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ジョージ・ベラス・グリノー

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ジョージ・ベラス・グリノー
George Bellas Greenough
マキシム・ガウチさく肖像しょうぞう
生誕せいたん (1778-01-18) 1778ねん1がつ18にち
ロンドン
死没しぼつ 1855ねん4がつ2にち(1855-04-02)(77さいぼつ
国籍こくせき イングランド
研究けんきゅう分野ぶんや 地質ちしつがく
出身しゅっしんこう ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくペンブルック・カレッジ
ゲオルク・アウグスト大学だいがくゲッティンゲン
指導しどう教員きょういん ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ
影響えいきょう
けた人物じんぶつ
ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハジーン=アンドレ・ドリューク英語えいごばん
プロジェクト:人物じんぶつでん
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ジョージ・ベラス・グリノー(George Bellas Greenough, 1778ねん1がつ18にち - 1855ねん4がつ2にち)はイギリスの地理ちり学者がくしゃ地質ちしつ学者がくしゃ。イングランドとウェールズの地質ちしつ作成さくせい、および地質ちしつがく学問がくもんてき制度せいどてき確立かくりつへの貢献こうけんられている。弁護士べんごしをしていたこともあってべんじゅつけており、ロンドン地質ちしつ学会がっかい初代しょだい会長かいちょうとしてった年次ねんじ報告ほうこく当時とうじ地質ちしつがく研究けんきゅう方向付ほうこうづけるほど影響えいきょうりょくがあった。

業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

王立おうりつ協会きょうかい会員かいいんであったことにくわえ、ロンドン民族みんぞくがく協会きょうかい(the Ethnological Society of London)、ロンドン・リンネ協会きょうかい王立おうりつ地理ちり学会がっかい(最初さいしょ評議ひょうぎいんであり、1839ねんから1840ねんまでは会長かいちょうつとめた)、Society for the Diffusion of Useful Knowledge所属しょぞくしていた。また1831ねん英国えいこく科学かがく振興しんこう協会きょうかい(the British Association for the AdvancementofScience、現在げんざいthe British Science Association)の設立せつりつにあたって中心ちゅうしんてき役割やくわりたすなど、自然しぜん科学かがくけいしょ学会がっかいへの貢献こうけんおおきかった。

グリノーはウィリアム・スミス英国えいこく地質ちしつ出版しゅっぱん(1815)ののちかたちで、1820ねんにイングランドとウェールズの本格ほんかくてき地質ちしつ出版しゅっぱんした(ただしスミスの地質ちしつ無断むだん利用りようして製作せいさくされたものであった)。晩年ばんねんには英国えいこく統治とうちのインドの最初さいしょ地質ちしつ製作せいさくした。

かれ地図ちず作成さくせいにあたって一般いっぱん理論りろんてき予断よだんはいして各地かくち地質ちしつ地理ちり情報じょうほう詳細しょうさい整理せいりする手腕しゅわんけていたが、その一方いっぽうでスミスのったような化石かせき観察かんさつもとづく地層ちそう区分くぶん推定すいてい方法ほうほう(地層ちそうるいじゅう法則ほうそく)には理解りかいしめさなかった[1]

青年せいねん[編集へんしゅう]

グリノーは同名どうめいのジョージ・ベラスの子供こどもとしてロンドンでまれた。そのちち民法みんぽう博士はかせ会館かいかん(Doctor's Commons)の事務じむ弁護士べんごし(proctor)として成功せいこうしていた人物じんぶつであり、はははセント・ポールだい聖堂せいどうがあるラドゲイト・ヒル(Ludgate Hill)で薬剤師やくざいしをしていたトマス・グリノーの一人娘ひとりむすめである。6さいとき父母ちちはは相次あいついでに、母方ははかた祖父そふ養子ようしとなる。祖父そふかれ当初とうしょスラウ(Slough)ちかくのソルトヒル(Salthill)の学校がっこうつづいてイートンこうかせた。かれはその時期じきんだ祖父そふ遺志いしでグリノーせい自分じぶん名前なまえくわえるようになる。

1795ねん、ケンブリッジのペンブルック・ホール (Pembroke College、現在げんざいペンブルック・カレッジ)に進学しんがくし、3年間ねんかん法律ほうりつまなんだが、卒業そつぎょうしないまま1798ねん9がつゲッティンゲン大学だいがく留学りゅうがくする。 どう大学だいがくでも法律ほうりつ勉強べんきょうつづけたが、ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ影響えいきょう自然しぜん傾倒けいとうするようになる(1840ねんブルーメンバッハのさいし、グリノーはかれのことを「ドイツのジョン・ハンター」とんで地理ちり学会がっかい追悼ついとうぶんいている[2])。また一時いちじフライベルク鉱山こうざんアカデミー(Freiburg Mining Academy)でもアブラハム・ゴットロープ・ウェルナーもと鉱山こうざんがくまなんだ。

