ジュルジ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジュルジ(? - ?)は、モンゴル帝国ていこくつかえた将軍しょうぐん一人ひとりで、サルジウト出身しゅっしん。『もと』などの漢文かんぶん史料しりょうでは重喜しげよし(zhòngxǐ)としるされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ジュルジの祖父そふタブイルだい2だい皇帝こうていオゴデイつかえてきむちょう遠征えんせい活躍かつやくした人物じんぶつで、まんにん隊長たいちょうにんじられていた。ちちのトクチャルはタブイルのあといでだい4だい皇帝こうていモンケみなみそう遠征えんせい従軍じゅうぐんし、1259ねん(おのれ)には十字じゅうじ寨を攻略こうりゃくする功績こうせきげた。ジュルジはこのころからちちしたがって戦場せんじょう功績こうせきげており、ある戦場せんじょうでは左足ひだりあしたっても奮戦ふんせんつづけたため、みなみそう遠征えんせい指揮しきかんクビライより直々じきじきねぎらいをけたという[1]

そのちちトクチャルがくなるとジュルジはあとぎ、モンケの(1260ねん)帝位ていい継承けいしょう戦争せんそうこるとクビライ即位そくい支持しじした。1262ねん(ちゅうすべ3ねん)には璮のらん鎮圧ちんあつ功績こうせきげ、よく1263ねん(ちゅうすべ4ねん)からは莒州駐屯ちゅうとんした。1265ねん(いたりもと2ねん)、ジュルジはクビライのいのちによって十字路じゅうじろじょうきずき、ここを拠点きょてんみなみそうとのたたかいに従事じゅうじした。1267ねん(いたりもと4ねん)にはブカをひきいて泗州攻撃こうげきした。このとき、蔡せんひきいる部隊ぶたいてきへい包囲ほういけたため、ジュルジみずからが奮戦ふんせんしてを救出きゅうしゅつしたという逸話いつわのこっている。よく1268ねん(いたりもと5ねん)にはクピライのしたいれかんし、クビライはその功績こうせきよみして白金はっきんきむくら弓矢ゆみやあたえた[2]

1274ねん(いたりもと11ねん)にはせい攻撃こうげきしたみなみそうぐん撃退げきたいし、よく1275ねん(いたりもと12ねん)にはみなみそう将軍しょうぐんひさげ轄をやぶってふりしゅう進出しんしゅつした。1276ねん(いたりもと13ねん)なつ6がつみなみそうみやこみつるきょうざいによる攻撃こうげき撃退げきたいし、よく7がつにはみなみそう将軍しょうぐんにわたいしゅうやぶった。これらの功績こうせきによりあきらいさむ大将軍だいしょうぐん・婺州そうかんダルガチ昇格しょうかくし、そのまもなくくなった。ジュルジの死後しご息子むすこけいまごあといだ[3]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ もとまき133列伝れつでん20じゅうでん,「重喜しげよしたばりょ糾氏。とうやめことふとそうため招討使せいしんやす河南かなん、授金とらあらためせいぎょうまんそつちちだつ察剌襲職しゅうしょくとしおのれしたがえみなみせいやぶ十字じゅうじ寨。時重ときしげしたがえくだりせんまたしばしばとし左足ひだりあしちゅう流矢ながれや勇気ゆうきえきばいおやろう、曰『なんじねんようのうためちんせんりょく如是にょぜふかよしみなお』。ちちそつ重喜しげよし襲職しゅうしょく
  2. ^ もとまき133列伝れつでん20じゅうでん,「ちゅうすべさんねんしたがえせい有功ゆうこうよんねんいのちりょうへい鎮莒しゅういたりもとねんたてまつうまちく十字路じゅうじろじょう、備守禦、重喜しげよしつねりつへいゆうげきよんねんしたがえしょうはなせい泗州。とき蔡千戸為宋兵所囲、重喜しげよし奮戦ふんせんすくいねんにゅう覲、みかどよしみ其功、たまもの白金はっきんきむくら弓矢ゆみや修正しゅうせいじょう
  3. ^ もとまき133列伝れつでん20じゅうでん,「じゅういちねんそうへいかこえせいしたがえ大軍たいぐんせんはいじゅうねんしたがえさざなみうみしょしろまたはいそうすすむひさげ轄、とげ駐兵ちゅうへいふりしゅうじゅうさんねんなつろくがつそうみやこみつるきょうざいりつらいおさむむかいせん、却之。あきなながつしたがえ大軍たいぐん襲撃しゅうげきそうすすむにわしば于泰しゅうすすむあきらいさむ大将軍だいしょうぐん・婺州そうかんたち魯花あかそつけいまごかさね

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • うし靖裕やすひろ「モンゴル統治とうち四川しせんにおける駐屯ちゅうとんぐん」『たていのちかん文学ぶんがくだい619ごう、2010ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき『モンゴル帝国ていこく大元おおもとウルス』京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2004ねん
  • もとまき133列伝れつでん20