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ズヴィアド・ガムサフルディア

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ズヴィアド・コンスタンティノヴィッチ・ガムサフルディア
ზვიად კონსტანტინესძე გამსახურდია


任期にんき 1991ねん4がつ14にち1992ねん1がつ6にち

出生しゅっしょう (1939-03-31) 1939ねん3月31にち
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽうトビリシ
死去しきょ (1993-12-31) 1993ねん12月31にち(54さいぼつ
グルジアの旗 グルジア、サメグレロ

ズヴィアド・ガムサフルディアZviad Gamsakhurdia、ზვიად კონსტანტინეს ძე გამსახურდია、1939ねん3月31にち - 1993ねん12月31にち)は、ソ連それんグルジア(げん・ジョージア)政治せいじ作家さっか文学ぶんがくしゃミングレルけいである。民主みんしゅてき選出せんしゅつされた最初さいしょグルジア大統領だいとうりょうだが、独裁どくさいしゃともひょうされる。

1965ねんから教会きょうかい活動かつどう参加さんかし、トビリシのシオニ教会きょうかい会議かいぎ議員ぎいんとなった。1970年代ねんだいはじめからグルジア作家さっか連盟れんめい会員かいいん

1974ねんからモスクワ人権じんけん擁護ようご関係かんけい維持いじし、人権じんけん擁護ようご会報かいほう現行げんこう事件じけん記録きろく」にグルジア国内こくない事件じけん定期ていきてき掲載けいさいした。同年どうねん、「グルジア人権じんけん擁護ようごイニシアチブ・グループ」を創設そうせつ国際こくさいアムネスティ・ソビエト・グループ会員かいいん1975ねん5月からグルジア文学ぶんがく雑誌ざっし「オクロス・サツミシ」(かね羊毛ようもう)の編集へんしゅうちょう1976ねんから、メラブ・コスタワ共同きょうどうでもう1つのグルジア雑誌ざっし『サカルトヴェロス・モアンベ』(グルジア通報つうほう)を発行はっこう。1976ねん1がつからグルジア・ヘルシンキ・グループ会員かいいん

1977ねん4がつ7にち、コスタワととも逮捕たいほされ、1978ねんなつダゲスタンに2年間ねんかん追放ついほうけい宣告せんこくされる。1979ねん6がつ特赦とくしゃ帰国きこく、グルジア科学かがくアカデミー・グルジア文学ぶんがく研究所けんきゅうじょ先任せんにん科学かがく職員しょくいんとしてはたらく。

1988ねん1991ねんせいイリヤ・プラヴェドヌイ協会きょうかい共同きょうどう議長ぎちょう、「円卓えんたく-自由じゆうグルジア」(グルジア円卓えんたく会議かいぎ)ブロックの指導しどうしゃ1990ねん11月からグルジア最高さいこう会議かいぎ議長ぎちょう1991ねん5月26にち初代しょだいのグルジア大統領だいとうりょう選出せんしゅつされる。民主みんしゅ改革かいかくとして政治せいじてき経歴けいれきかさねたガムサフルディアであったが、政権せいけん掌握しょうあく次第しだい独裁どくさいてき政治せいじ手法しゅほう終始しゅうしし、野党やとうからは独裁どくさいしゃ非難ひなんびた。

1992ねん1がつ6にちクーデターによりグルジアから追放ついほうされ[よう出典しゅってん]チェチェン・イチケリア共和きょうわこく亡命ぼうめいした。1993ねん9月に帰国きこくしたが、同年どうねん12月31にち、グルジア西部せいぶのサメグレロで死亡しぼう死亡しぼう状況じょうきょうについては詳細しょうさいがよくかっていないが、遺体いたい頭部とうぶに2はつ銃弾じゅうだん命中めいちゅうした状態じょうたい発見はっけんされた。暗殺あんさつ自殺じさつ、さらには戦闘せんとうまれて死亡しぼうしたなど、いくつかのせつがある。のちにチェチェンの首都しゅとグロズヌイ埋葬まいそうされた。しかし、そのはじまったチェチェン戦争せんそうによってガムサフルディアのはか紛失ふんしつし、行方ゆくえからなくなっていたが、2007ねんはか場所ばしょあきらかになり、遺体いたい検視けんしのち改葬かいそうのためグルジアにはこばれた。改葬かいそうしきトビリシ教会きょうかいおこなわれ、当時とうじ大統領だいとうりょうミヘイル・サアカシュヴィリおおくの市民しみん参列さんれつした。

ガムサフルディアの最期さいごをテーマにした『ヒブラむら英語えいごばん』という映画えいが制作せいさくされ、日本にっぽん岩波いわなみホールで2017ねん公開こうかいされた[1]

エドゥアルド・シェワルナゼ政権せいけんでは独裁どくさいしゃだったとして否定ひていてき評価ひょうかされていたが、近年きんねん、グルジアを分裂ぶんれつからすくおうとした「愛国あいこくしゃ」として名誉めいよ回復かいふくされている。大統領だいとうりょう経験けいけんしゃで、自身じしん強硬きょうこうなグルジア民族みんぞく主義しゅぎしゃとしてられるサアカシュヴィリも「立派りっぱ政治せいじであり、愛国あいこくしゃだった」と称賛しょうさんしている。大統領だいとうりょう在任ざいにんちゅうにはトビリシの幹線かんせん道路どうろにガムサフルディアのかんしたり、シェワルナゼ政権せいけん拘束こうそくされていたガムサフルディアの支持しじしゃ32にん釈放しゃくほうしたりしている。

家族かぞく経歴けいれき

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ちち著名ちょめい文学ぶんがくしゃコンスタンティネ・ガムサフルディア

ガムサフルディアは2結婚けっこんしている。最初さいしょつまダリ・ロルアとのあいだには、コンスタンチン・ガムサフルディアという息子むすこがいる。

ガムサフルディアの2番目ばんめつまであるマナナ・アーシュヴァッツェ・ガムサフルディアは、独立どくりつグルジアの初代しょだいファーストレディとなった[2][3]夫妻ふさいにはツォトネとギオルギという二男じなんがいた。

トビリシ大学だいがく西欧せいおう言語げんご学部がくぶ卒業そつぎょう哲学てつがく科学かがく博士はかせ

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ ヒブラむら(ジョージア映画えいがさい作品さくひん情報じょうほう岩波いわなみホール(2018ねん06がつ10日とおか)2019ねん4がつ8にち閲覧えつらん
  2. ^ “First Ladies of Independent Georgia”. Georgian Journal. https://www.georgianjournal.ge/politics/35194-first-ladies-of-independent-georgia.html 
  3. ^ “First Ladies of Independent Georgia”. (2018ねん10がつ29にち). オリジナルの2018ねん11月3にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181103003135/https://www.georgianjournal.ge/politics/35194-first-ladies-of-independent-georgia.html 2020ねん4がつ21にち閲覧えつらん 
公職こうしょく
先代せんだい
創設そうせつ
グルジアの旗 グルジア大統領だいとうりょう
初代しょだい:1991 - 1992
次代じだい
エドゥアルド・シェワルナゼ