ゲッティンゲン留学りゅうがく時代じだいどう時期じき留学りゅうがくしていた詩人しじんサミュエル・テイラー・コールリッジちかしくなっている(1804ねん、グリノーはコールリッジがマルタとうさい行程こうてい現地げんちでのしょく手配てはい一役ひとやくった[3])。 その1799ねんには、グリノーは鉱物こうぶつ収集しゅうしゅう目的もくてきすくなくとも2かいハルツ山地さんちき、そのうちいちかいはコールリッジが同伴どうはんしている。

帰国きこく[編集へんしゅう]

地質ちしつがく研究けんきゅう[編集へんしゅう]

1801ねんにイギリスに帰国きこくする。その国内こくないやフランス・イタリアを周遊しゅうゆうをし、そのなかでコーンウォール地方ちほうペンザンス(Penzance)ではハンフリー・デービー出会であう。 そのウェストミンスターけてからはロンドンの王立おうりつ研究所けんきゅうじょ活発かっぱつかかわるようになり、デーヴィやウィリアム・ウォラストン講演こうえん聴講ちょうこうしたり、とう研究所けんきゅうじょ秘書ひしょすう年間ねんかんつとめるなどした。

1805ねんには弁護士べんごしジェイムズ・スキーンとともにスコットランドを、1806ねんにはデーヴィとアイルランドをまわり、地質ちしつがく知見ちけんふかめていった。

1807ねん王立おうりつ協会きょうかい会員かいいんになり、またデーヴィが「地質ちしつがくちいさな談話だんわクラブ("a little talking Geological Club")」(1807ねん11月13にちWilliam Pepysへの手紙てがみ)とんでいた、鉱物こうぶつ学者がくしゃたちのあつまりにもかおすようになった。このクラブが端緒たんしょとなり、ロンドン地質ちしつ学会がっかい同年どうねん設立せつりつされた。 当時とうじ王立おうりつ協会きょうかい会長かいちょうジョセフ・バンクス地質ちしつ学会がっかい王立おうりつ協会きょうかい管轄かんかつきたかったために設立せつりつ反対はんたいしており、デーヴィはじのメンバーはくことになった。しかしグリノーは自立じりつした学会がっかいとして組織そしきするという当初とうしょ計画けいかくかかわり、1811ねんには地質ちしつ学会がっかい会長かいちょうしょくくなど、学会がっかい設立せつりつ発展はってん貢献こうけんした(そのも1818ねんと1833ねん会長かいちょう再選さいせんしている)。

その活動かつどう[編集へんしゅう]

1807ねん腐敗ふはい選挙せんきょとして有名ゆうめいなサリーしゅうガットンにおいて議員ぎいん選出せんしゅつされ、1812ねんまで議席ぎせきっていたが、議会ぎかい議事ぎじろくにはかれ活動かつどうをした記録きろくはない。 1803ねんから1811ねんまで、地質ちしつがく研究けんきゅうにいそしむかたわらでロンドンとウェストミンスターのLight Horse Volunteerとばれる志願しがん民兵みんぺいだんにも所属しょぞくしていた。しかし1819ねんピータールーの虐殺ぎゃくさつ軍隊ぐんたい権力けんりょく乱用らんようであるとかんがえ、人道的じんどうてき理由りゆうからその民兵みんぺいだんした[4]

地質ちしつ編纂へんさん[編集へんしゅう]

当初とうしょから地質ちしつ製作せいさく関心かんしんをもっていたグリノーは、1808ねんにイングランドとウェールズの様々さまざま地層ちそう境界きょうかいせん調査ちょうさ・スケッチし、1810ねんには地質ちしつ作成さくせいのために国内こくないまわった。1812ねん地質ちしつ学会がっかいに"nine maps of England with the principle strata sketched in"を提出ていしゅつし、学会がっかい評議ひょうぎかいからよりだい規模きぼなイングランドとウェールズの地図ちず作成さくせいするよう要請ようせいされた。しかし、当座とうざ地形ちけい図版ずはんしつ満足まんぞくのいくものではなく、1814ねんまでは準備じゅんびできなかった。

Geological Map of England and Wales (1820)

