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テサロニケの信徒しんとへの手紙てがみいち

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テサロニケの信徒しんとへの手紙てがみいち』(テサロニケのしんとへのてがみ いち)は新約しんやく聖書せいしょなかいちしょ。『テサロニケじんへのだいいち手紙てがみ』、『フェサロニカじんたっする前書ぜんしょ』ともばれる。『いちテサロ』ともりゃくされる。テサロニケは現在げんざいギリシャだい2の規模きぼ都市としテッサロニキ」。5しょうからなる。

本書ほんしょ使徒しとパウロ書簡しょかんなかでももっともはや時期じき、おそらく紀元きげん50ねん[1]から52ねんわりまでにかれたものであるとみなされている。キリスト教きりすときょううち伝承でんしょうから新約しんやく聖書せいしょがくにいたるまで、この書簡しょかん筆者ひっしゃがパウロであることをうたが意見いけんはほとんどない。執筆しっぴつ場所ばしょコリントス(コリント)と推定すいていされる。

テサロニケにキリスト教きりすときょう布教ふきょうしたのはパウロが最初さいしょであり、その教会きょうかいかれ設立せつりつになる。この書簡しょかんは、テモテマケドニアからコリントのパウロのもとへもどったのちで、パウロが テサロニケの教会きょうかい様子ようすっていたとかんがえられる(『使徒しと言行げんこうろく』18:1-5、いちテサロ3:6参照さんしょう)。テモテの報告ほうこくからパウロはテサロニケの教会きょうかい状態じょうたいにあることをよろこびつつも、自分じぶんおしえが間違まちがってとらえられていることにもがついた。パウロはこの手紙てがみによってそれらのあやまりをただし、せいなるものになることをかみのぞんでいるとかさねて強調きょうちょうする。

書簡しょかん全体ぜんたいとおしてパウロは当地とうちキリスト教徒きりすときょうとたちを激励げきれいしている。パウロはかれらが信仰しんこうき、あいふか生活せいかつおくっていることを感謝かんしゃし、かれらの疑問ぎもんこたえている。たとえばキリスト以前いぜん死者ししゃたちがキリストの再臨さいりんともによみがえることができるのかということである。キリストの再臨さいりん時期じきについては、その時期じきについては確言かくげんしないものの、かれらの生存せいぞんちゅうるという前提ぜんていにたっていている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ St. Athanasius Seminary Press, OBS, p. 470 "A.D.50-51 "

関連かんれん項目こうもく

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