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ジョン・ハワード (監獄かんごく改革かいかく運動うんどう)

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ジョン・ハワード

ジョン・ハワード(John Howard, 1726ねん9月2にち - 1790ねん1がつ20日はつか)は、英国えいこくベッドフォードシャーしゅう長官ちょうかんで、英国えいこく最初さいしょ監獄かんごく改革かいかく運動うんどう

概要がいよう

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1773ねんにベッドフォードシャーしゅう長官ちょうかん任命にんめいされたハワードは当初とうしょ、ただしゅう長官ちょうかん職務しょくむから監獄かんごく問題もんだいりかかった。しかし次第しだい犠牲ぎせいしゃかなしみやハワード自身じしん愛国心あいこくしんがハワードのしんおおきな位置いちめるようになる。1755ねん発生はっせいしたリスボンだい地震じしん遭難そうなんしゃ救助きゅうじょかおうとしたハワードが、ななねん戦争せんそう勃発ぼっぱつのためにフランスの捕虜ほりょになった経験けいけんこう活動かつどう重要じゅうよう契機けいきとなったとひろわれている。1756ねん王立おうりつ協会きょうかいフェロー選出せんしゅつ

活動かつどう

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程度ていどかる被疑ひぎしゃ看守かんしゅ巡回じゅんかい裁判さいばん書記しょき手数料てすうりょうはらわなければふたた監獄かんごく拘禁こうきんされるという問題もんだいたいし、しゅう治安ちあん判事はんじ看守かんしゅ俸給ほうきゅう支払しはらうべきと上申じょうしんしゅう当局とうきょくがこのような費用ひよう負担ふたんする先例せんれいがあればみとめるという返答へんとうがあったが、どこでも同様どうようのことがおこなわれているばかりだった。この悲劇ひげき特質とくしつと、その程度ていどについての完全かんぜん知識ちしきようと監獄かんごくあるくことになる。監獄かんごくだけでなく懲治いん調しらべ、監獄かんごくねつ天然痘てんねんとう蔓延まんえん重罪じゅうざいじんばかりか債務さいむしゅうまでも大量たいりょう犠牲ぎせいになっていることをったハワードは、1774ねん3がつ議会ぎかい証言しょうげん庶民しょみんいんから感謝かんしゃあらわされる。1777ねんに「監獄かんごく事情じじょう」を刊行かんこうする。そのもヨーロッパ各地かくち徹底てっていして実地じっち調査ちょうさし、監獄かんごく改革かいかく主唱しゅしょう。1790ねん、ロシアで伝染でんせんびょう治療ちりょうたっていたときに、みずからもそのやまいによってたおれる。墓碑銘ぼひめいは「ジョン・ハワード。だれであれ、この墓碑ぼひのまえにものはすべて、その友人ゆうじんのまえにっていることになる」。ハワードの報告ほうこくしょは、基本きほんてき伝聞でんぶんはいし、直接ちょくせつたことだけを記述きじゅつするかれ姿勢しせいとあいまって、社会しゃかいいちきゅう資料しりょうとなっている。

参考さんこう文献ぶんけん

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ジョン・ハワードちょ 川北かわきたみのる森本もりもと真美まみやくじゅうはち世紀せいきヨーロッパ監獄かんごく事情じじょう岩波書店いわなみしょてん、1994ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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