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タデア・ヴィスコンティ

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タデア・ヴィスコンティ
Taddea Visconti

出生しゅっしょう 1352ねんごろ
ミラノ
死去しきょ 1381ねん9月28にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
バイエルンおおやけりょうミュンヘン
埋葬まいそう 神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
バイエルンおおやけりょう、ミュンヘン、聖母せいぼ教会きょうかいドイツばん?
配偶はいぐうしゃ バイエルンこうシュテファン3せい
子女しじょ ルートヴィヒ7せい
イザボー
家名かめい ヴィスコンティ
父親ちちおや ミラノ僭主せんしゅベルナボ・ヴィスコンティ
母親ははおや レジーナ・デッラ・スカラ
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タデア・ヴィスコンティTaddea Visconti, 1352ねんごろ - 1381ねん9月28にち)は、ミラノ僭主せんしゅベルナボ・ヴィスコンティむすめ。10まんグルデンもの巨額きょがく持参じさんきんけられ[1]、バイエルンこうシュテファン3せいとついだ。フランスおうシャルル6せいイザボー・ド・バヴィエール母親ははおやである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ベルナボ・ヴィスコンティとつまレジーナ・デッラ・スカラあいだの15にん子供こどもなかでは年長ねんちょうだったとかんがえられる。

1365ねんちちはバイエルン公爵こうしゃく同盟どうめい関係かんけいきずくため、公爵こうしゃく自分じぶん家族かぞくあいだじゅう縁組えんぐみむすぶことにした。1365ねん8がつ12にち[2]、タデアとバイエルンこうシュテファン3せい、タデアのおとうとパルマ領主りょうしゅマルコとシュテファン3せいおとうとフリードリヒおおやけむすめエリーザベトの、2くみのカップルの婚約こんやく成立せいりつした。ヴィッテルスバッハヴィスコンティはさらに交渉こうしょうつづけ、1366ねん、1367ねんには同盟どうめいかんするあらたな書状しょじょう作成さくせいされている。1366ねん10がつ、バイエルンがわからゲルツはくマインハルト6せいドイツばん仲人なこうどやくとしてつかわされ[3]、ミラノ宮廷きゅうてい正式せいしき結婚けっこんもうみをおこなった[4]よく11がつ、ベルナボは同盟どうめい締結ていけつのために全権ぜんけん委任いにんした返礼へんれい使節しせつをバイエルンにおく[5]、この使節しせつはまたこのじゅう縁組えんぐみについてのハプスブルクからの承認しょうにんをもけた[6]。1367ねん4がつ、ミラノでタデアの持参じさんきん手渡てわたされ[7]、そのがくは10まんグルデンという巨額きょがくのぼった。バイエルン公爵こうしゃくがマルコにとつぐエリーザベトこうおんなのために工面くめんできた持参じさんきんが4まん5000グルデンだったため、バイエルンがわきで5まん5000グルデンの丸儲まるもうけをした。シュテファン3せいはこの巨額きょがく持参じさんきんすべ自分じぶん領地りょうちでの建築けんちく事業じぎょう資金しきんとうじた[8]

婚姻こんいんかんする交渉こうしょうのち、タデアはバイエルンに輿入こしいれし、1367ねん婚礼こんれいおこなわれた。結婚けっこん彼女かのじょおっとシュテファン3せい一緒いっしょに、ミュンヘンランツフートブルクハウゼンインゴルシュタットつバイエルン公爵こうしゃく各地かくち居館きょかん転々てんてんとしながららした。1376ねん9がつ29にち、タデアはおっととそのおとうとで1374ねんよりシュヴァーベン帝国ていこく地方ちほう総督そうとくフォークト)をつとめていたフリードリヒこう一緒いっしょに、アウクスブルク滞在たいざいしていたことがわかっている。タデアとしゅうとのマルガレーテ・フォン・ツォレルン[9]は、アウクスブルクから大量たいりょうのワインだるおくられ、そのおかえしとしてこのよる公爵こうしゃく主催しゅさい舞踏ぶとうかいもよおしたのである[10]。1380ねんなが不在ふざいにしていたミュンヘンに帰還きかんしたときに、公爵こうしゃく夫人ふじんタデアは同市どうし市民しみんから10ポンドもの重量じゅうりょうかねおくられた[11]よく1381ねん、29さいほどで死去しきょした[12]

