ18にち - 1984ねん1がつ18にち

在任ざいにん期間きかん 1985ねん1がつ18にち - 2004ねん1がつ18にち

スペインの旗 スペイン国会こっかい下院かいん 議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1977ねん6がつ15にち - 1980ねん2がつ1にち
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シャビエル・アルサリュス・アンティアXabier Arzalluz Antia, 1932ねん8がつ24にち - 2019ねん2がつ28にち[1][2]は、スペインアスコイティア出身しゅっしん政治せいじ。1979ねんから2004ねんまでバスク民族みんぞく主義しゅぎとう(PNV)の党首とうしゅつとめた。はハビエルなど、せいはアルサユスなどとも。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1932ねん、アルサリュスはバスク地方ちほうギプスコアけんアスコイティアカルリスタ家庭かていまれた[3]ビスカヤけんドゥランゴにあるイエズスかい学校がっこうまなび、1960年代ねんだいにはアラゴン地方ちほうサラゴササラゴサ大学だいがく法学ほうがく哲学てつがく学位がくい取得しゅとくした。その、ドイツのフランクフルト・アム・マイン神学しんがくまなび、ドイツのキリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎかんする論文ろんぶん発表はっぴょうした。バスク地方ちほうもどるとイエズスかい司祭しさいとなり、ふたたびフランクフルトで、またマドリードごしたのち、ビスカヤけんビルバオにあるイエズスかいけいデウスト大学だいがくはたらいた。フランコ独裁どくさい政権せいけん末期まっきの1969ねん存在そんざいおおやけにはみとめられていなかったバスク民族みんぞく主義しゅぎとう(PNV)にくわわり、1971ねんにはビスカヤけん支部しぶちょうとなった[3]。また、世俗せぞくかえり、結婚けっこんした。

1977ねんそう選挙せんきょと1979ねんそう選挙せんきょには、ギプスコアけん選挙せんきょから出馬しゅつばして当選とうせんした。首相しゅしょうアドルフォ・スアレス会談かいだんしてバスク自治じち憲章けんしょう制定せいていへのみちひらき、その憲章けんしょうぶん策定さくてい貢献こうけんした。また、「アリアガの精神せいしん」とばれるこの憲章けんしょう輪郭りんかく沿って、バスク民族みんぞく主義しゅぎとうのための戦略せんりゃくえがいた。1980ねんにはカルロス・ガライコエチェア党首とうしゅ辞任じにんし、アルサリュスが党首とうしゅ就任しゅうにんした。一時いちじてきにロマン・スドゥペやヘスス・インサウスティが党首とうしゅつとめることはあったものの、アルサリュスは2004ねんまでながらく党首とうしゅつとめた。この期間きかんちゅう、バスク民族みんぞく主義しゅぎとうバスク自治じちしゅう議会ぎかいだいいちとう維持いじし、ときにはバスク連帯れんたいなどとう連立れんりつしながら政権せいけん維持いじした。

1980年代ねんだい、バスクしゅうレンダカリ政府せいふ首班しゅはん)のにあるガライコエチェアはとうからの自律じりつくるしんでいた。アルサリュスは個々ここ党員とういん意見いけんえた組織そしき権威けんい存在そんざい主張しゅちょうした。1986ねんにはバスク民族みんぞく主義しゅぎとう内部ないぶ分裂ぶんれつし、ガライコエチェアは党内とうない左派さはあつめてバスク連帯れんたい(EA)というしん政党せいとう結成けっせいした[4]

2019ねん2がつ28にちバスクしゅうビスカヤけんビルバオにて86さい死去しきょ[5]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

アルサリュスはバスク民族みんぞく主義しゅぎとう主要しゅようなスポークスマンであり、毎週まいしゅう日曜日にちようびにはバスク地方ちほう発行はっこうされている日刊にっかんデイア意見いけん公開こうかいした。また、「バスク民族みんぞく主義しゅぎとう」や「バスク祖国そこく」などの、バスク民族みんぞく主義しゅぎとう集会しゅうかい最中さいちゅうにはおおくの公共こうきょうスピーチをおこなった。バスク民族みんぞく主義しゅぎとう支持しじしゃかれる一方いっぽうで、スペインの一般いっぱん国民こくみんあいだでも人気にんきがある党首とうしゅのひとりだった[6]

イタリアのキリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎ党首とうしゅであるフランチェスコ・コッシガジュリオ・アンドレオッティとは、相互そうご敬服けいふくねんっていた。ヨーロッパのキリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎ政党せいとうからの接触せっしょくがありながら、スペインの保守ほしゅ政党せいとうである国民党こくみんとう(PP)からの圧力あつりょくのために、1990年代ねんだいにバスク民族みんぞく主義しゅぎとうキリスト教きりすときょう民主みんしゅインターナショナル離脱りだつせざるをなかった。

政治せいじ活動かつどう以外いがいには法学ほうがく教授きょうじゅとしても活動かつどうしており、1999ねんまではビルバオデウスト大学だいがくで、バスクによる憲法けんぽう教授きょうじゅつとめていた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Jokin Lecumberri (2019ねん3がつ1にち). “Muere Xabier Arzalluz, la voz indómita del nacionalismo” (Spanish). La Vanguardia. オリジナルの2019ねん3がつ1にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190301165150/https://www.lavanguardia.com/politica/20190301/46760419856/xabier-arzalluz-pnv.html 2019ねん3がつ2にち閲覧えつらん 
  2. ^ Parliamentary assembly, Council of Europe”. Council of Europe. 2013ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ a b Xabier Arzalluz” (Spanish). Biografias y Vidas. 2013ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  4. ^ Ormazabal, Mikel (2013ねん1がつ12にち). “Un partido al mismo compass” (Spanish). エル・パイス (Ediciones El Pais). http://ccaa.elpais.com/ccaa/2013/01/11/paisvasco/1357930861_263148.html 2013ねん2がつ4にち閲覧えつらん 
  5. ^ Mikel Ormazabal (2019ねん2がつ28にち). “Muere Xabier Arzalluz, histórico dirigente del PNV” (Spanish). El País. オリジナルの2019ねん3がつ1にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.fo/63GU6 2019ねん3がつ2にち閲覧えつらん 
  6. ^ Staff (1997ねん1がつ6にち). “Gonzalez, el lider mas valorado, aventaja en dos centesimas a Aznar” (Spanish). エル・ムンド (Unidad Editorial Informacion General S.L.U.). http://www.el-mundo.es/1997/01/06/espana/06N0028.html 2013ねん2がつ4にち閲覧えつらん