その、イングランドとウェールズの地方ちほうにいた学会がっかいメンバーが各地かくち岩石がんせき地層ちそう詳細しょうさい提出ていしゅつし、それらをグリノーが地質ちしつとしてまとめげて編纂へんさんすることになった[5]フランシス・ベーコンてき帰納きのう主義しゅぎしゃであったグリノーは、詳細しょうさい情報じょうほうあつめて体系たいけいすることで岩石がんせき配置はいちパターンを経験けいけんてきみちびすことを目指めざした。情報じょうほう収集しゅうしゅうたっては、ウィリアム・バックランドとともにイングランドの岩石がんせき調査ちょうさをしたほかウィリアム・ダニエル・コニベアヘンリー・デ・ラ・ビーチ , Henry WarburtonThomas Webster(とう地質ちしつ下図したず製作せいさくをした)、John Farey Sr.J. HailstoneDavid MushetThomas Biddleアーサー・エイキン様々さまざま地質ちしつがく関係かんけいしゃからの協力きょうりょくている[6]。 1820ねんにグリノーはこうして編纂へんさん製作せいさくした地図ちずGeological Map of England and Walesとして出版しゅっぱんした(だい2はんが1840ねんだい3はんが1865ねん出版しゅっぱんされている)。この地図ちずは、初期しょき地質ちしつ学会がっかいがグリノーを中心ちゅうしんとして組織そしきした地質ちしつ作成さくせい委員いいんかいのプロジェクトの集大成しゅうたいせいであった。

剽窃ひょうせつ問題もんだい[編集へんしゅう]

ただし、グリノーは1815ねんにすでにウィリアム・スミスさき地層ちそう区分くぶん色分いろわけした画期的かっきてき地質ちしつ出版しゅっぱんしていたことをっており、自身じしん地層ちそう描写びょうしゃにおいてスミスからの盗用とうようあきらかであった。しかしそれにもかかわらず、グリノーはスミスの功績こうせきみとめようとしなかった。地質ちしつ同年どうねん出版しゅっぱんした学術がくじゅつ報告ほうこくしょでは、グリノーは1804ねん時点じてんでスミスが地図ちず製作せいさく着手ちゃくしゅしていたのはっていたが、ながあいだ出版しゅっぱん見込みこみがないため「スミスが実質じっしつてきにその仕事しごと放棄ほうきしたものとかんがえ、自分じぶんいだ」のであり、「スミスの地図ちず出版しゅっぱんされるまでたことはなかった」と主張しゅちょうしている[7]。スミスからの無断むだん借用しゃくようだい2はんにもあり、グリノーの死後しご出版しゅっぱんされただい3はん(1865)になってようやくタイトルに"on the basis of the original Map of William Smith, 1815"という表記ひょうきくわわった[8]

グリノーと地質ちしつ学会がっかいがスミスと共同きょうどう作業さぎょうをしなかったことの理由りゆうとして、労働ろうどうしゃ階級かいきゅうのスミスにたいするかれらのスノッブな態度たいどげる意見いけんがある[9] が、一方いっぽうで、R. Laudenのように、グリノーはスミスがおこなったような化石かせき種類しゅるいから岩石がんせき地層ちそう性質せいしつ分類ぶんるいしていく方法ほうほう懐疑かいぎてきであった、という学術がくじゅつてき理由りゆうほう説得せっとくてきであるとする見解けんかいもある[10]。グリノーは化石かせきふくまれるたね現生げんなましゅことなるという理由りゆうで、化石かせきデータは地層ちそう相対そうたい年代ねんだい岩石がんせき堆積たいせき状態じょうたい推定すいていするのには使つかえないとかんがえており、またスミスがもちいていた地層ちそう(stratum)やそう(formation)といった概念がいねんにも疑念ぎねんいていた。

現在げんざい、スミスとグリノーの地図ちずは、ロンドンのバーリントン・ハウス(Burlington House)の地質ちしつ学会がっかい玄関げんかんホールの中央ちゅうおう階段かいだん付近ふきんならんでけられている。

1819ねんには、グリノーは8つのエッセイからなるA Critical Examination of the First Principles of Geology出版しゅっぱんし、なりせつ(Plutonism)をふく当時とうじ地質ちしつがくかんする様々さまざまあやまった知見ちけんたいして批判ひはんてき検証けんしょうおこなった。

インド地質ちしつ製作せいさく[編集へんしゅう]

General Sketch of the Physical and Geological Features of British India (1855)の一部いちぶ - Zoomable