タデアの遺体いたいはミュンヘンの聖母せいぼ教会きょうかいドイツばん埋葬まいそうされた可能かのうせいがあるが[13]彼女かのじょはかいまだにつかっていない[14]おっととのあいだ2人ふたりバイエルン=インゴルシュタットおおやけルートヴィヒ7せい(1368ねん - 1447ねん)とフランス王妃おうひイザボー(1370ねん - 1435ねん)は、どちらもはは公爵こうしゃく夫人ふじんおもをいつまでも大切たいせつにしていた。ルートヴィヒ7せい人々ひとびとははのことをおぼえておけるようドイツばんいのりの対象たいしょうしゃの1番目ばんめははえていたし、イザボー王妃おうひパリでの宗教しゅうきょう記念きねんしのいのりに、おっとシャルル6せい両親りょうしん祖父母そふぼとともにははタデアをしの対象たいしょうしゃとしている[15]バイエルン州立しゅうりつ図書館としょかん所蔵しょぞうされている、14世紀せいき制作せいさくされたうつくしい装飾そうしょくきのどきいのりしょにはヴィッテルスバッハとヴィスコンティ紋章もんしょうわさってえがかれており、タデアを仲立なかだちとした両家りょうけむすびつきの時代じだいおもさせる[16]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Hans Patze (1981), "Die Wittelsbacher in der mittelalterlichen Politik Europas", Zeitschrift für bayerische Landesgeschichte (ドイツ), vol. Band 44, pp. 33–79, insbesondere S. 72–73, online
  • Beatrix Schönewald (2004), "Die Herzoginnen von Bayern-Ingolstadt", Sammelblatt des Historischen Vereins Ingolstadt (ドイツ), vol. Band 113, pp. 35–54, insbesondere S. 36–38
  • Theodor Straub (1988), Max Spindler, Andreas Kraus (ed.), "Bayern im Zeichen der Teilungen und Teilherzogtümer", Handbuch der bayerischen Geschichte (ドイツ) (2. ed.), München: C. H. Beck, vol. 2. Band, pp. 196–287, insbesondere S. 214, ISBN 3-406-32320-0
  • Theodor Straub (1992), "Die fünf Ingolstädter Herzoginnen", Bayern-Ingolstadt, Bayern-Landshut. 1392–1506. Glanz und Elend einer Teilung (ドイツ), Ingolstadt: Stadtarchiv Ingolstadt, pp. 43–50, insbesondere S. 43–44, ISBN 3-932113-06-3
  • Theodor Straub (1968), "Die Mailänder Heirat Herzog Stephans III. des Kneißels und Das wirkliche Geburtsjahr Herzog Ludwigs des Bärtigen und seiner Schwester Isabeau de Bavière", Sammelblatt des Historischen Vereins Ingolstadt (ドイツ), vol. Band 77, pp. 5–12, online

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Aufgrund der Höhe ihrer Mitgift so bezeichnet etwa von Benno Hubensteiner, Bayerische Geschichte, München 1952, S. 126. Ebenso Karin Kaltwasser, Herzog und Adel in Bayern-Landshut unter Heinrich XVI. dem Reichen (1393–1450), Regensburg 2004, S. 8, Anm. 57 und S. 40, Anm. 201 (PDF).
  2. ^ Straub, Teilungen und Teilherzogtümer, S. 214, Anm. 3, nach Bernardino Corio, Storia di Milano, 2. Band, Milano 1865, S. 220; Straub, Mailänder Heirat, S. 7.
  3. ^ Urkunde vom 7. Oktober 1366, Österreichisches Hauptstaatsarchiv Wien; Brief vom selben Tag, Landesregierungsarchiv Innsbruck (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 8).
  4. ^ Urkunde vom 7. Oktober 1366, Bayerisches Hauptstaatsarchiv München, Staatsverwaltung, Nr. 3582 (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 7).
  5. ^ Urkunde vom 17. November 1366, Bibliothèque Nationale Paris, Manuscript Français 20780, fol. 351 (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 9).
  6. ^ Urkunde vom 13. November 1366, Bibliothèque Nationale Paris, Manuscript Français 6537, fol. 19 (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 10).
  7. ^ Urkunde vom 10. April 1367, Bibliothèque Nationale Paris, Manuscript Français 20780, fol. 350 (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 13).
  8. ^ Laut Straub, Mailänder Heirat, Anm. 25a löste er für mehr als 55.000 Gulden Pfandschaften aus und erhielt so unter anderem die Stadt Neuburg an der Donau und den Zoll zu Ingolstadt.
  9. ^ ニュルンベルクじょうはくヨハン2せいむすめ
  10. ^ Stadtarchiv Augsburg, Baumeisterrechnungen 1376, fol. 240v (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 24).
  11. ^ Stadtarchiv München, Kammerrechnung 1380, fol. 36 (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 25).
  12. ^ Seligenthaler Nekrolog. In: Monumenta Boica, Band 15, S. 539 (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 27).
  13. ^ So Christian Häutle, Genealogie des erlauchten Stammhauses Wittelsbach, München 1870, S. 123.
  14. ^ Straub, Mailänder Heirat, S. 10.
  15. ^ Archives Nationales Paris, KK 45, fol. 15, 47, 75v, 106v, 142; KK 46, fol. 7, 131v (nach Straub, Mailänder Heirat, Anm. 29).
  16. ^ Bayerische Staatsbibliothek München, Clm 6116 (laut Schönewald, Herzoginnen von Bayern-Ingolstadt, Anm. 7). Schönewald nennt es ihr [Taddeas] Gebet- und Stundenbuch (ebenda, S. 36), Straub, Mailänder Heirat, S. 11 sieht nur seine Herkunft aus einer der drei bayrisch-mailändischen Ehen als gesichert an.