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ディック・バーネット

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ディック・バーネット
Dick Barnett
引退いんたい
ポジション SG
基本きほん情報じょうほう
愛称あいしょう Fall Back Baby
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
生年月日せいねんがっぴ (1936-10-02) 1936ねん10月2にち(87さい
出身しゅっしん インディアナしゅうゲーリー
身長しんちょう(現役げんえき) 193cm (6 ft 4 in)
体重たいじゅう(現役げんえき) 86kg (190 lb)
キャリア情報じょうほう
出身しゅっしん テネシー州立しゅうりつ大学だいがく
ドラフト 1959ねん 4
永久えいきゅう欠番けつばん ニックス  12 
選手せんしゅ経歴けいれき
1959-1961
1962-1965
1965-1973
シラキューズ・ナショナルズ
ロサンゼルス・レイカーズ
ニューヨーク・ニックス
受賞じゅしょうれき
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com

ディック・バーネット (Richard "Dick" Barnett, 1936ねん10月2にち - ) は、インディアナしゅうゲーリー出身しゅっしんバスケットボール選手せんしゅ黄金おうごんむかえた1970年代ねんだい前半ぜんはんニューヨーク・ニックス主力しゅりょく選手せんしゅ一人ひとりであり、背番号せばんごう『12』はニックスの永久えいきゅう欠番けつばんとなっている。また"フェイダウェイシュート"のパイオニアてき存在そんざいとしてもられる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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ディック・バーネットことリチャード・バーネットはゲーリー・ルーズベルト高校こうこうでプレイし、1955ねんのシーズンにはわずか1はいしかせず(やぶれた相手あいてオスカー・ロバートソンようし、当時とうじ無敵むてきほこったクリスパス・アタックス高校こうこうだった)、同校どうこうしゅうタイトルにみちびいた。

大学だいがくテネシー州立しゅうりつ大学だいがくでプレイ。バーネットは同校どうこう史上しじょうはつとなるNAIAチャンピオンシップさん連覇れんぱみちびき、バーネット自身じしんは3のオールアメリカン、2ねん連続れんぞくNAIAトーナメントMVPにかがやき、全国ぜんこくオールアメリカンチームにえらばれたはつアフリカけいアメリカじんとなった。大学だいがく通算つうさん成績せいせき平均へいきん23.6得点とくてん11.5リバウンドである。

NBAキャリア[編集へんしゅう]

ナショナルズ~レイカーズ

大学だいがく卒業そつぎょうしたバーネットは1959ねんのNBAドラフトシラキュース・ナショナルズから全体ぜんたい4指名しめいけてNBAりをたす。ルーキーイヤーには12.4得点とくてんよくシーズンには16.9得点とくてん記録きろくするが、新設しんせつされたプロリーグABLのクリーブランド・パイパーズに移籍いせきしたため、ナショナルズでは2シーズンのみのプレイとなった。バーネットはパイパーズを1961-62シーズン優勝ゆうしょうみちびいた。

1962ねんにバーネットはNBAにもどり、ロサンゼルス・レイカーズ入団にゅうだんした。ジェリー・ウェストエルジン・ベイラーらとともにプレイしたバーネットは平均へいきん18得点とくてん前後ぜんこうをあげる有力ゆうりょく得点とくてんげんとして活躍かつやくし、1963ねんにははつNBAファイナル進出しんしゅつ経験けいけんしている。レイカーズでは3シーズンプレイし、1967ねんから今後こんご11シーズンごすことになるニューヨーク・ニックス移籍いせきした。

ニューヨーク・ニックス

レイカーズでは3番手ばんて選手せんしゅだったバーネットは、ニックスではエースとして活躍かつやく移籍いせき元年がんねんにはキャリアハイとなる23.1得点とくてん4.1リバウンドを記録きろくし、はつオールスターにもえらばれた。チームもバーネットの加入かにゅうなが低迷ていめいから脱出だっしゅつするけをつかみ、このシーズンには8シーズンぶりとなるプレーオフ進出しんしゅつたした。よくシーズンにはウィリス・リード入団にゅうだんし、チームの主役しゅやくはバーネットからリードにゆずられるも、リードの加入かにゅうでニックスは王者おうじゃへのみちあゆはじめることになる。

ウォルト・フレイジャー入団にゅうだんした1968-69シーズンには54しょう、さらによく1969-70シーズンにはフランチャイズ記録きろくとなる60しょう記録きろく。ニックスはプレーオフをき、ファイナルではバーネットの古巣ふるす、レイカーズをやぶってチーム史上しじょうはつとなる優勝ゆうしょうたした。

30だい後半こうはんむかえつつあったバーネットははつ優勝ゆうしょうさかい成績せいせき後退こうたいはじめ、またニックスもジェリー・ルーカスらを獲得かくとくするなどチーム改革かいかくすすめた。1972-73シーズンにバーネットの成績せいせき平均へいきん3.3得点とくてんまでんだが、チームはふたたびファイナルの舞台ぶたいち、ふたたびレイカーズをやぶってバーネットは2つのチャンピオンリングを獲得かくとくよく1973-74シーズンに4試合しあいだけプレイしたのち現役げんえきから引退いんたいした。

NBA通算つうさん成績せいせきは14シーズン971試合しあい出場しゅつじょうで、15,358得点とくてん2,812リバウンド、平均へいきん15.8得点とくてん2.9リバウンドだった。

引退いんたい[編集へんしゅう]

引退いんたいレッド・ホルツマンしたでアシスタントコーチをつとめた。

バーネットはニックス在籍ざいせきからニューヨーク大学だいがくかよい、経営けいえいがく学位がくい取得しゅとくし、引退いんたいフォーダム大学だいがく博士はかせごう取得しゅとくした。そのセント・ジョーンズ大学だいがく教鞭きょうべんをとり、スポーツ・マネージメントをおしえた。現在げんざい教育きょういく関係かんけい営利えいり団体だんたい理事りじちょうつとめている。

フェイダウェイシュート・業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

バーネットはジャンプシュートをさいうしろにジャンプしながらシュートする"フェイダウェイシュート"した選手せんしゅとされている。このシュートはディフェンスするほのからよりはなれてシュートをつことができるため、非常ひじょう有効ゆうこう武器ぶきとしてバスケットかいひろまることになる。当時とうじは「question mark jump shot」ともばれ、また本人ほんにんは「Fall back, baby」とんでいた(そのまま本人ほんにん愛称あいしょうとなる)。

おも業績ぎょうせき
  • NAIAトーナメント優勝ゆうしょう:1957ねん, 1958ねん, 1959ねん
  • NBAファイナル制覇せいは:1970ねん, 1973ねん
  • オールスター出場しゅつじょう:1968ねん
  • ナショナル・カレッジゲート・バスケットボール殿堂でんどう
  • テネシー・スポーツ殿堂でんどう
  • 背番号せばんごう『12』はニューヨーク・ニックス永久えいきゅう欠番けつばん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]