1843ねんグリノーは、当時とうじイギリス統治とうちにあったインドの地質ちしつ作成さくせいかった。1852ねんにはベンガル・アジア協会きょうかい(the Asiatic Society of Bengal)のためにヒンドゥスターン地図ちずつくり、1854ねんにはインド全体ぜんたい地質ちしつを“General Sketch of the Physical and Geological Features of British India”として出版しゅっぱんした(ひがしインド会社かいしゃは1850ねん鉄道てつどういたばかりであったため、地理ちりてき情報じょうほう不可欠ふかけつだったという背景はいけいがある)。グリノー自身じしんはインドにったことがなかったが、英国えいこく地質ちしつ作成さくせいとき同様どうようひがしインド会社かいしゃ役人やくにん将校しょうこう現地げんち人々ひとびとからの情報じょうほう収集しゅうしゅうによってこの地質ちしつ編纂へんさんした。 [11] ひがしインド会社かいしゃ完成かんせいした地質ちしつを60購入こうにゅうし、現地げんち配布はいふしている[12]

晩年ばんねん遺産いさん[編集へんしゅう]

Kensal Green Cemeteryにあるグリノーのはか

グリノーは高齢こうれいになっても大陸たいりく旅行りょこうつづけ、76さいとき地質ちしつ研究けんきゅうのためにイタリアと東欧とうおう(コンスタンティノープル)にったが、途中とちゅう浮腫ふしゅ (dropsy) が原因げんいんでナポリで1855ねん4がつ2にち死去しきょした。グリノーの化石かせきコレクションはロンドン大学だいがく地質ちしつ学部がくぶ寄贈きぞうされ、手記しゅきとう大学だいがく図書館としょかんにグリノー文書ぶんしょコレクションとして保管ほかんされている。

西にしオーストラリアのグリナフがわは、ジョージ・グレイ隊長たいちょうによるパース(Perth)北部ほくぶ探索たんさくをグリノーが後援こうえんしたことにちなんで、1839ねん名付なづけられた。その地域ちいき小麦こむぎ生産せいさん成功せいこうしたことで、入植にゅうしょくグリナフとして発展はってんした[13]


Richard Westmacottによるグリノーの大理石だいりせきぞう地質ちしつ学会がっかい保管ほかんされている。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Kölbl-Ebert, M. (2009). "George Bellas Greenough's 'Theory of the Earth' and its impact on the early Geological Society". The Making of the Geological Society of London. Ed. Cherry Lewis、Simon J. Knell. The Geological Society Special Publication, 2009, p.126
  2. ^ Address to the Geographical Society of London, 25 May, 1840. p.3
  3. ^ Sultana, Donald (1969), Samuel Taylor Coleridge in Malta and Italy., Oxford: Blackwell, p. 429. Wyatt, John.F. (1995), "George Bellas Greenough: a Romantic geologist", Archives of Natural History, 22 (1): 61–71, doi:10.3366/anh.1995.22.1.61
  4. ^ Kölbl-Ebert, 116
  5. ^ Lauden, R. (1987), From Mineralogy to Geology: The Foundations of a Science 1650-1830, Chicago: The University of Chicago Press, ISBN 0-226-46950-6
  6. ^ Woodward, H. B. (1907), The History of the geological Society, London: Longmans
  7. ^ “…I have been accused of having acted, if not an unfair, at least an ungenerous part, by trespassing upon ground, which I knew to be, by right of pre-occupancy, his [Smith]. I certainly did know, as early as the year 1804, that such a map was begun; but I appeal to all the friends of Mr Smith, with whom I have conversed upon the subject, and especially to the individual who complains of my conduct, whether he, and they did not, for a long time afterwards, in consequence of a variety of circumstances which it is unnecessary to detail, consider its completion, and still more its publication, hopeless. In the belief that the work had been virtually abandoned by Smith, it was undertaken by me.…Mr Smith’s map was not seen by me till after its publication, and the use I have since made of it has been very limited. The two maps agree in many respects, not because the one has been copied from the other, but because both are correct.…” [from Greenough, G B, ‘Memoir of a Geological Map of England: to Which are Added, an Alphabetical Index to the Hills, and a List of the Hills Arranged According to Counties’ (1820), p4.] George Bellas Greenough's 'A Geological Map of England and Wales', 1820. The Geological Society. 2018ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  8. ^ The History of the Geological Society of London, by Horace Bolingbroke Woodward (1907), p.208
  9. ^ Winchester 2001, pp. 224–240
  10. ^ Lauden, R (1977), "Ideas and Organizations in British Geology: A Case Study in Institutional History", Isis, 68(244): 527–538, doi:10.1086/351872
  11. ^ General sketch of the physical and geological features of British India. The Geological Society. 2018ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  12. ^ Greenough, G.B.(compiler) (1857). Correspondence on the subject of the geological map of India. Madras: A. H. Hope.
  13. ^ "History of country town names – G". Western Australian Land Information Authority. 2018ねん2がつ17にち閲覧えつらん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]