出典 しゅってん : フリー百科 ひゃっか 事典 じてん 『ウィキペディア(Wikipedia)』
スルト
スルト (アラビア語 ご :سرت)は、リビア の都市 とし 。2013年 ねん の人口 じんこう は約 やく 8万 まん 人 にん 。
シドラ湾 わん 沿岸 えんがん に位置 いち し、トリポリタニア 東 ひがし 端 はし の都市 とし である。スルト県 けん の県 けん 都 と 。トリポリ とベンガジ を結 むす ぶ幹線 かんせん 沿 ぞ いに位置 いち し、さらにここからフェザーン の中心 ちゅうしん 都市 とし であるセブハ への道路 どうろ も分岐 ぶんき する要衝 ようしょう である。1942年 ねん にムアンマル・アル=カッザーフィー がここで生 う まれた。
かつてシドラ湾 わん は大 だい シルティス(Syrtis Major、現在 げんざい のチュニジアにある小 しょう シルティス との区別 くべつ のため「大 だい 」をつけられた)と呼 よ ばれており、スルトという地名 ちめい はこれに由来 ゆらい する。スルト周辺 しゅうへん にはフェニキアの植民 しょくみん 市 し マコメデス=エウファランタ(Macomedes-Euphranta)があり、地中海 ちちゅうかい 南岸 なんがん の街道 かいどう の要衝 ようしょう であったが、歴史 れきし 的 てき に重要 じゅうよう な中心 ちゅうしん 地 ち となったことはなかった。
トリポリタニア に興 おこ ったカラマンリー朝 あさ の崩壊 ほうかい 後 ご 、1842年 ねん にオスマン帝国 ていこく はトリポリタニアの支配 しはい 再建 さいけん のためにマルサト・アル・ザアフラン(Marsat al Zaafran、「サフランの港 みなと 」)要塞 ようさい を建設 けんせつ した。この要塞 ようさい は後 のち にカスル・アル・ザアフラン(Qasr al Zaafran、「サフランの城 しろ 」)、カスル・セルト(Qasr Sert)と呼 よ ばれた。1912年 ねん にイタリア がこの地 ち を占領 せんりょう した後 のち 、要塞 ようさい は修復 しゅうふく されその周囲 しゅうい にスルトの町 まち ができあがった。スルトは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち に石油 せきゆ 採掘 さいくつ により小 ちい さな町 まち から都市 とし へと発展 はってん した。
大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
スルトにある人民 じんみん 会議 かいぎ 場 じょう (Mathābah al-Madīnah)
スルトの南 みなみ 20㎞のカスル・アブー・ハーディー(Qasr Abu Hadi)のテントで生 う まれ、スルトの学校 がっこう に通 とお ったカッザーフィーが1969年 ねん のクーデターにより権力 けんりょく を握 にぎ ると、カッザーフィーは自 みずか らの親族 しんぞく や出身 しゅっしん 部族 ぶぞく のカッザーファ部族 ぶぞく から積極 せっきょく 的 てき に登用 とうよう を行 おこな ったため、スルトはカッザーフィー政権 せいけん の強固 きょうこ な支持 しじ 基盤 きばん となった。カッザーフィーの根拠地 こんきょち であると同時 どうじ にトリポリタニアに属 ぞく するとはいえ中心 ちゅうしん からは遠 とお く離 はな れており、リビアを構成 こうせい するトリポリタニア・キレナイカ ・フェザーンの三 さん 地方 ちほう からほぼ等距離 とうきょり にあるため、テント型 がた の巨大 きょだい な国際 こくさい 会議 かいぎ 場 じょう ワガドゥグー・コンベンションセンターが建設 けんせつ され、行政 ぎょうせい 機関 きかん や全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ (国会 こっかい に相当 そうとう )等 とう がこの町 まち に移 うつ されるようになった。
1999年 ねん 9月9日 にち 、アフリカ統一機構 あふりかとういつきこう の首脳 しゅのう 会議 かいぎ がスルトで開催 かいさい され、カッザーフィーからアフリカ連合 れんごう が提案 ていあん された[1] 。
2007年 ねん 10月にはダルフール紛争 ふんそう の講和 こうわ 会議 かいぎ がスルトで開催 かいさい された[2] 。
2008年 ねん から2009年 ねん にかけて、スルトを首都 しゅと トリポリ や第 だい 二 に の都市 とし ベンガジ と結 むす ぶ鉄道 てつどう の建設 けんせつ 計画 けいかく が中国 ちゅうごく 鉄建 てっけん やロシア鉄道 てつどう と交 か わされた[3] [4] 。
リビア内戦 ないせん 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
2011年 ねん リビア内戦 ないせん においては、スルトはカッザーフィー体制 たいせい 支持 しじ の姿勢 しせい を打 う ち出 だ し、市民 しみん による反 はん 政府 せいふ 蜂起 ほうき は起 お こらず[5] 、8月 がつ 23日 にち に首都 しゅと トリポリが陥落 かんらく し、カッザーフィー政権 せいけん が事実 じじつ 上 じょう 崩壊 ほうかい した後 のち も、カッザーフィー派 は が立 た てこもり抗戦 こうせん の拠点 きょてん とした。降伏 ごうぶく を促 うなが す勝利 しょうり したリビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい (反 はん カッザーフィー派 は )の投降 とうこう 勧告 かんこく にも応 おう じなかったため、スルトでは両派 りょうは による激 はげ しい市街 しがい 戦 せん が起 お こった。2011年 ねん 10月 がつ 20日 はつか 、リビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい がスルトを制圧 せいあつ すると同時 どうじ に、カッザーフィーを拘束 こうそく (後 のち に死亡 しぼう )したことにより、カッザーフィー派 は と国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい の内戦 ないせん は幕 まく を降 お ろすこととなった[6] 。
2015年 ねん 現在 げんざい 、リビアはイスラム系 けい のトリポリ政府 せいふ 、世俗 せぞく 派 は のトブルク政府 せいふ 、その他 た の中小 ちゅうしょう 武装 ぶそう 勢力 せいりょく が割拠 かっきょ している状態 じょうたい で再 ふたた び内戦 ないせん に発展 はってん しかねない状況 じょうきょう 下 か にあり、スルトはISIL 系 けい 武装 ぶそう 勢力 せいりょく の実効 じっこう 支配 しはい 下 か にある。背景 はいけい にはリビア内戦 ないせん で最大 さいだい の激戦 げきせん 地 ち となった事 こと に加 くわ え、カッザーフィーを最後 さいご まで支持 しじ し、匿 かくま っていた事 こと による新 しん 政府 せいふ からの冷遇 れいぐう や、進 すす まない戦後 せんご 復興 ふっこう への不満 ふまん が原因 げんいん と考 かんが えられる。
2016年 ねん 5月 がつ 12日 にち 、リビア統一 とういつ 政府 せいふ 側 がわ の民兵 みんぺい 組織 そしき はスルト奪還 だっかん 作戦 さくせん の開始 かいし を発表 はっぴょう 。イスラム国 こく 勢力 せいりょく 側 がわ に攻勢 こうせい をかけ、同年 どうねん 中 ちゅう に市内 しない の大 だい 部分 ぶぶん を奪還 だっかん している[7] 。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 地理 ちり その他 た