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シンド・ガライ

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シンド・ガライ
ガリオネスとシンド・ガライ、1906ねん撮影さつえい

シンド・ガライ(Sindo Garay、出生しゅっしょうめいアントニオ・グメルシンド・ガライ・ガルシア (Antonio Gumersindo Garay Garcia)、1867ねん4がつ12にち - 1968ねん7がつ17にち)は、サンティアーゴ・デ・クーバまれ、ハバナ死去しきょしたキューバトローバのミュージシャン、トロバドール(シンガーソングライター)。ペペ・サンチェス弟子でし。トローバのよん偉人いじんのひとりであった。ガライは、スペインじんアラワクぞく血統けっとういていた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ガライは、ソン時代じだい[1]トローバの楽曲がっきょく作家さっかとして、もっと卓越たくえつした存在そんざいであり、その最良さいりょう作品さくひんぐんなんとなくうたわれ、録音ろくおんされてきた。「Perla marina」、「Adios a La Habana」、「Mujer bayamesa」、「El huracan y la palma」、「Guarina」をはじめ、多数たすう楽曲がっきょくが、キューバの文化ぶんかてき伝統でんとう一部いちぶとなっている。「La tarde」などは、後代こうだいのアーティストたちによってもしばしばげられている[2]。ガライは、楽譜がくふむことができず、アルファベットすらようやく16さい自学じがくしたほどであったが、人々ひとびと楽譜がくふめ、また録音ろくおんのこされた。生涯しょうがいつくった楽曲がっきょくは600きょくのぼるという[2]

ながあいだ、ガライは長男ちょうなんのガリオネス(グアリオネクス:Guarionex)とデュオをんでうたっていた。ほかにも息子むすこ2人ふたりむすめ1にんがあり、いずれにもインディアンふうけていた。

1890年代ねんだいには、キューバ独立どくりつ戦争せんそうかかわり、一時いちじイスパニョーラとうハイチドミニカ共和国どみにかきょうわこく)への移住いじゅうかんがえた。実際じっさいに、うつんだものの、つまとともに帰国きこくし、1906ねんにはハバナき、1926ねんには、リタ・モンタネール英語えいごばんたちの一座いちざくわわってパリ巡業じゅんぎょうし、3ヶ月かげつにわたって自作じさくきょくうたった。かれはラジオの放送ほうそうにも出演しゅつえんし、録音ろくおんをおこない、近代きんだいしていく時代じだいにまでびた。ガライはしばしば、「ホセ・マルティフィデル・カストロ両方りょうほう握手あくしゅしたやつはそんなにおおくないよ」とべていた。ふるいトローバからあたらしいトローバの時代じだいにまたがってきたカルロス・プエブラは、ガライについて、「シンドは100さい誕生たんじょうなんもやったんだよ。かねがなくなるたびにね!」と冗談じょうだんべている[3][4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ コンパイ・セグンド(キューバ)”. Rimshot Co., Ltd.. 2020ねん3がつ28にち閲覧えつらん。 “本来ほんらいはトリオ・マタモロス、シンド・ガライといった「ソン」の時代じだいのシンガーだった。”
  2. ^ a b SINDO GARAY シンド・ガライ / Antologia De Sindo Garay シンド・ガライ・アンソロジー”. Ahora Corporation. 2020ねん3がつ28にち閲覧えつらん
  3. ^ Sublette, Ned 2004. Cuba and its music: from the first drums to the mambo. Chicago. p298
  4. ^ de Leon, Carmela 1990. Sindo Garay: memorias de un trovador. La Habana. :90だいとなったガライがかたるライフ・ストーリーをまとめたもので、16ページにおよ作曲さっきょく作品さくひんのリストが付録ふろくとなっている。